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エッセイINDEX

81.だって女の子なんだもん。
80.武器、要するに財産
79.急降下は急上昇のための必要不可欠
78.ずっと続く問答
77.要するに、どどめ色って事
76.人生に山も谷もない。
75.感覚と頭で考える事と。
74.保育園の門。
73.人間だもの。
72.羽化した後は羽を伸ばすものです。
71.特別で、でも特別でない
70.不自由な子供
69.目線の先は家族
68.面白い人
67.歩くのは自分の道
66.信じる事についてのアレコレ。
65.運命の輪みたいな話
64.人の勝手でしょ。
63.磁石のようなもの。
62.変換期
61.一度にいくつも出来ない仕様。
60.「素」
59.焦点が合った話
58.+と−
57.いたたまれない。
56.30歳
55.来し方、行く方
54.未完成。
53.ちっさい。
51.感度良好。
50.所詮、その程度。
49.消費する物語
48.説明文の読めない女
47.ラブレター
46.こっちは甘いがそっちも甘い
45.余計なお世話
44.空洞
43.自分勝手。
42.散文
41.わたしのおとうさん。
40.よく見詰める。
39.自分の中身を覗いてみた
38.輪の中と外。
37.近況
36.贋作
35.出会いとタイミングの話。
34.表面と中身
33.ショートストーリー
32.グループと個人
31.おかあさんの名前
30.母親の強さ2
29.別れ
28.ネット依存症
27.独占浴と嫉妬と愛する事
26.半分のおしつけ
25.インターネットとたいこ
24.関係
23.心の記憶
22.家族論
21.愛されることと愛することと
20.自信が持てないという話
19.甘え下手な人
18.好きっていう気持ちと愛するっていう気持ち
17.人を好きになるということについて
16.友達ってなんだろう?
15.言葉の無力
14.同情
13.相談
12.受身の人
11.言葉のちから
10.入江雅人
9.男と女の友情について
8.友達
7.「彼」へのエール
6.たいこという名前
5.片付けられない人
4.寂しいということ
3.自分が好きということ
2.幸せ・不幸せ
1.恋愛する資格
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だって女の子なんだもん。

月に1回くらいの割合で、ものすごいわがままで手がつけられなくなる日があったりするわけで。

そう、生理。

私のからだやこころに対する生理の影響力は、歳を追うごとに激しさを増してるわけで…最近本当に、自分では手がつけられないってこともすごく多いわけで。

さらに言うと、毎年11月ってのは私がいい感じに凹んでる時期。
理由なんてないんだな。11月だから凹むんだ。
寒くなってくるから。意味もなく心に隙間風がひゅーひゅー。
これで相方がいないと「寂しくて寂しくてしょうがないのー」とか、「私はきっとこれからも一生ひとりでたくましく生きていくんだ…それはちょっと覚悟するにはしんどすぎるかも」とか、どうでもいいことをどうしようもなく考えたりするわけで。

今年は幸い、相方がいるわけです。
ありがたい事に、こんな私を選んでくれた殿方がいるわけです。
私もそんな相方のことをとても大切に思っているわけです。
私がいる事で何かのたしになっていればいいなと思っているわけです。
まだ仲良くなって日が浅いから、お互いなんとなく手探りです。

で、私はさっきからとてもとても寂しいと思っているわけです。
とてもとても不安を感じているわけです。
この寂しさにも不安にも形がない。形がない不安だの寂しさなんてあるわけがないから、きっと都合よくみえないようにしてるんだと思う。自分で。

私はどうしても、自分のことを理解してほしいって想いが強いんですね。
ことに恋愛相手に対して。
きっと誰でもそうだと思うのだけれど。
私は今、伝えたいと思っている事がうまく伝わっていないと感じてるみたい。
話を聞いてもらったなっていう感覚があまりないみたい。


そうか。


要するに、甘えたい。

でもうまく甘えられない。

頼りたい。

でもうまく頼れない。


そして、頼っていいものかどうか、わからない。

それで寂しくて不安。


いいのかこれで。あまりにもふがいなさ過ぎないか私。
こんな風にこんな些細な事でうだうだしてていいのか私。
こんな事すら簡単に聞けない。


開き直って言ってしまうなら。

それが生理。

それが女の子。

そして、私には傍目に見えるような強さとか豪快さってないんだぜ。多分な。


そうか。そういう所は想定外だったよー。って言われちゃうのも怖いんだ。
こんな人だと思ってなかったよ、たいこちゃん。って、それが一番怖いんだね。

こんな事をこんな所に書いている時点でうじうじマックスでメンドクサイ人度180%って感じがするけれど。

全部生理のせいにして書き逃げしよう。そうしよう。


寂しいぞっ。会いたいぞっ。甘えたいぞっ。
色々と立て込んでる今だからなおさら、
よしよしって頭なでてもらいたいぞっ。
大丈夫って言ってほしいぞっ。



そして、あなたが私に何を求めているのか、私はとても知りたい。
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武器、要するに財産

弱っている時に、常に痛感する事を書こう。
それがなければ、今の私はない、と思っていることを書こう。

私には武器がある。それは財産でもある。他のものを攻撃するための武器ではなく、自分を守るための武器。
それが何よりも尊い財産だと思っている。

私の周りにいてくれる人たち。

本当にどうもありがとうございますっ。

私が今あるのは、そして今もこうしているのは、全てそういう人たちのおかげです。
そういうものが自分にあってよかったな。って、ほめてあげたい気分にもなります。

がんばる。
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なんだかな。

っていう按配なのでございます。
疲れる事ばかりが続いている気がします。

うーん…。
やっぱり色々、堪えているみたい。
分かち合いたいなと思う人の不在。
だから一人でいるのだけれど、そういう人を欲していないわけではない、むしろ疲れてるし欲しい。


そんな感じ。


今日こんなことがあったよ、こんなうれしいことがあったよ、こんな面白いことがあったよ、こんな腹立たしいことがあったよ。
こういうことを考えたよ。

そういうことを分かち合う人。

要求してるもののハードルが高い(=私がわがままって事ですね)から、
なかなかそういうことが出来る人が見つからず。

みんなそうなのだろうけれど、誰でもいい、みたいなのが先行している人からのアタックは非常に鬱陶しい。

男女問わず。

あなたの寂しさは私には埋められない。
あなたのやるせなさも私にはフォローできない。
もしかしたらそれは誰にもどうにも出来ないことなのだと思うから、
だからといってあたりに振りまかないで。

と、思ってしまうのはこれ、やはり、自分に余裕がないからでしょう。

まあでも、少々余裕がないのは許してちょうだいよ。
これでもなんとか、落っこちないように頑張ってるんだから。
だからどうか、私をこれ以上疲れさせないで。という気持ちになる。

だったら自分が閉じこもればいいだけなんだけれどね。

ま、なかなか難しいものです。苦笑。
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エロの力。

性欲って人間の三大欲求のひとつだから、そりゃすごいパワー持ってるのは百も承知でこの話。
ここのところ「セカンドライフ」で遊んでいる。

友達に「あそこはアバターでセックスが出来る」と聞いて、私の好奇心がうずうずと疼いたわけです。
とってもリアルなアバターが、素っ裸になって様々な体位で遊べる、えっちスポットがセカンドライフ内に沢山あるのです。

女の子のアバターでいかがわしいSIMをうろうろしていれば、すぐにナンパされてホテルやえっちスポットにつれていかれるわけです。

セックスに必要なアニメーション、モノ、そういうものが溢れている。
顔射とか、体が精液まみれとか、なんかそういうアバターとか、男子・女子の局部アイテムとかがあるわけで…。

そのシチュエーション、バリエーションの豊富さに、これを開発して配布している人がたくさんいる事実に感動。

セックスするたび、(要するに洋服を脱ぐたび)メニューを操ってペニスを装着。という本末転倒にも負けず、ちょっとかわった体位を試したら、女の子の体をペニスが貫通なんていうおかしな事態にも負けず、一生懸命アバター使って女の子を口説いているそんな努力にも感動。
そうやって使っていって、使いづらいところは改善する。改良する。
ものすごいパワーだと思うのね。片手間では出来ないと思うのね。

すごいよ…その原動力って性欲だもの。純粋な。

エロの力はとっても偉大。
人を突き動かす原動力のとても大きなもの。性欲。
愛だのなんだの大義名分つけていても、皆ヤリたい。
そのために労力を惜しまない。そういうのってなんだか素敵だ。

結局、食べて寝て繁殖するってのは、とっても大切なことなのですね。生物として。
それはどの生物も同じ、平等に持っている本能。
食べることと寝ることは、その固体を維持していくために必要なエネルギーになり、繁殖することは、自分の種族を未来へ繋ぐために必要不可欠。

ただただやりたい!という心。
それって結構大切なんだよね。タブー視されてるけどさ。


それは、愛だとか恋人だとか、妙な大義名分つけないと処理できない潔くなさよりも、よっぽど清清しくかっこいい、と私は思うのです。


話は少し飛ぶのだけれど、性欲処理とセックスって混同されがちだし、時に混同しているものなのだけれど、これはこれでちょっと別物だと思っています。

セックスはコミュニケーション。性欲処理はそれでしかないもの。

なのだけれど、これはちょっとタイトルとは趣旨が違うのでまた別の機会に。
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気がついた事。そしてそのお礼。

人生っちゃ何があるのかわかんなくて、どういうものがどういう風に作用していくのかがわからない。
それはとても不思議で面白いものだと痛感しております。

私間違ってたなと。
辛いしんどい。でもそれを乗り越えるって大変なんだ。
で、楽しくない。
ならばそれをひっくり返せばいいんだね。

連絡が来ない、意思の疎通が図れない。
それが寂しい、辛いと思うのは、それだけその人の事が大切だからだ。
その人の事をそれだけ大切と思える気持ちってなかなか持てないことだと。

そんな幸せなことの根本を忘れて、なんで私は苦しんでいるの?ってこと。
もともと恋なんて甘いもの。もともと恋なんて馬鹿みたいなもの。
お祭り騒ぎと同じならば騒いだ者勝ちだわね。

やーん寂しいー(はぁと

みたいな思考回路のこと。
私はちょっと前まで、強くなることが怖かったりした。
こんなに強くなっちゃったら、周りに人が集まらなくなるんじゃないの?という不安。
その怖さはつまり弱さだ。

必要なのは柔軟さ。
何があってもぐにゃっとまげて、すべてをいい方向に取る柔軟さ。
これって多分強いんだけど、この強さはなんだかとっても素晴らしい。
なんだかすごく私らしい。

こういう強さなら私は大歓迎。
で、これってすごく簡単な気がしてきた最近でございます。

思考の癖というのは自転車に乗るのと同じようなもので、いくら言葉で説明してもうまく伝わらない。
それは、「あ、そういうことか」って自分でひらめくしかない。

昨日の夜、どっぷりそんなものに浸かって、そんなものに浸かっている私に辟易としたのでございます。

そう、相手がどうだろうと関係がない。
これはずっと自分で口にしていた言葉なのだけれど、本当の意味でこれが捉えきれてなかったな。
私は私が恋愛をしていることが嬉しい。
誰かを愛することが嬉しい。
その人が好きだという気持ちが自分の中にあることがとてつもなく嬉しい。

浮かれる要素はあれど、しんどくなる要素はないな。

恋愛相談なんかを聞いていると、「なんだかんだで楽しそうね」と思うことがある。
これだ。この「楽しそうね」を自覚すればこれ以上落ち込む必要はない。

そんなものに負けない!は間違ってたな。
そんなものもこんなものも嬉しいことで楽しいことだわ。
そんな私はとっても幸せだわ。


そういうことだ。


ここ2,3週間、そういう風に思えるようなもののヒントがあちこちに転がっていました。


一番大きなヒントをくれたお兄ちゃんへ。
本当にありがとう。あなたのまっすぐさは、おそらく私の中にもあるものだ。
そして私はあなたのその部分がとても好きだ。
私はもう少し、自分の中にある気持ちを大切にしなければいけなかったみたいだ。

私のことを好きだと言ってくれる人が私の好きな人であるという幸せは、ずっと私が欲しかった幸せなんだな。
今、それを手にしている私がいるじゃない。

なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。

それ以外のものがどうだろうと関係ないじゃない。
私と彼氏との間には、私と彼氏しかいないじゃない。
それ以外の問題なんて何もない。


そして、それだけ、その気持ちだけは丸ごと信じることができる、種をこれまで撒いてくれていた彼氏にも心から感謝を。
必要なのはそのまっすぐさ。
そしてそれは、私がもとから持っているまっすぐさではなかったかしら。

彼の言葉を信じられなかったってことだよね。今まで。
顔色伺う必要なんてーないっ。
私は私の気持ちのままに、あの人の事が大好き。


なんかこうやって改めて文章にすると、ものすごい馬鹿なんだよね。
でもね、恋愛って馬鹿にならなきゃ出来ないものだと思う。
色々な可能性を考えるという事は、それだけの弱さ。

でも考える必要なんてないよね。
っていうか考えた時点で何かが停滞するよね。

わーすごいすごい。
そう、こういうことだ。

この先どうにかなるかなんて関係ないじゃない?
私は彼が好きで、彼に会いたい。
彼も私が好きで、私に会いたい。
一緒にいたい。

ならば。

どうして会えないなんてことがあるだろう?
一緒になれるに決まってるじゃん。




この世の中に、そういう気持ちほど強いものも大切なものもないんだから。

世の中の人たちの誰より幸せって言うんじゃないのかな。
こういう風に思えることが。


でね、多分そういう風にしてきた人が私の周りにいる。
それを体現してくれた人に、なによりのありがとうを。
そして、それに気づけた私に、私から「でかした!!!」の花マルを。
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急降下は急上昇のための必要不可欠

人の一生には、自分の力では変えられない宿命というものと、自分の望む力でいくらでも変わる運命というものがあるらしい。おぎゃあと生まれることを決めたときに、自分がこの人生で何をするのかという目標も持っているものらしい。

そう考えると、私の人生の目標というものがおのずと見えてくる。
そしてその目標とは、得てして達成が難しいものだ。
そうだよなぁ。。。どう考えても私の望む未来予想図に対して、今の現状っていうのはとってもハードルが高いもの。

目標というのはそういうもので、ハードルの低い目標などを掲げても仕方がないのでしょう。
そして、私なりに私の速度で少しずつ目標に近づいている事は、実感済み。

ただねえ・・・色々手付かずで残ってる課題っていうのがあるんだよ。
それは、私の本当の不得意分野。
本当にね、よくもまあここまでバランスの悪い人間を作ってくれたと自分でも感心してしまう。

「あなたがいないと生きてゆけない」

なんてことは絶対に言いたくない。そうしたい気持ちがどこかにあるから。
絶対にそうはなりたくない。
私は自分で自分ひとりで生きていける人間になりたい。
それは、相手がいたっていなくたって同じなんだよ、というのがきっと今の課題。

「私今、これで大丈夫?間違ってない?」という漠然とした不安を抱えながら、私は生きてきている。
これはきっと、子供がいるのも大きい。
私が路頭に迷うことは、すなわち子供にも多大な迷惑をかけることになるから。

案ずるより産むが易し。

けれど何も考えないようではだめ。
そして今、私にとって必要なことはなんなのか。
私は子供と私がちゃんと快適に暮らせるような、生活基盤を作らなければいけない。
それを維持しなければいけない。

4年前から比べて、その基盤はだいぶ固まってきたけれど。
揺さぶりかけられると弱いのはどうしようもない、今現在の弱点。

さて、そろそろ本当の弱点に手をつけなければいけないようです。
弱点だけに、切羽つまらないとどうにかしようと思わないのが私。
元来がナマケモノですから。

少し落ち着いて、休憩したかったんだけどまあしょうがない。
そういう時期が来たのならそうしましょう。
そうしないといけないのならそうしないといけない。

あーそれでもこれはしんどいなぁ、なんて、ちょっと前までは愚痴ってた気がするけれど。
その愚痴は今回は言わないでおきましょう。
楽しく楽しく切り抜けましょう。

こんなに自分の生活を大切に考えてる自分がいることに驚き。
そう。そういうの大事ね。
大切、なものはたくさんある。

全てが望みどおりに行くわけじゃない。
ひとつのものに固執して全てが見えなくなってダメにならないように。
そういう気持ちの持ちようの結果は、きっと後からついてくる。

どんな結果だって、納得して受け容れられるように。
だからこそ、自分の基盤を作らなければいけない。もうちょっと頑丈な基礎を。
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ずっと続く問答

「私は私だけは貴方のことをすべて理解したい。
貴方はこういうものを中心に持ってるんだよね。私には分かる」

などと思っていた時代もありました。

「他人のことなど理解出来るはずもない。けれど理解し続けようという姿勢は大事だ。」

などと言いつつ、やっぱり全部理解したい願望があった時代がありました。
それは受動的な支配欲なのだよね。すべてを理解した上で受け入れるという支配。

「願望と現実の境目が分かってればいいじゃない」

と思ってた事もありました。
でもこれも違うな。その考え方はとても不安定。いつ現実を見失う状況になるかが分からない。根っこがないから。知らない間に現実を見失う可能性って、特に恋愛においては低くないことだと思う。

理解したい、受け入れたい願望は、裏を返せば理解して欲しい、受け入れて欲しいという願望に変わる。
腹の底にそんな願望を隠し持ち、表向きでは献身するんだなぁ。


今の彼氏のお話を少し。
彼には理解されたい欲がない。
むしろその逆で、自分の中心部には誰も入れない。誰にも見せないと心に誓っている節がある。
その部分で「でも理解されたい」と思うことがない。

そういう方向で強い人なんだな、おそらく。

それをそれで受け入れてしまって、付き合っていて、しかもその感覚がとても楽だと感じている最近の私。
なぜだろう。

おそらく、隠れていた「理解されたい受け入れられたい」願望が満たされてるからなんじゃあないかなと。

「なんだっていいんだ。全部受け入れるよ」が、前提で私の傍にいて、実際それが見えるから安心しているのでしょう。

この「なんだっていい」はすごいな。
こういう事を本気で言い切れる人に私はきっと初めて出会ったんだと思う。

そこで全信頼を乗せたうえで、彼は私に色々な話をする。
それは大抵私に関する話で、たまにまったく理解出来なかったりする。
理解出来ないと不安になるので、一生懸命理解しようとする。
その過程で、私は彼に色々な質問をぶつける。こういう話だよね?こういうことだよね?と、彼に確認を取りながら。

言葉にしづらいものは、誤解なく伝える事がとても難しい。
私の出した回答に対して、彼はまた言葉を継ぐ。
私はそれを聞いて更なる回答を出す。
彼はまたそれに言葉を継ぐ。


こういう繰り返しが延々と繰り返されている。
これはたまに彼に関したことだったりもする。
それ以外に関する彼の意見だったりもする。


こんなことを繰り返していて、知らず知らずのうちに私が変わったのでしょう。

今、私は彼のすべてを知ろうとは思わない。
けれど、彼が発することは、できるだけ誤解のないように受け止めたいと思っている。

やっぱり何かが変わったんだなぁと思う。

昔は「この人はきっとこういうことが言いたいのだろうと私は思うのだけれど、怖くて聞けない」という状況が(恋愛においては頻繁に)あったのだけれどね。

今はためらいなく聞ける気がする。そして聞いている気がする。
そのずっと続く問答こそが、これから長い関係を続けていく前提の人とは必要不可欠なんだろうなと思う。

同意、同調、同情。

それよりも、その相手が発している何か。伝えたい何か。
それを自分の中で受け入れることが大切。
自分がその内容に同意できるか出来ないかは問題ではなく、そういうことを発しているこの人を、たとえ何が出てきたとしても受け入れて信じるということが大事。


おそらく彼がそうして私を愛しているように。
私もそうして愛するようになるのでしょう。

徐々に徐々に。



理解はその結果ついてくるものなのかもしれないなぁ。
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要するに、どどめ色って事

私には私の思い出や思い入れがある。
誰かには誰かの、それは様々でみんな多かれ少なかれ持っている。
それをどうこうするつもりは、ない。

けれど思い込みによって定義づけられた言葉のひとつで、
その人となりを決め付けることは、幼い。

私はペシミズムは嫌いだ。
そんなもんただただ自分に甘いだけじゃねぇか、と思う。
人が滅ぶのが地球のためだ、なんて人の中にいる人が言うことではない。
そのように時間が流れてそのようになっているのだから、その中にいる人がその存在を否定するのはあまりにも無責任だと思うから。

人に限らず、生を受けてるものは、自己が生き延びるために必死なものだ。
それが普通だから。

そろそろやばいぞ、が、現実味を帯びてきた時に、自己の生存を賭けて必死になるのが当たり前の姿だろうと私は思う。

私は草花ではなく猫でも犬でも家畜でもなく、人として産まれてきた。
人として生まれてきて、日本人として産まれてきて、この時代に産まれてきて、幸運だったなと思う。
幸運以外の何者でもない。それは私の努力の結果でそうなったものではないのだから。

もしかして、他の時代に産まれていたら。
人間ではないものに産まれていたら。
やっぱりその生でよかったな、ラッキーだったな、と思うのかもしれない。
思わないのかもしれない。

それはそう生まれついた人にしか分かり得ない。だから気にするべき事ではない。


自分の手に余る事象を憂いてどうのこうの。
自分の置かれた現状に不満だけを並べてどうのこうの。

あほか、と思う。

自分の手に余る事は、今現在の自分が着手してはいけない事。
それは自分の中心に据えれば据えるだけ、自分がダメになる事。
足元も見ずに遥か彼方を観て現状を嘆く。

あるいは、自分を棚に上げておいてその自分を見ないために嘆く。
悲観する。苦悩する。苦しむ。悩む。
責任を放り投げて欲しいものが手に入らないと、駄々をこねる。

あほか、と思う。

死ぬものは死ぬ。
生きるものは生きる。
運っていうのは運命。
何事にも意味のない、私たちを取り巻くすべてのものは、
何事にも意味がないからこそ、いかようにも意味づけが出来る。

「人生は壮大な暇つぶしだ。」

と、日本橋ヨヲコは言った。
その通り。どうせつぶすなら楽しく暇つぶししたいじゃないか、と思う。

楽してしんどくなるくらいなら、精一杯やって楽しくなった方がいい。


常に常に、世の中にアンテナを。
私と関わるすべての人たちから、得られるものは限りない。
そうやって私はスポンジみたいになって、吸収出来るものは吸収したい。
同意出来るもの、出来ないもの。
好ましいもの、好ましくないもの。
沢山たくさんあるものを。
吸収したらろ過してうにゃうにゃして、噛み砕いて、飲み込めるように。

ごちゃっっっっとした私の中身。
色んな色が混ざって混ざってマーブル模様みたいになって、
とっちらかってるけれど。
私はそのひとつひとつが与えてくれる直感を信じている。

直感は自分の意識できない自分が与えてくれる回答のひとつ。
それは私の経験の賜物の一部分。あるいは大半。
その感覚はだから言葉にすることも難しいし、出来ないことのほうが多いんだけれど。



出た結論がとっぴでも、私がそれを信じられるのは、
言葉にならない直感君が通った道筋を自分なりに分かってるから。
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人生に山も谷もない。

山とか谷とか言うけどさ。
人生。
そうでもないなと思った。今日お風呂に入りながら。

ただ自分がこの道がいい!と思ったところを歩いてるだけだなぁ。
どうも山っていうと頂点がある感じがするし、谷っていうと底がある気がする。でも本当はそうじゃないなぁ。
山も谷もなくて、坂道だったりするだけだなぁ。

それもさ、道ってちゃんとしてるわけでもなくてさ、だだっ広い草原みたいな。
道なの?あ、草ないから一応道?でもまあ草なんて刈れば普通に歩けるよね。みたいな。
なんか人生ってそういうものじゃないかと思ったよ。

上を見上げるんではなくて、行く先を見通すんだなぁ。

そら、上り坂がずっと続いてれば先はずっと上に見えるんだろうけどさ、そこには頂点なんかないよ。終点があるだけ。

で、終点ってどこかって死ぬとこ。

うわぁ、この道登るの大変だなぁやだなぁ って時に妥協して緩やかなとこ行くのだって全然アリだろうし、どうしてもその道がいいからあえてそこ歩いたっていいんだろうし。
たまたまそこにロープーウェイやら車やら飛行機やらがあればそれ使ったっていいじゃない。
それは自分が今までに獲得してきたものなのだから。

自分が苦労してると思ったら大間違い。
苦労なんてしてないよー。ただ自分で選んだ道歩いてるだけ。

「なんで自分ばっかり」

なんて思ったら格好悪いね。
苦労してる人が偉いなんて大間違い。
世の中に偉い人も偉くない人もいない。
格好いい人と格好悪い人がいるだけ。

出来れば格好よく生きたいなぁ。。。。

格好つけると格好悪くなるのもこれ真実。

私は自分で選んだ道を胸張って歩いてる。
だからそれでいい。

そんな私を格好悪いと思う人がいて、好いてくれる人もいて。
だから世の中面白い。


と、そんなコトを今日お風呂に入りながら考えたって話。
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感覚と頭で考える事と。

去年の年末に、結構大きな決断をしました。
自分でもびっくりするくらいあっさりと、決断をしました。
人と人が繋がって、繋がって繋がった先に誰かがいるのだけれど、その繋がり方のなんと簡素なこと。人の縁というのは本当に面白い。


私は、今まで大きな小さな岐路に立つたびにその都度迷っていた。考えていた。立ち止まっていた。そしてすごく怖い思いをしながら決断をしていた。
後悔したくないから。
その選択で自分がどうにもならない方向へ行ってしまう、もしくは今まで目標にして積み上げてきたものが全部崩れてしまって取り返しがつかなくなる事がすごく怖かったから。

失敗しても大丈夫。取り返しはつく。という言葉を私は信じない。
取り返しがつかなくなる事柄や選択もたくさんある事を私は知っているから。
今までの道のりを振り返ると、どうも一直線。どう考えても最短距離。

その順調さが怖くなる。
一歩先すら見えないから怖くなる。
一歩先すら見えないということは、その道が枝分かれしているのかそうでないのかすら見えていないという事。

その自覚だけがあって、結局一歩先が見えないというのは、これは怖い。

それでも自分の感覚を頼りに、ギリギリのところで色々な事柄を回避してきた。
それは自分が自覚する事のない自分自身との対話。
無自覚な自分自身の心、気持ち。そんなもの。

頭で考える事は、色々な不純物にまみれて透明度が低いから。
頭で考える事は、たまに目先の欲に囚われがちだから。
迷う、というのは、自分の純度が下がった結果だと思っている。
いつだって自分自身は、回答を持っている。ひとつだけ。

それは、この先私が何になりたいかという事。
それは、損得とは関係のない事柄。
今、損したように見えても、実はそうではないような事柄。
私の頭は鈍いから、そして私の心の中は混沌としているから、たまにそれが見えなくなる事がある。まことに煩わしいのは自分のややこしさ。
そして愛しくもあるこのややこしさ。

私は私の混沌ごと、丸ごと自分を愛している。
あったこと、起こった出来事、目の前にいる人、それをあるがまま、自分が感じたままをそのまま取り込んでしまえる自分の混沌っぷりが愛しい。

仕分けない、分類しない。

だってそれは、そのものそれだけなのだから。
そのまま丸ごとを自分の中に取り込んで、しかし言葉にも出来なければ絵にも描けない。ただ、「ああ、わかるな」と思うだけ。

こういう感覚が他の人にあるのか私は知らない。
自分で感じるこの感覚を、誰かに伝える術をもたないから。

ただ、私は自分のこの感覚を結構高く評価していて、信じている。
それに従って動いているのは、おそらく私の無意識の部分。

いやだなぁ、と思うことや、気乗りがしないなぁ、と思うことに自分で説明が出来ないのは、それはもう本当に仕方のないこと。

頭では「危ないよ」と警鐘を鳴らす。
でも心はもの凄く安心してしまっている。
嫌だなあという感じがしない。
周囲の人達は声を揃えて「危ないよ」と言う。

危ないよ、の正体も分かってる。自分自身にもそれが見えている。
いつもだったら危ない気持ちがいっぱいするはずなのに、それがない。
自分の気持ちの波が落ちている事も分かってた。
そういう時の直感はアテにしてはいけない事も自覚済み。
でも、いつもはある、「本当にそれでいいの?」的な何かがない。決定的にない。

私は自分の頭の中にある「危ない根拠」を検証する事に決めた。
頼りになるのは自分の脳みそと心だけ。
私はどちら側の声にも耳を傾けつつ、その根拠を検証してみたんだ。

器用じゃないから、回りくどい事は出来ない。ストレートにぶつかる事しか出来ない。
上手くかわす事も言いくるめる事も出来たと思うのだけれど、相手は真摯にそれを受け止めて答えを返してくれた。

私のこんがらがった思考も綺麗に整理してくれた。

そして私の「危ない根拠」は、消えてなくなった。

それは私以外の誰かの事を私が信じるという事。
丸ごとのその人を信じるという事。
そんな大きな事を、私はたった1週間で決めた。
自分でもびっくりする出来事だったよ。
これがどれだけびっくりな出来事なのか、果たしてあの人は理解しているのかどうか私は知らない。

私にとってびっくりするような事が、相手にとってびっくりするような事だという根拠はないから、別に伝わらなくてもいいのかもしれないな。
私にとってはすごく意味のある事だったよ。

そういう決断をしたことが。

流されず、踏みとどまって考えたということが。

一点のかげりも曇りもなく、おそらく私は信じている。
だから悩む事も迷う事もない。
それがきっかけで、自分の周りがよく見渡せるようになっている。
場が見える。本当によく見える。

それがどれだけすごい事なのかを知っているのは私だけでいい。
相手に伝わらなくてもいい。
場がよく見えている事を相手が分かっていればいい。
私の知らないうちに、私の視野が狭まっていれば、きっとあの人は分かる。
その為に私は出来る限りの自分の情報、自分の状況を伝える事を怠ったらいけない。

それは私がそのまま素っ裸になるっていうこと。
それが無理なく出来ている事。
不思議だけれど、人との繋がりの確かさは、時間の積み重ねだけではないのだな。

私は自分の出した結論と自分の下した結論に自信を持っている。
そして、相手にとってなぜ私だったのか、ということをゆっくり時間をかけて理解していけばいいやと思っている。
無理に知ろうとしなくていいやと思っている。

だって私にだって、なんで私にはあの人なの?なんてこと、ちょっとしか分かっていないから。
けれど必要な事だけは分かる。

どうして、の理由がとんでもなくても驚かない。
多分私はそのまま受け入れる。
無理だなと思ったらその旨を相手に伝えるだろう。

でもきっと無理な事はないんだろうな。
私の人生の中間ゴール地点のことを相手が知っている事。
それを見ないようにしていない事。
それだけは分かるから、私は安心出来ているのかもしれない。

一つだけ言えることは、あんな人はめったにいないという事。

それだけが分かっていればいい。
それは私だけが分かっていればいい。
私以外の誰もが分かっていなくても、私が分かっているからそれでいい。

そして、私の大切な大切な扶養家族である子供達に私のその考えが伝わっているらしい事が私は何より嬉しい。

私もどうやら、今は大きな分岐点にいるようだ。
それはそれは大きな分岐点のようだ。
けれど決断してしまった今、何を怖がる事があるだろう。
私は私の心の声に耳を傾けて、冷静でいればいい。
ちゃんと問題を吟味して回答する、それを1回やったから。
次のレベルアップは、そんなに派手に起きないと思う。
次のレベルアップは、静かに暮らして行くうちに、ふと乗り越える類のものだと思う。

静かに静かに、そのレベルアップの線をちゃんと自覚しながらまたぐのだろう。

その先は、まだ私には分らない事。
だからこのままゆっくりとやっていけばいい。
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保育園の門。

それは、団地の花壇と公営グラウンドの隙間の小さな道の突き当たりにある。
アスファルト舗装されていない、道。
真ん中にコンクリブロックがいくつか敷いてある、細い道。
花壇と言っても団地の空いたスペースに、住人が思い思いに花や草木を植えて育てている、そんな花壇。
反対側のグラウンドのフェンス越しには、イチョウの木が植わっている。
わずか30メートルほどのその道だけ、そこ以外の場所とは違った空気が漂う、園児と親と保育士しか使わないその道。



人にはその時代の匂いがある。
生まれたての匂い。
赤ん坊時代の匂い。
幼児時代の匂い。
小学生の匂い。
中学生の匂い。
高校生から20歳くらいまでの匂い。
大学生の匂い。
社会人の匂い。
親になった匂い。
主婦になった匂い。
おじいちゃんおばあちゃんになった匂い。

保育園のその道には、赤ん坊と幼児の匂いがいっぱいだ。



3年前、保育園に通い始めて2ヶ月めくらいの頃に撮った写真がある。
ほんとうに、何気なく撮ったその写真を、私はことあるごとに見ている。
そこには5歳の長男が1歳の娘の手を引いて歩く姿と、娘と4歳の次男が自転車のまえで私を待っている姿が写っている。

行事ごとに、私たちは記録を残したがるのだけれど。
本当に見返して懐かしい気持ちになるのは、こういうなんでもない風景を切り取った写真なのかもしれないなと、ふと思う。

きっと子供たちが思い出す保育園時代の風景は、保育園の門に続くその道だったりするのだろうから。
長男は1年保育園に通って卒業した。
次男は2年。
娘は一番長くて、このままいけば5年間保育園のお世話になることになる。

今、娘は年少クラス。
保育園に通い始めた頃は、娘が幼児クラスで活発に遊ぶ姿が想像出来ないでいた。
頭の中で計算はするものの、それがうまく映像にならないでいた。

自分の環境が離婚によって一変して、それに追いつくのに精一杯だったんだろうなと今にして思う。
娘は3年前と同じようにみえる。
毎日接していれば変化は見えない。みえづらい。

けれど3年前、うまく想像できなかった幼児の姿に、確かに娘はなっている。
下手すればハイハイすら出来ない赤ん坊が6年を経て小学生になって巣立っていく。
それはとても劇的な変化なのだろう、人の一生からすれば。

その姿をずっと見守り受け入れ送り出し続けている保育園という場所がある。


保育士も変われば子供も変わる。

変わらないのは保育園という空間。
その変わらない空気は、きっと、ずっと残り続ける。
保育園の門と、それに続く道はずっとずっと変わらない。
その匂いを、ずっと保ち続けてる。
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人間だもの。

人は、というか、きっと生きてるものはすべて。
固体として進化をし続ける。
種として進化をするのは、各固体が学んできた結果を反映させるに過ぎない。

というわけで私もおぎゃあと産まれてから今までの間に、それ相応に進化を続けているはず、である。
なんだかめまぐるしく変わる昨今の風景。

変わるスピードが早い早い早い。

端的に言うと、私に見る目がない、という身も蓋もない結論になってしまいそうなのだけれど。
見る目養うのも成長で進化ですからね。


さてだいぶ更新が停滞しておりました。
大きな山を乗り切った私だけれど、お産でいうところの、後産。
なんかそういう小さな山場をちょこちょこと乗り越えて今。

今ちょうど町田康なんぞを読んでいるので、文体がいつもと違うのはご愛嬌。

さて・・・
私には見る目がないのではなく、見た感じを信じたり形にしたりする力がどうにもこうにも足りない。
要するに、客観的に冷静になっているときはいいのだけれど、何かの拍子に舞い上がってしまうともうバランス崩れまくりだぞ、みたいな感じでしょうか。

そして、自分の見てきて感じてきたものやことが、それなりに的はずれでもなかったんだなと確信したとき、私の視界はさらに広がる。

そろそろ抜け時ですね、私。

また、少しばかり周囲の風景が変わりそうです。
変わってきたなと実感したのは、先月の後半なのですが。
何か鍵を渡された気分。

これか、この鍵か!な、気分。

ドーンと一気に上ったのが6月。それなりに微調整しているのが今。
やっと少し落ち着いたかな?

ひとつ、すごく変わった事があるのを発見しています。
見る人が見ると、ものすごくドライに映る一面のような気がします。
ま、そんなこと6月の私も言ってたしね。


人は進化をするけれど、その進化の向きってのは360度なわけです。
どっちの方向にも進化できる。
それは、その人の心の持ちよう。

どんな方向へ進んだとしても、それなりの戦利品と知恵は手に入る。
そして私の選んだ方向はこっち、と、胸を張って言える今がある。
その方向がどちらに向いていてもそれは良し悪しという問題ではないのであって、だからそれでいいのだけれどね。

それで相容れない間柄になる人もいるし、自分の気持ちにしっくりこないならばそれでさよなら、で問題はないわけです。

もうね、澱むの嫌いなの。
で、澱んでいると判断したらそこは私にとって気持ちのいい場所ではない。
私が6月頃に知り合ったり急接近した人たちは、少しずつ再び距離をあけていく。

うん。

また少しシャープになったのでしょう。
これ以上シャープになると、私自身のお眼鏡にかなう人たちがいなくなりそうな気もするのだけれど。

だんだん未練というものがどんなものなのか分からなくなってきています。
だって自分の気持ちのままに動いてるから。
人が離れるときは、「こっちからも願い下げ」と思っている人の多いこと多いこと。


準備は万端。このまま行くと平穏で平坦な道が待っているような気がする。
しかしこれじゃあだめなのよ。
なんだかんだとゴタゴタした夏をすごしているうち、またひとつ危なげな弱点が露見。でも乗り越えないとね。

大体、つくりが変わるのだからそんな短期間で行われても困る。
突貫工事にならないように。
丁寧に丁寧に工事していこう。

そしてそんな私は、6月のときよりも今の私のほうが幾分気に入っている。
自分磨きもそろそろ終盤、のような気がします。
さて、次はどこを磨こうかな?
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羽化した後は羽を伸ばすものです。

本当に周囲の手助けのおかげで今の自分があるのです、私の場合。
本当に色々な人に少しずつ助けてもらっていて、私という人間が支えられている。

その支えが少しずつ少しずつ、軽くなっていっている。
ひとりにずっしり、だった支えは、沢山の人に分散されて軽くなっている。
総量としての支えの力も少しずつ軽くなっている。

そのぶん自分で立っているということだ。

私の頭の上で微笑んでいる運命の采配の神様は、どうやら粋なはからいをしてくれている。
その時でない時期に誰かと私を会わせ、その繋がりの結果としての今があったりする。

あの日眠れなかったのも。
あの日なんとなくそこにいたのも。
あの日なんとなく話しこんだのも。

全てに意味があるように思えてくるから不思議だ。

そしてひとつの予感がある。

また色々と転換する時期なのではないかなという予感。

大きなおおかたの道筋は、もう転換に向けて動いている。
そして私はおそらく、そこで何かを産み出した。
たとえて言うなら、今は後産の状態なのだろう。

だから、細かく細かく、わずかな、けれども重大な変化がちょこちょこと起きつつある。

さて私は。
どの目を振ってどの目に乗るべきなのか。
冷静に考えた時、答えはもう出かけていることに気づく。
けれどその答えは、星の数ほどある可能性のたったひとつでしかないということ。
私の出しかけている答えの他にも正解は無数にある。

どの目を私が歩むべきかは、私が決めることでもあり私が決められないことでもある。
しかし、星の数ほどもある可能性のたったひとつを私は選ばなければならない。
宿命の流れ方で、乗れる船も時期も限られてしまうけれど、それはまた意味のあることなのだろう。

そして、やっぱり私は誰かに助けられて、その道の手を引いてもらっている。
手を引いている段階はもう過ぎたか。
遠くからなんとなく行く先を照らしてもらっている、程度の事をしてもらっている。

さて、羽化したチョウチョは羽根を広げる時間が必要です。」
羽根を伸ばしてピーンシャンとした時に、私は一体何を見ているのでしょう。
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特別で、でも特別でない

私は私にとって特別だ。
でもぜんぜん特別じゃない。

誰かと比べて特に秀でてるわけでもない。
むしろ劣っているとさえ思う。
私はすごくもなんともない。

全国全世界30歳平均値で言ったら、平均点ぎりぎり下くらいだろうと思う。

けれど自分にとっての自分の通過点がある。
自分にとっての課題がある。
それを自分のペースでこなして行く事は、きっと出来ている。


スタートラインはそれぞれ違う。
私のスタートラインは、ずいぶんと低いところにあったけれど。
さらに遅咲きだけれど。

私は人が本来生まれながらにして持っているべきものを、
持たずに生まれてきたけれど、それはそれで意味がある事だ。
スタートラインが100m先の人よりも、何かを持っている、と、思う。

そしてそれはきっと大切だな。
ダメな自分を知っていることは大切なんだきっと。
過去を振り返らないなんてもったいない。
過去の恥ずかしいさまざまな記憶は、とても大切な自分の道だ。

痛い記憶も、
出来れば封印したい記憶も、
しっかり残っているのは、今の自分の現在地を知るための大切な材料だ。

それは誇れるのではないか。
あんなにかっこわるくてダメだった自分が、今はこうしてそれをダメだと言える。
昔肯定していた数々の物事を、今は否定している、できる。
けれどもそれを肯定する気持ちは、通ってきた人ならわかるよね。

切り捨てるのは簡単。
理解しないのも簡単。
でも理解できるものは理解しようよ。
理解しつつ切り捨てる事は、きっととっても大事なことだ。

否定をしたら、それだけ人間の幅は薄くなる。

肯定しつつ、切り捨てる事がきっと大切だ。
今の私はそう思っている。

これがまた、1年後3年後10年後に変わるかもしれない。
けれどもその時はまた、この考え方を肯定しつつ、違う選択肢を選ぶのだろう。
きっと自分を肯定するというのはそういうことで、
恥ずかしい過去も間違えてしまったあれやこれも。

人を信じるってことは、きっとそういうことで。
その人が間違っていた事も、恥ずかしい過去も、
今現在間違っていると感じる色々も。
それをそのうちに学んでより高いところへと進んでいける可能性を信じるという事ではないのかな。

人はそれぞれみんなでこぼこで、不自然に飛びぬけているところもあれば、不自然にくぼんでいるところもある。
飛びぬけているところは目立つけれど、本当にいいのは、まんまるってことだから。
上手に上手にならしていって、まんまるを目指している人の、その可能性は信じないといけない。

歩幅が合えば、一緒に歩きましょう。

きっと得るものが沢山あるから。

そうしてきっと、今現在の自分自身に見合った人たちが、
今現在の私の周囲にいる人たち。

すれ違うだけでも、一瞬でも、ずっと長くいることになる人も。
どこかの地点で、同じところにいた人たち。

それを私が、どうして否定できよう。

今は一緒にいることがなくても、確実に過去の私が一緒にいた人たち。
先にどんどん高くへ歩いてしまった人も、ゆっくりゆっくり歩いている人も、
その場に踏みとどまっている人も。

それはみんな、それぞれの過去の未来の今現在の私を映している鏡に過ぎない。
それは、「もしあの時」や「もしこうだったら」の可能性のひとつに過ぎない。

可能性は無限にある。

その中のどれを選ぶかは、今現在の私にかかっている。
私は私の可能性を信じている。
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不自由な子供

「最近あの人来ないねぇ。」

と、息子に言われた実家からの帰り道。
うん。その人はもうおそらく、来ないんだ。
その人のことを、あなたたちが好きなのは、よくわかってる。

「でももう、あの人来ないと思う。だっていっつも『会いたいなぁ』って思ったら来てたけど、今むっちゃん会いたいなぁって思ってるけど来ないもん」

子供は子供で、自分の置かれた環境と折り合いをつけながら日々を暮らしている。
何も感じていないなんてこと、あるわけがないね。

今まで何人の人が私の子供たちに出会って、疎遠になっていっただろう。
それを見ていれば、子供たちにもわかるはずだ。いろいろなことが。


子供ってのは不自由だな。
でもそれが、扶養されているということなんだろう。
子供なりに折り合いをつければいい。

私はこのことで、子供に謝るつもりはないしそんな気も起こらない。

個人的な感情はそりゃああるけれど、そんなものをぶちまけたところで迷惑でしかないだろう。子供にとっても。

「そうだね。多分もう来ないかもしれないなとお母さんは思うよ」
とだけ告げて、この話を終わりにした。


もうちょっとがんばるから、がんばろうよ、勝手な言い分だけどさ。
少しずつ、進んで行けばいい、きっとね。
のんびりのほほん、と、笑って歩いて行きたいものです。
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目線の先は家族

ここのところ、目の向く先が家族。
母であったり、子供達であったり。

あるべきところに視点が戻ってきた感じがして、居場所はもとからあったんだな、と思わせる。
私以外の人間は他人である。
私と同じものではない。
親子だととかくそれを勘違いしがちなのだろう。

「この子は母親に似ている」
「この子はおばあちゃんにしぐさがそっくりだ」
「あんたとこの親子そっくりだね」

遺伝子半分受け継いでいるのだから、似る部分が多いのは当然だろう。
人はなぜ、他者との共通点を見つけたがるのだろう。
なぜ、共通点と相違点の両方を見たがらないんだろう。

人は、ひとりだ。
いつでもひとりだし、ずっとひとりだ。

ひとりを否定したら、自分のいる場所はきっととても居心地が悪くなる。
ひとりだから、自分のホームグラウンドでありうるんだな。家庭。
家があって、一緒に住んでいるだけが家族じゃない。
血の繋がりだけが家族じゃない。

縁あって、遺伝子半分ずつで繋がってる我が母親と我が子供達。
縁あって、同じ遺伝子の別々の部分をもらって暮らしてきた兄弟。

私は親や兄弟からひとりだちして、両手で囲ったスペースの中で子供達を育てている。
私の子供達は、まだ私の庭から出ていない。出るまでにあと少なくとも10年はかかるだろう。
でもきっと、この庭から出ても、彼らは私の家族なんだな。

彼らなりに両手を広げて、囲って、新しい家族を作るんだろう。
そうなったら、ある意味で同志だ。

うん。今、私はこの2つの繋がりを持っている。
そしてそれぞれ少し種類の違った暖かさを持っている。
どちらにも助けられていて、どちらのことも助けている。

で、にこにこ笑っていられる。

うん。私の居場所なんだなぁ、ここ。
いつか、私の囲う両手を繋いで、わっかを倍にしてくれる人が現れるんだろう。
それもひとつの家庭のかたち。
そして、その新しい家庭のかたちの中で、私が学ぶことはきっともっとたくさんある。

私のベースは、家族。家庭。
なんだかそんなことを思うこのごろ。
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面白い人

面白い人が好きだ。
その人の生きてきた道、これから進もうとする道、そんなものが面白い人が好きだ。

おかしなことが言えるということではない。
それは、笑いのセンスのようなもので、ここで言う面白いとは別に考えたい。

自分で考えて納得してきた道を進む人が好きだ。
自分で考えて納得した道が、いくら他人から見て滑稽であったとしても、愚かであったとしても、その道を進まざるを得ないようなまっすぐな人が好きだ。

自分を甘やかさない人が好きだ。
自分に優しい生き方と、自分を甘やかす生き方は違う。
本当の意味で自分に優しい生き方をしている人が好きだ。

そうなりきれない自分を自覚しつつ、それでも心底そうありたいと願って進んでいる人が好きだ。
そもそも、そんなことすら考えられないほど自分の道一直線、という人も好きだ。


「あなたは変人磁石を持ってる」と言われた事がある。
私と仲良くしてくれる人は、少し周囲から浮いてしまう人が多いようだ。
よきにつけ、悪しきにつけ。

否定というものを、出来るだけしたくない。
自分には理解できないけれど、その道をつき進んでいる人を否定したくはない。
それは私と相容れない考えを持っていて、信念をもっているのだから尊重したい。

けれど私の受け入れる幅は、まだまだ狭い。そういう自覚がある。
この幅は考えたり歳を取るごとにどんどん広がってきてはいるけれど。
どんな人とも、まずおなじ目線で話をする事はやめたくない。
年齢や性別や国籍や出身地は、その人を知ったあとでついてくる情報だ。
先にそれを知って判断する事は、出来るだけ避けたい。


自分に理解できないもの、自分が「異質だ」と判断したものを、人は排除しがちだけれど。
私は出来るだけそれをしたくない。
私はなぜその人がそういう信念を持つに至ったのか、その過程を知る事が楽しい。

下世話な好奇心ではない。好奇心には違いないけれど。

「世の中にこう言う考え方をする人がいる」と言うことを知ることは私にとってとても楽しく面白いことだ。

何が自分のためにとって本当に幸せなのか、が、分かっている人は素敵だ。
小さな分かれ道で迷うことはあっても、おおかたの道のりで迷いがないから。
そういう人達に囲まれている私は、幸せだと思う。


それが変人磁石という事ならば、それは私にとって褒め言葉である。
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信じる事についてのアレコレ。

さて、今回は某友人からいただいたお題について、ちょこっと書いてみようかと。

信じちゃう、みたいな話。
親友でも恋人でもいいのだけれど、本当に心の底から信じる間柄があると、それだけで何でも出来ちゃう。その相手と離れる事すら出来てしまう。

私のことを全面的にあなたが信じている事を信じるならば、あなたがどこで何をしていようとあなたは私の大切な人であって、私もあなたにとってかけがえのない人である、ということ。

それは相手を理解するとかしないの問題ではない。
相手の全てを受け入れるということなのだろうけれど、相手のいいところもわるいところもひっくるめて、その人自身を信用して信頼すること。

ある意味で、ホームになるのだな。
そういう関係性がベースになって、自分がどこで何をしていてもあの人は自分の事を信じてくれている。たとえ自分が何をしているのかを相手が知らなくても、自分のしている行動をあの人は信じてくれている、と、思えるならば、ちょっとがんばれちゃうんじゃないのかなぁ、と思うのです。

だって自分の行動の全てを、大切な人が裏付けている事になるのだから。
それは自分にも返って来るもので、そこまで誰かを信じる自分の事を信じる事が出来るようになる。
自分の事を信じるから、相手を丸ごと信じてしまおうと思う自分を信じられるから人は信じるのであって、自分の判断に自信が持てなければこのように愛する事は出来ない。

この世の中で、一番確かなのは自分自身の判断だけなのです。

「あの人だめな人なの。でも私がいなくなったらあの人どうなっちゃうのかしら」

で、踏みとどまるのは逃げでしかない。
自分の優越感を満たしたい、それだけの行為のような気がする。

隠れていようが捻じ曲がっていようがいびつだろうが、そういう色々の核になっている本質を信じる事。

結構やってきているようで、やっていないもの。
それが人を心底信じるということ。

疑い始めたらキリがないんです。
そしてそれはとっても苦しい。
何かをふんぎって丸ごと飛び込む事。
その先にきっと、穏やかな安定があるのだと思ったり。


そしてきっとそれが本来正しい「信じる」っていうことなんだと思った。
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運命の輪みたいな話

全てが運命の定めた出来事とするならば。
全ての出来事は最終的なひとつの結論に向かっている。

はじまりから 運命の采配の神様に魅入られている気のするこの縁は、私が白旗をあげようとすると条件を緩和してくる。

さて、そういうふうにこの縁を引っ張っているのは、

私なのか。

貴方なのか。

彼女なのか。

それはおそらくさほど重要ではないのだけれど、これだけ重要な岐路のキーであるこの縁くらいは、本当は自分で引っ張ってみたいというのが本音。
一方で自分だけが引っ張っているのではないと実感して、ある安心感を得るのもまた本音。

全ての出来事から意味を拾い上げ、それを吟味し、並べ替え、ひとつの形を創りあげる。
これから起こる出来事の予測に使ってはいけない。
軌跡に対してのみ、何かを定義づけられる。

兎に角、今の私に要求されているものは。
ひとつの出来事に対して固執して穿った見方をするのではなく、広い視点から冷静に今現在のみを吟味すること。

過去は未来を判断する材料にはなり得ない。
少なくとも、今現状では。
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人の勝手でしょ。

とあるところから持って来たお話。
野良猫・野良犬、野良であることはそれだけで罪?
みたいなお話。


「いのちをたいせつにしましょう。」

みたいな事を教えてるそばで、堂々と野良猫を処分する。
堂々と野良猫を追い立てる。カラスを排除する。

「いのちをたいせつにしましょう」

なのに、人間に噛み付いた犬は、殺される。

「いのちをたいせつにしましょう」

なのに、家に出たゴキブリやネズミは簡単に殺される。憐れまれることもない。

人間のほうが、力を持っているからアタリマエで仕方のない事なのですね。

1)神の禁忌をおかし、その報いを受けるべき凶事
2)社会の規範・風俗・道徳などに反した、悪行・過失・災禍など
3)刑罰を科せられる不正行為
4)仏教・キリスト教で、その教法を破る行為、或いはその人の背負っている業罪
5)悪いことや行いに対する自覚、もしくは責任
6)無慈悲なこと、思いやりのないこと

とあるところから引用させていただきました。

何故、野良動物は処分されるの?
社会に害を及ぼすから。
社会は人間がつくったもので、本来他の動物はそんなもの知ったこっちゃないわけで。
社会に害を及ぼすと誰が困るの?
人間以外にいませんね。

この社会は人間の都合のいいようにつくられている。
当然のようにスーパーや商店で食物を買い、当然のように口にしている時点でみんな何かを殺している。

野良はうまれながら罪なのか?と問うならば。
うまれながら食肉になるべくしてうまれてくる命はどうなるのか?
そもそも害虫やら害獣なんて言われてる命はどうなるのか?
保健所の猫や犬が「かわいそう」と嘆く前に。

人間の都合で飼いきれなくなったペットと、
人間の都合で食肉用として誕生した家畜と、
人間の都合で駆除され続ける害虫・害獣と、
その差はどこにありますか。

人は一体、一日でどれくらいの残飯を出していますか。
残飯はそうやって殺されたいのちの残骸です。

けれども私達はこういう社会で暮らしている。
そこから抜け出す気もない。
だから憐れむ事は出来ない。
ただ、自分のために、自分の気持ちのいいように都合のよい解釈をするだけだ。
本当はいいも悪いもないことだと思う。

私の初代ペットのポメラニアンは、家の中に出てきたゴキブリをなぶりころして遊んでいた。
食料にするわけではない。ただ、面白いからなぶりころしていた。
わるいことでもいいことでもない。

我が家の飼い猫は捨て猫だった。
ボランティアの団体から頂いてきた猫。
我が家に来た時には去勢手術の済んだ後だった。
私も当然のように、避妊の手術は済ませるつもりでいた。

繁殖出来ない身体にした動物を、ペットとして可愛がる。
野良を増やさないために、そうやって避妊してしまうことを「ひどい」と言った人がいる。
ひどいというなら。あなたが全ての野良猫の面倒を見なさい。

それが出来ないのなら、ペットを去勢する人を非難する事はできない。

人間に生まれてきた、植物として生まれてきた、猫として犬として家畜として生まれてきた。
それは、もう、運だ。
運よく自分が人間に生まれてきたのだから、その立場で何かをまっとうするしかないじゃない。

自分の生きるための課題をほったらかして、他者の必死に介入する事はとても失礼だと思うのだ。

手術することによって、私の家の猫がどう思ったのか私は知らない。
処分されるぎりぎりで助け出した2番目の飼い犬も、それで私の家に来て、さらにどこかへもらわれていったことについてどう思ったのか、私は知らない。
知る術もない。

ただ、私の許容範囲はそこまで。

私の飼い猫に繁殖させてあげるだけの許容はない。
私の飼い猫にとって、私は神にも等しい存在なのではないか。
私のさじ加減ひとつで、私の飼い猫はどうとでもなってしまうのだから。

猫と私がどういう付き合いをするのかの決定権だって、飼い主である私にあるわけだから。

私は猫が甘えてきたら膝の上に載せる。
猫の健康を考えて同じ種類のペットフードしか与えない。
猫には繁殖する術を絶ってもらう。

こんな状態でペットを飼っている私は、とてもじゃないが保健所に連れていかれる猫に対して何かを思うことなど出来ないのだ。
ただただ、人間の仕組みの中に取り入れられつつ、猫が生きるために少しでも可能性のある選択肢を提示することしか出来ない。

でもそれも、私の勝手でやっていることに違いはない。


そしてこれが、私の全ての私を取り巻くものに対するスタンスだったりする。
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磁石のようなもの。

何かをすることに意味がある、と断言できる強さが今の私にはある様子。
自分を取り巻く環境を、すべて自分の味方につける事が出来る強さがある様子。
必要なことと不必要な事をより分ける事が出来る自分自身。

青臭ささも自覚。
青臭い事は格好悪いけれど、悪い事ではないと胸を張っていいます。
あきらめたとたん、道は閉ざされる。
どれだけ可能性が低くても、自分自身の事は手を抜けない。

自分自身を自覚して、それでもあきらめないことは格好悪いかもしれない。
あきらめないで生き続ける事は、しんどいかもしれない。
言い訳ばかりが上手になって上手に逃げ道をつくる事よりも、周りに失笑されながらでも信じた道を歩いていくほうがいいと感じる。

自分の弱さを発見し続け、それを乗り越え続けて行く生き方は、難易度が高いのかもしれない。疲れるのかもしれない。けれども変化を恐れてばかりいては、いつまで経っても変われない。

自分の理想は、必ず自分の中にあるはす。

その理想は、他の誰の物でもなく自分の物であるはず。

誰に何を言われても、笑われても、諭されても、そこは譲る事が出来ない。

傍から見れば、私の追いかけ続けている男性は、どうしようもない人なのかもしれないし、私の取っている行動は愚かでしかないんだろう。それは、傍から見ていたらそう映るのだから仕方がないし、周囲の誤解を解こうとも思わない。

しかし、今の私の行動基準は依存ではない。
きっかけは依存だった。でもそれにどんどん気づいていける関係であり、行動であるのだから、そしてその変化を、他の誰でもない私自身が気づいているのだからこれはどうしようもなく真実なのだな。

信じる事は時に愚かな事だし、裏切られることも多々ある事は充分承知している。
今までだって何も考えずに人間と関わってきたわけじゃない。
今までどうして失敗したのか、その原因と対策は毎回反省して身にしている。
失敗とはそのためにあるものだ。
誰だって失敗したくない。でも、失敗して醜態を晒すことは悪い事じゃない。
失敗しても失敗しても、続く関係があるのなら、それは幸せな事なのだ。
そしてそういう関係こそが、自分が心から求めている関係なのだ。きっと。

私には親友がひとりいる。
彼女と出会って、私は随分と変わった。
彼女も随分と変わった。そして、私たちはお互いがいる事で影響しあって、変わり続けるのだろうと思う。

私が惚れている男性は。
私といる事で変われる可能性をたくさん秘めている。そして何より重要なのが、彼自身心の奥底であきらめきっていないということ。どれだけ打ちのめされて後ろ向きになっても、彼が相変わらず自分の理想とそれを欲する気持ちを持ち合わせていること。

私の親友と私が惚れている男性は。
お互いの私との関係とは違う種類の絆を持っている。少し距離のある立場で、甘えのない立場で、お互いを補い合える存在である。

奇跡的な事に。
私の親友と私が惚れている男性と私の3人は、3人が三つ巴になってそれぞれを助け合う仕組みになっている。本当に、奇跡的に。

私と私の親友は、信じる事と信じる強さとその絆を育んで、学習している。
「この人は信じていい」という学習をしている。そして、その中に彼が入っている事も自覚している。

彼は、まだ信じきれていない。
まだ怖がっている。そして苦しんでいる。彼が一番信じられないのは、彼自身なのだから苦しいのは仕方なく、当たり前。

私と親友は、ちょっと前から彼を待っている。
彼が自分自身を信じきれる日を待っている。

人間関係に、100%与える関係も100%与えられる関係も皆無だと私は言い切る。
人が誰かに何かをするときは、必ずそれに見合った見返りがないと成立しないということ。
見返りを求めない、というのは奇麗事に過ぎないのだなと最近よく思う。
この仕組みを理解すると、きっと彼も自分に自信が持てるのだろうなと思う。
彼は私と親友に「してもらってばかり」と思っているのかもしれないが、それは違う。
私と親友は、彼に何かするたびに彼から見返りをもらっているのだ。

だから、私たちは離れないのだ。

それが何かということを、本人は理解しなくてもいいのだろう。
大切なのは、私たちが彼から何かを受け取っているということを、彼が信じられることなのだ。
こういう風に思考がしっかり纏まると、きっと私は次の段階に入る。

思考がしっかり纏まるきっかけをくれた若者に、この場を借りてこっそり感謝しておこう。

そう。

何事にも意味がある。
何気なく出会った事にも、誰かに惹かれる事にも、何かの意味がある。
意味のある出会いを自らが引き寄せている。その意味を見出すのに時間がかかったとしてもね。
その意味を見出せるか否かで、きっと自分の人生も変わる。

そしてこういう事がよく見える今は、きっとすごく大切な時期なのだろう。

※※

やっと、抜け出しました。
さて、これからの私がどう変わっていくのか。
私自身にも分からないけれど、この変化を楽しめるだけの余裕はあるようです。

これだから生きてる事は楽しい。
こういう瞬間のためにきっと私は生きてる。
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変換期

思春期の成長痛みたいなものが私を襲っているようです。
肩やら頭やらが重たい。鈍く痛い。


疲労感が取れない感覚。


毎日昼寝3時間。それでも夜眠れてしまう。


身体と心は繋がってるんだねぇ。
心だと御幣が。魂か。


私の、おそらく長かったひとりで切磋琢磨自問自答期間も、もうすぐ終わりが近づいているようです。
非常に微細な軌道修正がなされるということは。
きっと大詰めだからなのでしょう。


今の課題は、距離感。


距離をはかるのが非常に苦手な私。
周りのみんなが出来てることが、どうして出来ないんだろうと思いながら生きてきてるだけに。


難しいねぇ。距離感。


距離感の感覚が人とズレてる気がします。
その部分はきっと、これからもしばらく課題として残るのでしょう。


これ以上は入れない、という、玄関のようなもの。
あるんだけれどね。
なかなか、それを誇示することが出来ない。


きっとそういうことなのでしょう。


入り込んだ気になっていても、こちらは入れたつもりも入った感覚もない。
そういうズレが、多い気がします。


私は私。


貴方は貴方。


そういうような事を、もう少ししっかりと方向づけしていく必要がありそうです。
より、シャープに。
より、気持ちのよいほうに。
無理をしなくていい場所で無理をしない生き方を。
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一度にいくつも出来ない仕様。

長い長い一方通行期間も、そろそろ終わりが見えてきました。
ゴールが、見えてきました。


この、約2年は、私にとって、自分自身の甘えと戦う期間でした。
すごく甘えてたなぁ、というようなことを私はたくさん学びました。


どこかで私の人生のレールの、切り替え地点があって、私はそこを切り替えちゃった。
もともとあった道、新しく出来た道。
私は自分の意思で、こうなりたい人生に向かって突き進み始めた。


江原様は言う。「宿命は、デコレーションケーキの台のようなものだ。そこにどんなデコレーションをしていくのかが、運命だ。」と。


運命は変えられる。人との出会い、すれ違うだけで終わるはずだったシナリオを書き替えることは、出来る。
自分の意思がしっかりしていれば、望む姿になれる。
その望む姿って、実は大抵、本来の姿からはかけ離れたものだったりする。


そして、そのかけ離れたものに向かっていくことが、生きている意味なんだと思ったりする。


本当に望んだこと、本当に必要なこと。
ヒントや答えはきっと、すぐそこに落ちている。
ちゃんと答えをくれる。
その答えやヒントを拾うも拾わないも、自分自身。


素敵なタイミングで色々なヒントやお叱りを受けました。


きっと意味がある。
意味のあるタイミングで意味のある出会いをしていることを感じる。ヒントを繋げる。
それは私の自信へと繋がる。


感覚を信じてそれに素直に従うには、自信が必要。
あれこれ悩まずに、感じたときに、感じたままに、動けばいい。
少しの勇気を持って。




というわけで、かなりの勇気を振り絞って私は彼と話をしました。
実際に会って話すわけではないので、認識にかなりのズレはあるけれど、大丈夫。
大まかなところで、私の予想も予感も、ほぼ当たっていたことを確認しました。


辛かったね。


寂しかったね。


信じ切れなくて信じるのが怖くて、だからこそ否定したくて、暴れていたんだよね。
その一歩先に踏み込めなかったんだよね。
大丈夫。
私も、彼女も、貴方を見捨てない。


少しずつ、信じられるようになってきているかしら。
最後の最後の、自分自身の恐怖と戦えるかしら。
後ろからいくらでもお尻押してあげるから。
自分自身の作り出した恐怖に負けてしまうことは、とても残念なことだから。
とても悔しいことだから。


貴方がなんとか、乗り越え切るまでは、私は頑張りましょう。
赦されているよ。貴方はとっくに。
貴方を赦したうえで、私は貴方に苦言を呈します。


私の気持ちは、その後でいい。
まずは、恐怖と戦ってください。克服してください。


自分でしたことは、全て自分に返ってくる。いいことも、わるいことも。
貴方が本当に辛くて、しんどくなった時に、貴方が今までしてきたことが返ってくる。
貴方の言葉で、行動で、救われた人達は、貴方の事を忘れない。


だから、ピンチになれば駆けつける。


人の繋がりなんてそういうものです。


そしてその繋がりこそが宝物なのだと、思っています。


ともあれ、慣れないことをすると、精神的にどっと疲れが出ます。


そう。次の日思わず仕事やすんじゃうような。
いかんなぁ。両立させなきゃならんのになぁ。



というわけで、嬉しかった日の雑文。
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「素」

某所でいただいたお題。


「す」でも、「もと」でも。


種のようなものだよね。「もと」
いのちは、みんな「もと」だけでうまれてくる。
すっぱだかで、何も持たずに、ただ、自分自身の「素」だけで生まれてくる。


それは、あまりに弱いものだから。
いろいろなものに負けないように、私たちはいろいろなものを身につけて、まもる。
まもられていないと、壊れてしまうこともあるから。


そうして、傷ついたりしながら、色々なものを身につけて、大きくなる。


いちにんまえになる前に、私たちはもう一度、「素」に戻る時が、ある。
身につけてきたものは、今まで自分を守っていたもの。
でもそれは、自分を隠してしまうものでもある。


いちにんまえになるには、その道具を道具として上手に使わなきゃならない。
自分のすっぴんを、自分でも忘れてしまっていることもあるだろう。


大切な大切な自分自身のかたちを、一度「す」に戻って、認識すること。
身につけて、それを脱ぐ。


その両方ができるようになったとき、人はきっといちにんまえになる。


「もと」と「す」


違うようで、きっと同じもの。


願わくば。
あまりの傷に、その傷の記憶に、どうしてもどうしても、「す」になることが怖いひとたちに。
どうか、その恐怖を乗り越えられる勇気を。
勇気を持たせてくれる、誰かの存在を、見誤らぬよう。


「いない」なんてこと、きっとない。
自分の目を、過信することなく、卑下することなく、いい塩梅に信じられるよう。


これが自分自身だ、と、堂々と、時にこっそりと、それでも鎧を脱ぎ捨てられる、武器を放り投げられる、そんな瞬間の幸福感を、味わって欲しい。



人は、「素」で出てきて、いろんなものを学んで、もう一度、誰かの前で「素」に戻る。
そこが、人として生きて学ぶ、スタートラインなのじゃないかなと思う次第。




素にならなきゃ学べない事、素でぶつからなきゃわからないことって、きっとたくさんあって、そこで学ぶ事は、きっととっても大切な事柄だったりするのじゃないかな。
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焦点が合った話

きっとそういう風にできている。
ぼんやりとしていても、なんとなくわかること。


わかっているけれど、認識出来ていないこと。


指摘されてそこに焦点が当たるという感覚。


というわけで、点と点が繋がって線になりました。


逃げていたのは彼だけでなく、私も同様だったようです。


いい子を演じる。仮面を被る。


それは、自分の身を守るためだけではないよね。
それは、大切な人の気持ちを軽くしたかったり、重荷になりたくなかったりする気持ちのだったりするよね。


本心を隠す。出さない。見せない。
思った事を素直に伝える事が出来ない。


なぜ?


伝えた事で何かが壊れたりするのが怖いから。
それは、本当のことを言えば、相手を信じていないことになるのだけれど。
そこまで信じあえる関係を作り上げる事も難しいものだから。


そういう関係だと信じていても、その信じている感じを否定されるのはすごく怖いことだから。


自分さえ、少し我慢すれば。


それで穏やかにことが運ぶならば、それでいいじゃないか、と。


でも、そうやって溜め込んだ自分自身の思い、気持ちはどこへ行くのだろう。
どこへも行き場がなくなると、鮮度のなくなったそれは、澱になって心の底のほうに溜まって行く。
鮮度のあるうちに、出来るだけ新鮮なうちに、それは吐き出して欲しい。


そういう毒を抱えて生きるのは、だってつらくてくるしくて楽しくないから。


人は。


そうやってお互い迷惑かけあって寄りそうものなのだから、一人で我慢することはない。
一人では抱えきれない思いも、きっとみんなにわければ、軽くなるから。
溜まらずに昇華していけるから。




さて、私はふたりの人間にこのことを伝えなければなりません。


小さい人と、大きな人と。




皆でわっかになって、つらい思いを分け合って、楽しく暮らせるように。そのために。
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+と−

NとSでもいい。
惹きあってしまうものなのです。
だから、仕方ないのですよ。


某所で一瞬だけ見た文章をネタに文章を書いてみる。


ちなみに私は+人間です。
限りなく−の皮かぶってますが、+です。
でも暗いです。明るくはありません。


「なぁ、のの、本当に幸せな奴は、自分の事を幸せって言わないって言うよな。いつか俺もそんな風に幸せになれるかなぁ。・・・なる。なるよ。絶対」
「ののの歌」(by.大槻ケンヂ)


さて、何の意味もなく+と−はひきつけあうんだろうか。
・・・違うよね。きっと違う。


私は、+も−も悪い事じゃないと思う。
そういう考え方の質の差はあれどね。


ただ。


100%+な人間も、100%−な人間も、いないんじゃないかなぁ、ということ。
陰と陽は背中合わせで、それは時に必要だったりもする。
人間自体がそういう中途半端な生き物なのだから、これはもう仕方がない。


人という存在自体は、きっと、それらの両方が混在したものなのだと思う。


自分の陰の部分を、−の人を観ていて気づく。学ぶことと、
自分の陽の部分を、+の人を見ていて気づく。学ぶここと。


それはきっとどちらも大切なものなのです。


−の人と関わっていて、吸い取られる感じがするのは、その人は−である前に、レベルが低いということなのです。
深く深く考えて、依存する事がどういうことなのか。
甘えるということがどういうことなのか。


そんな考えかたをする−の人と関わっていても、疲れません。吸い取られません。
ただ、違いを認め合える。


ただ、なんて書いたけれど。


これこそが人の生きる醍醐味。


自分に全くない要素を、他者から感じ取る事は、きっと本や教科書では学べない。
ぶつかって関わって気づいて身にしなきゃならない。


そして、人には不可能なことなんてない。


その、−の人が、もし本気で変わろうとしたら、変われるものだから。
そういう気持ちをキャッチしてしまうと、私は全力でその人が変わるお手伝いがしたいと思ってしまう。
それも悪くないよ。


だって、家庭環境だろうが親だろうが、なんだろうが。
自分で「ここに産まれる」って決めて出てきたんだから。この世に。きっとね。


そういう反対属性を持った人から学ぶ事、影響されることは非常に多い。
そして、大きい。


ひとつだけわかること。


ただ、助けて欲しい、楽にして欲しいってだけで近づいてくる人と、私は仲良くできない。
人間関係は渡したら帰って来るのが基本だと思うから。


そしてそれは、話がすごくずれたけれど、+と−、関係ないんだよね。きっとね。
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いたたまれない。

全部が終わった後に、全部が見える。


さて、あの人は今どうしているのだろう。
私が案ずる立場でもない、でもたまに頭をよぎる。


そんな話。


引っ張る力が強すぎたよ。それで切れたよ。糸。


謝られたよ。それで全部が見えたよ。



果たしてあの人には全部が見えていたんだろうか。
でもそれは、貴方の問題だね。私の問題じゃない。
やるせない思いを蒸し返されて、なんだかいたたまれないけれど。


仕方ないよね。


こういう思いを、あといくつするんだろう。
こういう出会いを、あといくつ繰り返すんだろう。
私は正しい道を、危ないところで、乗り切ったんだ。
なのになんでこんな気分なのだろう。


勝手な弱い思いが、こう、頭をもたげる。


「出来れば、心許せる人と出会って欲しい」


謝ったほうはすっきりするんだろう。
そしてそのなんとも言えない思いを、私はもらってしまったんだろう。


あの人の文章は、私情抜きに、好き。
そういう話を、ずっとしていたかった。
そういう話が出来る間柄でいたかった。
壊れちゃったけど。


もう、戻らないけれど。


こっそり覗いてる場所、は、潰さないで更新し続けてほしいなぁ。


勝手だけれど。
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優柔不断

優柔不断さは、臆病さのあらわれ。


高校生の頃、アメリカへ行って困った事がある。
外で食事する時の選択肢が多いのだ。
何も考えないでも、ご飯が出てくる「おまかせ定食」みたいなものがない。


特にこれが食べたいという欲求がない時便利なのがおまかせ定食なのだけれど。


「チキンにします?ビーフします?ソースは?ドレッシングは?」


なんて聞かれると本当に戸惑ってしまう。


でもねぇ。
世の中に決められてる事なんて何一つないんだなぁ。本当は。
優柔不断であるということは、甘えでしかないんだなぁ。


たかがソースのひとつ、ドレッシングのひとつすらさらっと決められない、私は少し、そのとき愕然としたのでした。



文化の違いと言えばそれまでなのだけれど、
だとすれば日本の文化が選ばなくてもなんとかなる文化、ということになる。


・・・うん。心当たり、あるね。
でもそれじゃ、なんかあった時にきっと生き残れない。
なんでも自分で選択していく癖は、身につけたいな。


自分はこうしたい。


自分はこれが好き、嫌い。


もう少し、はっきり言えるといいな。
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30歳

30歳の誕生日は、親友と迎えました。


去年の誕生日は、大切な人2人と3人で過ごしました。


あれから1年が過ぎました。


この1年は、私にとって一生忘れられない1年だったような気がします。


産まれて初めて、心療内科に行ってみたり。
そこまで追い込まれて、初めて気づく色々な事があったり。
自分の甘さや自分の依存の根本を覗いてみたり。


まだまだ甘いし、まだまだだと思う。
だってまだ、私は30年しか生きていない。


これからまたどんどんお勉強していくんだろうなぁ。
でもこの1年の密度は、本当に高かった。


20歳から振りかえる10年。
自分で選択して来た道とはいえ、波乱万丈ではあったと思います。
結婚して出産して離婚して。


10代の終わりにも、私はたくさんのことを学んだ。
それを糧に20代を生きてきた。
30代になる直前に、また私はたくさんのことを学んだ。


本当にひとりで立てる、ということの意味。
だからこそ、誰かと一緒に生きていくことに意味がある、ということ。


極限まで追い詰められた時に、ちょっと踏ん張って少し考える。
そうすると答えが見えてくる。
自分なりの答えをつかんで、私はここまで来たんだと思う。
それは、そのときはすごくすごくしんどい作業なんだけれど、
乗り越えた時に、「ああよかったな」って思う。


これからも、もうちょっとしばらくは、足場の完全に固まらない状態が続くような気がするけれど、もう少し踏ん張って、明るい先を見ようかなと思っております。


今まで、30年間の間に、私と関わってくれたスベテの人に。



ありがとう、と、言いたいです。
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来し方、行く方

自分が歩いてきた道は、一本だ。
曲がっててもくねってても、一本だ。
絶対に二本以上になることはない。


自分が歩いた跡は、一本の道になっていて、自分が歩いているだけの幅の道が出来上がっている。今立っている、まさにその地点までの。



あなたは、選択をしている。その結果が今、ここにある。



と、言われた。
もう、選択をした後だと。


そういえば、ある地点からの私の選択のしかたは、どれもこれもが、切羽詰ったものだった。
常に、「こんなの無理」のそのちょっと上の選択を迫られていた。
「こんなの無理」ではなくて、「無理だろうがなんだろうがやらなかったらどうにもならない」っていうところで、私は選択し続けて、私の足元まで、今は一本の道がある。


いくつもの選択肢は、そこに乗り続ける?降りる?という選択肢。


そういうことを、はっきりと言葉にして伝えられること。


それはなんだか、非常に視界がクリアになった感じ。


感じてきていた感覚と、もらった言葉は違うのだけれど、しっかり言葉になって、色々な確認作業ができた。
その視点から今までの来し方を振り返ってみると、なんとまあ、納得する事の多い。


やっぱり、自分の力で変えうるものなんだなぁ。自分の生き方というのは。
自分のことは、まるごと全部自分のせい、と言う感覚とか、そういうものが実感として身についたことは、私にとってはとても大きな財産だ。


1年前、自分の急激な変化について色々考えた時期がある。
あれから、同じくらいのスピードで、私は変わり続けている気がする。


あの時、急激だなぁと思ったのは、あの時が何か外れる瞬間だったからなのじゃないかなと思う。


公園にある、「ぎったんばっこん」のぎーーったん の 「たん」のとこ。


そういう力は少しずつ蓄積されていって、ある時にパタンと動く。
パタンするまでは、先見えないんだよねぇ。空しか見えないものねぇ。
だからね、怖くなったり戸惑ったりするんだよねぇ。


時に疑心暗鬼になりつつ、時に納得しきれなくなりつつ、それでも必死で選び取ってきた選択肢の、いくつもの積み重ねが、今のわたし。


今までも、相手のせいにしているつもりはなかった生き方だけれど、
そうでもないんだなぁ、っていうことがよく分かった。この道を歩いていて。


極限って、きっと人生で何度も味わえないだろうけれど、出来れば当分味わいたくないけれど、でも極限から得るものってものすごく大きいんだなぁ。


平坦な道を難なく歩くことも、きっと素晴らしい事だろう。
でも私にはどうやら物足りないようだし、自分で納得のいかないことは、どうもごまかしてしまえないようだ。
ごまかせないなら、とことん付き進んでみるしかないわけで。


今、この時点で、やらなきゃいけないことの多さに押しつぶされそうな気持ちにもなっているのだけれど、ひとつずつクリアしてって今はこれだけになってる、という気持ちもある。
自分の得意分野・不得意分野あるけれども、(私の不得意分野が極めて生活に密着した事務的手続きのあれこれだと言うのも痛いのだけれど)少しずつマイペースで乗り切れたらいいなぁ、って思っている。


さて、この先、行く方に何があるのか、私は知らない。
けれども、歩いて行けばそのうち分かる。
納得して歩いてる道だから、不満はない。文句もない。
その場その場できっと、青くなったり赤くなったりしながら、乗り越えて歩くんだろう。


そういう道のりを一緒に歩く人、支えてくれる人、見守ってくれる人、心配してくれる人。


ありがたい、と、思える自分はきっと幸せだ。うん。
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未完成。

怒りの根源を考えてみる。
なぜ腹が立つのか。

自分の主観が先立つから。


誰かのことを自分の思い通りに動かそうと思うことって傲慢だよね。
お互い勝手に動くよね。そりゃそうだ。


余裕がないってことだ。優しい気持ちは余裕がないとうまれない。
これはもう、どうしようもなく、事実だ。


ここのところ気づいたことがある。


アタマで考えるまえに感覚で、と、思っていたけれど、頭もつかってるんだな。きっと。
ただ、意識して考えていないという感じ。


なんとなく、


意味はなく、


なんて思っているけれど、一応考えてるんだな。


頭と直感がバランスよく働いている感じ。
そうでなければ、自分の状況をこんなに冷静に見つめることはきっとできない。
今の私では、何をしようとしてもだめになる。
だから、何もしないのが一番なんだなぁ。


こういうことがひとつずつ分かってくると、きっと少しずつ次にやるべきことがクリアになってくる。クリアになって動きたくなった時が動くべき時。瞬時に感情に支配されてしまうようでは、まだまだだめだ、ということですね。


こういうことを考えられるきっかけになるのは、見知らぬ人との会話によるところが大きい。
自分の中で反芻して文章を書くこと。
それを第三者の見知らぬ人に状況を説明しつつ伝えようとすること。
これで私の頭と心はだいぶ整理された。


こういう浅い、些細な縁もとっても大切な縁。


やっぱり私は、周り全ての環境によって、このように生かされている。
自分がしてきたことは、きっとそのまま、たとえ直線ではないにしろ、返ってくるものなのかもしれない。


そう考えると、自分が他の誰かに何かをしてあげることも、他の誰かが私にしてくれることも、割と素直に受け止められる気がする。うん。いいんだよな。


というわけで、纏まらない思考の途中段階。
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ちっさい。

ちっさいなぁ。ああ、ちっさいなぁ。私。
どうでもいいことでこんなに揺れる私がいる。


私がみる、その情報を。
相手は私が観ている、ということすら認識していないのだろう。
そんなことで勝手に自分の心が揺れ動くことが許せない。


もう。


本当に、素敵に自分勝手で我侭な甘ったれだ。


前のように、自分の根底が揺らぐような気持ちにはならないけれど。
すうっと「おもしろくない」という気持ちが頭を掠める。
出来れば、優しい気持ちのままでいたいのです。
出来れば、にこにこ笑っていたいのです。
出来れば、のほほんとしていたいのです。
それがたとえ、逃げだとしても。


戦いたくて戦う人は、きっと本当はいない。
誰とだって争わずに済むのなら、それに越したことはない。
これは、私の甘えですか。
これは、私のずるさですか。


あなたが逃げ出したように、私だって逃げ出したい。


これが本音です。


それでもなお、つなぎとめておきたいと思って、嫌な事を率先してする、そんな間柄は貴重なはずだから。引き返せないところまで、私は突っ込んだから。


やめるのなんていつだって出来るんです。


反省してるのなら、その反省の成果を見せていただきたいところで。
もう、これが愛だとか恋だとか関係ないんです。
人として。
そこまで深い間柄にいたのではないのか、私たちは。ということなのです。


勝手にいまさら逃げて終了、だなんて、そこまでお人よしでも、冷たいわけでもないんです。
私にぶつかると痛いんです。
でも、先にぶつかってきたのはあなた。


後悔しても遅いのです。


そして私に魅入られてしまったのだからね。


・・・この書き方、怖いな。
いつか感謝で頭が上がらないようにしてやる。おぼえてろ。
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感覚良好。

私はいままで、ずーっとずーっと考えながら動いてきた。
考えながら考えながら、自分の脳みそと自分のハートと相談しながら生きてきた。


結局、直感を信じて動いてしまうことの方が多いのだけれど。
直感をまるごと信じて動けるほど、勇気があるわけでもない、というところで。


少し前に書いた、タロットの愚者と隠者の関係。


今の私は、完全に愚者が勝っている。


考えることをやめるだけで、生きることはこれだけ易い。
感覚だけで生きている、脳みそが働く前に、私は動いている。
非常に動物的な感覚。


ちょっと待て、本当にいいのか?


って思うことがない。普通ならば、普通の感覚ならば、絶対に疑問に思って踏みとどまるべきところで踏みとどまらない、感覚。
今の自分にはなんの不安もない、私の今の感覚は、信じ切って大丈夫。
そういう確信が、これもやはり直感なのだろうけれど、確固としてある。


そんなわけで、しばらく動物的に、ケモノのように生きてみたいと思っています。
さてどうなるのやら。


でもね。きっとね。得るものはある。


ここで得るものは、絶対にある。


何かが変わり始めてる。
それは少し前から感じていたこと。
その、気流に乗り切った感じ。


そして、その気流は、私が作り出したものだ、という自信。


何も恐れるものは、ない。


あとは流れるままに、流されていればいい。


人事尽くして天命を待つよ。


次に何かが動き出すタイミング、きっと分かるはずだから。
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所詮、その程度。

所詮その程度、という思いが渦巻く。
相手から見たらそうではないのは理解している。至極理解している。
でもそれでは駄目なんだということを伝えたくて伝えたくて、伝えていたのに伝わっていない。


どうしようもなく疲れたよ。私は。


逃げてしまっていいの。
そういう程度のつながりなの。
弱いってことは言い訳になるの。
その行為が相手に伝わるか伝わらないかが問題ではないんだ。
自分がそういう行為をした、という事があとで自分を苦しめはしないか。


どうしようもなく考えすぎてしまうよ。


考えなければいいのに。私。
見なければいいのに。私。


今観るべき事は他にあって、今やるべき事は他にある。
今考えたってしかたない。


気持ちの方向を変える方法が知りたいよ。
全部は自分のせい。
全部自分のしてきた事の結果。
だからこそ、つよくなりたいなぁ。
でももう、ギブアップしたい自分がいるなぁ。
ゴールの位置を決めずに走っているけれど。
いい加減ゴールが見えない事に息切れしはじめているよ。


判るのは、ゴールが近づいたのか遠のいたのかということだけ。
何回引き伸ばして、ゴールまでの過程を修正してきたのだろ。


お願いだから。


もうそろそろ私を感動させてくださいよ。
これは弱音。
こういうこと、本来言っちゃいけないこと。
でもこういう気持ちにもなるでしょ。


立って歩く、事は、本来一人でしなきゃいけないことだから。
貴方がいてもいなくても、私はそれが出来なければいけない。
そう思って今までがんばってきたのだけれど、なぜ今一歩のところで乗り切れない、私は。
ここでなし崩しになってどうするの私は。


ちょっとがんばろう、という気持ちが日々薄れている。
それが自分で一番怖い。
怖いならがんばればいいのに。私。


こういう考え方、去年の私にはない考え方。
色々あった去年の1年間はきっとこういうところに生きている。


だからね。
誰のおかげで変われたのか、という事を考えると、私はまだお返ししきれていないんだなぁ。私の大切な両氏、どちらにも。いつまでも甘えて頼ってばかりいていいのかなぁ。という気持ちがたくさん。と、いつまで甘えて頼っているんだろう、この期に及んで、という気持ちがたくさん。


両氏に対して思うことは正反対。


けれど間違いなく、どちらもとっても大切な人たち。
この、流しそうめんみたいな一方通行な感じを、どうにかして流れるプールのような循環型にしたいなぁと思う次第。私がもうちょっとがんばらないといけませんね。





はい。そうですね。
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消費する物語

テレビでは、おまわりさんや機動隊がいっぱい映っている。
必死の形相で、必死すぎる形相で、おまわりさんに詰め寄るホームレスの人たち。


苦笑いのおまわりさん。


無表情で黙々と撤去作業をするおまわりさん。


その場にいる誰もがカメラを意識して。


どういう内容でこの現場が伝わるのかも意識して。


けれどね。
ただ消費されていく日常の一こまにしか過ぎないのさ。それは。
新聞の片隅の4コマ漫画程度のお話なのさ。それは。
無駄遣いしていないかな。色々な労力を。
消費されていく事に、気づいていないのかな。


大げさなアクション、何か目を引く事を期待しているような。
しかしそれは、陳腐な優越感の餌にしかならなかったりする。
観ている私は、ため息をひとつ。


あー。大変だね。家がなくて。
寒いだろうにね。冬は。
お布団が汚いね。


でもうちは関係がないね。


相対的な幸せのための、餌になる。一瞬でなくなる餌になる。
コメンテーターがコメントを残す。
そんなコメント、一瞬のうちに忘れ去られていく。



「ライブドアのニュースで賑わっていましたが、実はその間も大雪で封鎖された地帯はまだまだたくさんあります」


正気か、と思う。
こういう表現に違和感を感じない。
現実さえも物語にしてしまう、テレビ画面。
実際に困っている人の現実を踏みにじる無神経な行為、行動、同情に見せかけた好奇心。
それが醜い事だとも気づかない、偽善であることにも気づかない、偽善のひとたち。



世の中が鈍感に過ぎるよ。
想像力って大切な力なんだよ。
気づかずに消費される側も。
気づかずに消費する側も。
気づかないうちに何かが擦り切れていくのだろう。



ただただ、ため息をつくことしか出来ない。
画面を見つめる私は、やっぱりな、と、少し後悔をする。
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説明文の読めない女

自分が書こうと思って、初めてきづくことがある。
本の読み方の癖のこと。
最近ちょっと真面目に文章を書こうかななんて思っていて、いろいろと考えているうちにぶち当たった。


私は描写が出来ない。


風景、状況、の、説明のような描写が出来ない。
小説に限らず、私は昔から、「説明的文章」というのが苦手だった。
国語のテストをやる。


文学的文章、満点。


説明的文章、ボロボロ。


自分でもどうかと思うのだが、この好き嫌いの差が激しい。私。
説明的文章を読むのが下手なのだから、書くのも下手、というのはこれ、当然のことかもしれない。なんて思ったのだ。


小説を読む時も、私は描写な文章を斜めに読んでいることを自覚している。
斜めに読んでいるんではないの。
頭に入ってこないの。


そういう想像力が欠乏しているのは、日々さまざまな事柄から、自覚することができるのだけどね。ものを説明するのに、「だいたい何センチ」って言い方をするでしょう、人はよく。
私にはそれがわからない。


「大体15cm」と言われて、具体的に大きさをイメージすることが出来ない。
風景の描写も、建物の説明も、すごーーく頭を使わないとイメージすることが出来ない。
で、何度読んでも上滑り。文章。


こういう人に道の説明をさせるととんでもないことになる。
誰かに何かを説明するのが、非常にへたくそで苦手である。
「意味がわからない」
よく言われる。もう慣れっこだ。


もうきっと、これはなおらないのだろうな。
そうか、私が風景描写なんかが嫌いなのは、理解できないからか。
だから推理小説が読めないんだな。


自分の特性、発見したという話。
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ラブレター

運がいいとか悪いとか人は時々口にするけど、
  そういう事って確かにあると貴女を見ててそう思う。



と歌ったのはさだまさし。
運が悪い、自分は不幸に好かれた人間だ、って言う人結構よく見かけるし、口にしなくても思っている人はもっとよく見かける。


「なんで自分だけ。」
「自分は悪くないのに。」
って。


私は。


「運悪いなぁ、ついてないなぁ、はは。」



と、笑って自分自身をネタに出来てしまう強さが欲しい。
自分自身を物語りに昇華してしまえる強さが欲しい。
まだまだなんだなぁと思う。
素敵な道化になれたらいいなぁと思う。

自分の両手でわっかをつくる。
そのわっかの中に入るだけのものたちから、何かが返ってくることだけ。
それが至上のよろこび。


運は自分で決めるもの。
「運がいいとか悪いとか、そういう事って確かにある」、その言葉はとても優しい。
そういう言葉が必要なときがある、事もわかる。けれど。
運だって縁だって、自分で選んで掴んだ結果。


その根源を探っていけば、選択したのは自分自身なのだから、それが一番の結果であるはずなのだ。
選ぶ前ならば。可能性はいくつもあるだろう。
けれど選んだ後の可能性はひとつしかない。
全てが必然なのだから。


運や縁と呼ぶこれらのものは、全てあった事、事実なのであって。
それらに本来意味はない。そこに意味を見出すのは、その事実を捉えるその人本人の主観。
意味なんてないよ。全部が勝手に起こっている事。
そこに繋がりなんてないよ。


当たり前。


けれどもそこに意味やつながりを見出す想像力は、きっと生きて行くうえで大切だ。
少なくとも私にとっては大切だ。
ただの事実の羅列を、私はあざなう。そのあざなってよりあわせたものこそが、私のパーソナリティだったり人生そのものだったりするのではないかな。

起こった出来事は全て必然なのだから。
その出来事に、私がどう意味を見出してどう動くか、どう変わるか、どう進むか。
それも必然というもの。


というわけで、ここのところに起こったいくつかの縁に私は感謝をしたい。
尻ひっぱたかれた気分でおります。
思いもしない方向に流れたけれど。


私の才能、という話を私に聞かせてくれた貴方に感謝。
そしてそれを素晴らしいタイミングで実感させてくれた貴女に感謝。


そして、絶妙のタイミングで私の一番近くにいて、じっと見守っていてくれる貴女に感謝。貴女との縁のおかげで私がこうなっている事に私は大きく大きく感謝。貴女がいる、と思うだけで様々な事柄に歯止めがかかったり腰が上がったりしている事実は、今の私には非常に非常に大きい。
貴女もそうである、って確信できるこの縁に感謝。願わくば無理しないでください。と、自分の事はさて置き本心から言える対象がいる事にとても救われている。


私を見て、思いっきり笑ってください。
その中に何かが残る人がいるなら。残して行ってください。
どちらも私にとってはとても嬉しいこと。幸せなこと。


ここを覗いた全ての人に、感謝。読んでくれる全ての人に、感謝。
「あああああもうみんな大好きだ!」
と、思える今の瞬間は、すごく幸せ。
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こっちは甘いがそっちも甘い

ひとつ

がんばる。
安心する。
ズルズル。


いかんいかん。
ちょっとがんばる。
また安心する。
ズルズルズル。


いかんいかんいかん。


他人に甘いのは自分に厳しくする自信がないから。
他人に厳しくしたら自分に甘い自分を許せなくなるから。
棚上げ大臣さま、私も棚上げしてみたいです。自分のこと。


棚上げしたあと挫けない心が欲しいです。棚上げ大臣さま。


こんなこと言ってる時点でもう甘ったれモード120%でよろしくないのだけれどな。
判ってるなら動けばいいのにこの子は、もう本当に動けない。



図星さされると思わず反発するのは結構沢山の人が持ってる習性だと思うのだけれど、
ああいえばこう言う みたいな可愛くない大人にはなりたくないなぁと常々思う。
それを心がけているのだけれど、やっぱりとっさに言い訳してしまう私がいたりするわけで。
これがまたこう、情けないというかなんというか。


この辺の舵取りを上手にしてくれる誰かが必要だ、と、ちょっと前まで思っていたけれどそれも間違ってるのかもしれないな。
やっぱり自分でやろうとしないといけないんだなと最近。


叱ってくれる人のない状況で自分に負けない強さが欲しいです。
最近本当に自分に負けまくり。



でも一つ気づいたことがある。
だから、それを試してみようと思っている。
これでうまくいくといいな・・・。


ほんと、がんばれよ、私。
今のところ、私に「よくがんばったね。なでなで」ってしてくれる人はいないのだからね。
一緒にくっついてて叱ったり励ましたりして、一緒に歩んでくれる人はいないのだからね。
そういう人を求める気持ちになってもいけないのだよ。わかっている?


って、常に自分に言い聞かせていたい。


だめなんだなぁ。ほんとうに。甘すぎ。私。
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余計なお世話

遠い親戚ほどやっかいだ。
心配のない、心配の振りをした好奇心が大嫌いだ。
何か問題が起こった時に、誰か一人の当事者の話しか聞かずに判断する人が大嫌いだ。
ましてやそれを、「それが唯一正しい答え」という姿勢で説教する奴は反吐が出る。


親切の押し売りはやめて欲しい。
事実の裏側を知らずに責め続けるのはやめて欲しい。
しかもそれが解決したことなのだから尚更。
一体何ヶ月引っ張るのか。この話題で。




久しぶりに会った叔母は、開口一番にこう言った。


「あらー久しぶりー。子供たちにはしょっちゅう会ってるけど貴女にはしばらく会ってないわね」


新年早々嫌味ですか。叔母様。
私は離婚した年の1月〜3月、祖母の家で妹に子守を頼んで仕事に行っていた。
保育園の入所が4月だったから。
その当時の事を彼女は言っている。


「子供を朝から晩までここに置いてたんでしょう?」


いきなりトゲのある言い方ですね、叔母様。
それでは私はその3ヶ月間、どうやって生活すればよかったのでしょうね。
それでも毎日子供を預けることが出来なくて、週に3日しか働けなかったというのに。
叔母様、貴女が代わりに私の家の家計を面倒観てくれるつもりでいたのですか。
それほどの甘えも許されませんか。私には。


「去年よねぇ」


叔母様。それは2年前の話です。
2年前の話だと私が言っているのに聞く耳もたない叔母様。
そうですか。あれが去年だとしたら、叔母様の目に映るうちの娘はさぞかし急成長を遂げたでしょうね。一体どんな話を祖母から吹き込まれているのやら。


話は変わってすでに解決した、妹拉致事件について。
今度は従姉妹が突拍子もないことを言い出した。


「あなた、おばあちゃんに心配かけちゃだめだよ。行き先わからなくて本気で心配してたんだよ」


ストーカーに狙われているうえ、祖母の家に上がりこんだストーカー本人と仲良く喋っている祖母に私が何を言えただろう。
妹<ストーカーくらいで好意バロメーターあがっていたくせに、私が当時居場所を教えたらまちがいなく貴女は私の家の電話番号と住所を教えていたでしょう。
29のいい大人が、後先考えずに連れてくるはずがない。


何を言っても通じない従姉妹。


「何があってもおばあちゃんにだけは・・・」


と、何度も念を押されました。
そこまでバカじゃないですよ私。
最悪の事態が起こった時に、たいして傷つきもしないくせに。
無責任な親が増えている、らしいが、無責任な「大人」の数の実に多いこと・。
色々なものを捨てて整理したい気分です。


あーめんどくさい。勝手にしててくれ。
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空洞

これをどうやって表現するべきか、ずっと考えていたのだけれど。
どうも空洞のようです。

ああどうしよう、っていう辛さはない。
自分が無理しているっていう実感はない。
出来ないことにたいして責める気持ちもない。
でもどこかいらいらしている。
落ち着かない。


尻の座りが悪いのです。
違和感がある。


本当に寂しい状態なのかなぁ、今。とも思ったりします。
んーまあでもそれはそれでいいか。
そういう期間があるのも悪くない。


今まで頭や心に占めていたあのお方の事を考えるという部分が、使い道なくなっておろおろしているという感じ。
考えていないわけじゃない。
やっぱり何かにつけて頭をよぎるから。
あのひとのこと。


頭をよぎるだけで考えるわけでもない。


だから、何も考えたくない。
何も考えないでいたい。
さて、自分の本心はどこにあるのだろう。


今、私の周りにいるひとたち、私の周りをとりまくひとたちは、
私の助けになるひとたちなのか、その逆なのか。
そういうものを視る目と勘が鈍っている感じ。


わかっているならじっとしていればいいようなものだけれど、
それが出来ていればこんな風に思い悩む事はないのだな。
それが出来ていればそもそもあの人だって求める事はしないのだな。


しかし、自分の考え方や気持ちがちょっと変わっただけで、なぜこんなに面白いように周囲の環境が変わるのだろう。


悪魔が笑って舌なめずりしてる、というイメージがある。
私はそこを無防備に歩いている。
あるんだけど・・・そこ、抗えない。
あれは悪魔なの?なんなの?
という、わたしなりの確信、答えが得られなければ、きっと私は吸い寄せられていくんだろう、というイメージがある。


ほーんとに、いいのかこれで。私は。
でもなんか、ひとふんばりの余力がないもんなぁ。
ほおんと、疲れ果てたよ。私は。
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043自分勝手。

自分勝手。


人は誰でも自分ひとりぶんの幸福を希求し追求する権利を持っている、はず。
自分ひとりぶんがしたいこと、望むことだけを叶えるって現実的じゃない。
幸福追求の権利、ってあるけどさ、大事な権利らしいけどさ、幸福って言葉の意味するところってなあに?


自分の望む形にあれこれやろうと思って、相手を裏切る。
そんなつもりがあろうとなかろうと。
相手が裏切られたと思ったら、裏切った事になるわけで。


あの人にされた事とそっくり同じ意味合いの行為をその人にする、みたいな。


じゃあそれは、自分のなかでこういう筋道が立っているから間違っていない、と、堂々と主張できるほど私は強くないので。


それで、私自身の言葉が軽くなる、のならば。


そこで理解をしようと、踏み込む気持ちがないのならば。


関係はそこで途絶えるわけだ。


この作業はひどく気力を使う作業で、そういうものが好きではない私は、結構無理しないと出来ない。
無理を押してまで、自分の意思を伝えたいと思う相手はそう多くない。


あの人にされていて、私がこうなっている理由や道筋と、
その人にしていて、指摘される行為の理由や道筋と、
判りすぎるほど、自分では判っているのだけれど、それを筋道立てて第三者に伝わるように説明するだけの力がない。


周りの人達に振り回されるのは、今に始まった事じゃない。
ただ、振り回され方が変わっただけ。
振り回されるという言い方に異論を唱えたい人はいるだろう。


振り回されてるのは、こっちだ、と。


それもものすごく理解しているのだ。私の中では。
ただ、やっぱりそれを第三者にわかるように、言葉を使って説明することが非常に難しくて、そういうことを私はしたいなと常に思っているのだけれど、形にするとまったく違ったものに変質してしまう。


その、変質するという事に、今は過敏になっているような気もする。
言葉を使って伝えたいこういう事柄が、ことごとく間違って受け止められてしまうことの恐ろしさ。


だからとっても慎重になり臆病になり、私は自分の言葉が紡ぎ出せなくなる。


言葉で全部を現そうと思ったら、一言なのだもの。


***


「ぬいぐるみみたい。私」あるいは「子供の玩具みたい。」



「対象年齢12歳」って書いてある玩具を与えられて喜んだり戸惑ったりしている、5歳児。そんな感じ。
分かるのは、これが大切なもの、ということだけ。


あるいは、今あったらとても助かるだろうなぁという気持ち。
でも、その先が見えないことの不安。
読めない不安。


皆が皆勝手だってことだ。


自分勝手だけでは何も成り立たない。
だからここで、見極める勇気が必要だ。


決めて、方向性を打ち出す勇気が必要なんだなぁ。
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042散文

それは、くる。


嫌がったって、拒絶したって、どうしようもないのだ。
くるのが分かっていたって、避けられないのだ。
どうにか逃げようとして、どうにか避けようとして、私は必死に考える。
先に道がないのも分かっているから。落ちたら最後、しばらくはその暗くてじめじめした中にいなくてはならないのが、分かっているから。


でも、避けようはなく。


私はやっぱりそれに呑み込まれる。呑み込まれて流されて、落ちる。
そこからまた、必死になって這い上がってくるのだ。この場所に。あるいは、もう少し景色のちがった場所に。


それは、姿を隠してくることもある。


そういう時は、周到に罠を張り巡らせる。
私は慎重になっているのだけれど、慎重さも最初の危機感を忘れれば穴が出来るもので。
その気づかずにうっかり出来た穴に、するするとたやすく侵入してくる。
気がつくと私は、自らの足で、その場所にいる。暗くて、じめじめした、その中に。




さて、何かが変化する時。


その変化は好ましいものなのかそうでないのか。或いは、先に好ましい結果を産み出すのか否か。
その判断は、至極難しい。

自信がないよ、と、言う。

そんなもの皆持ち合わせていないよ、と、言う。

でもそうなのかな。と、私は思う。


確信を持って下した結論が、正しいか否か、いや、好ましいものか否かは、誰にも判らないし、決断を下した後に行動すること、を躊躇する事は、至極当然の事のような気がする。
それは、自信がないのでは、ないのだ。

自信がないということは、その確信がもてない事。
自分がこう思っている、自分はこう動くのが正しい、という、確信が持てない事だ。

確信した後に行動が移せるか移せないかは、勇気の問題だと思う。
勇気のない人は、行動しなかった事を悔いる。
あの時のあの確信はやっぱり正しかった、と、悔いる。


さて、今の私にないものは、勇気なのか自信なのか。
こういう時に誰かに頼りたくなる、誰かに答えを求めたくなる、これは依存気質。
いやだね。自分で決めればいいのに。

人の力をあり難く借りることと、依存する事は、どんな違いがあるのだろう。
全てが依存だとしたら、依存せずに人は生きる事が出来ない。


見渡す限り、何もなく、ただただ砂の広がる砂漠の中、自分の進むべき正しい方向が見えず。
けれど留まるわけにもいかないので、歩く。歩いている。
自分の歩いている方向が正しいのか、正しくないのか分からないまま、歩いている。


けれど、道を間違えたら、その道を一歩踏み外したら奈落の底に落ちる、そんな細い道を歩いている。


こんな感覚に陥った事が、過去にある。
やっとのことで、少し道が見える、風景の見渡せる場所に戻ってきた。
けれどそれは、ほんのちょっとの出来事で簡単につき落とされてしまうような、危い安定で。


私はまた、堂々巡りの疑問を頭の中で反芻する。



依存ってなあに?



強いってなあに?



弱いってなあに?



本当に綺麗な事など、この世にはない。綺麗なものに憧れるからこそ、人は自分を綺麗に飾りたいんだろう。


自分がどこまで綺麗ぶっているのか、そうでないのか、測る定規はない。
人が自分を飾らないでいる事など出来るのだろうか。



本当の善意はある。信じている。けれども偽善との区別がこれまたつかない。



ある人が言う。「愛を分けてあげますよ」
愛って分けられるものなの?
っていうか、愛って何?
愛するってどういうこと?



それは、気持ちのありよう以外の何者でもないと思うのだけれど。
私がこれは愛だと信じているものが、別の人にはそうではない、という可能性もたくさん。


でも、愛するという定義が揃わなかったら、どうやって人と人は愛し合うのだろう。


そこの隙間を埋めて行く努力をしなかったら、どうやって人と人は関わり合っていくのだろう。


人を信じる基準、指針、そういうものが、一般の人とずれている、と、思う。
警戒心を持ちなさい、と、よく言われる。



でもね?人を信じるなんて感覚の問題なんだよ。
目に見えないものを信じるっていうことが、信頼というものではないのかな、と、私は思ったりしている。
それが、なくしたくない関係になればなるほど、その信頼は、なくしたくない自分のエゴ故に脆くなる。
その重圧に耐えられるか耐えられないかは自分次第。



私が誰かを信じる。


無条件に信じる。


周りから、どう見られても。自分が周りからどう見られる行為をしていたとしても、自分の指針は自分の中にあって。



さて。



私は今、誰かを。無条件に信じる事が出来ているのかしら?
弱い弱い人間の私が、無条件に人を信じる事ができるのかしら?



自分では信じていると思っている。
たまに揺らいではいるけれど、根本的なところで、無条件に信じる人は、いる。
逆に、私のことを無条件に信じている人たちがいる。
何を疑うこともなく、一点の曇りもなく。


いつから、彼らは私に対して、懐疑の目を向けて、ひとりだちしていくのだろう。


私が全幅の信頼を、自分の両親に置けないように。
この小さなひとたちも、いつかそうやって私のところから旅だっていくのだろうか。
どうして、素っ裸でつきあえないのだろう。人と人は。
醜い事も嫌な事も。自分のなかにある、そういったものを全部。
認めてしまえればこんなに楽な事はない。



でも、その醜さを全部受け入れられる自信は、いまのところの私にはない。残念ながら。
深く深く、自分の中に潜って、対話する。
自分が認められていない、自分の黒くて暗いものはなあに?



柳のような人になりたい。



風そよそよと揺らぐ柳の枝葉の、しなやかさ。
しなやかに、さらっとかわして、根っこは揺らがない。
そういう人になりたい。



私の枝葉は、まだまだまだまだ硬い。



何が言いたいかっていうと、もう、どうしようもなく、八方塞な気分なのですよ。
そんなどん底気分の散文。








あー。逃げたい。遊びたいぞ。と。ひとりになりたいぞ。と。
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041わたしのおとうさん。

私のお父さんの話をしよう。

私はお父さんが30歳の時に産まれた子供だ。
お父さんとお母さんが結婚した時、すでにお母さんのお腹の中には私がいた。

俗に言う「出来ちゃった♪婚」ですね。

お父さんは世界の狭い下町の小さな床屋の主人で、祖父が50歳過ぎくらいで他界した後、自分の夢を諦めて祖父の借金ごとその床屋を相続していました。

お父さんは愛を知らない人でした。

愛を知らない人は、父親になっても、娘や息子に愛を注ぐことが出来ません。
私の父親も究極の自己中人間でした。
自分が嫌なら子供がいくら求めていても捨て置く。

父親に愛されていると感じた経験がない。

私はそういうことを、特に何も感じる事なく生きてきた。
大人になった。
どう頑張っても父を尊敬することが出来ない。

父と母が結婚してから21年目、父と母は離婚をした。
母のことを、どうしても愛しているように見えなかった父に、どうしても聞きたかった事を聞いた。

「あのさ、お父さんはお母さんの事、好きだったの?」

父はこう答えた。

「好きだよ。でも別れたいって言ってるもの、引き止めても仕方ないだろう?」

さらにこう続けた。

「お母さんは寂しがりだから。…でも、寂しいと思える人よりも、寂しいと思わない人の方が寂しい人なんだよ」

と。

父には寂しいという感情がない。
正確に言うとその感覚を麻痺させているのだろう。
そうやって50年以上生きてきて、きっと死ぬまでそうだ。

寂しいという感覚がわからないのだろう。
なぜなら、寂しくない環境にいたことがないからだろう。

人に愛された事がないのだろう。
だから愛する事を知らないのだろう。
自分に理解出来ない人を、見下すことで自分を成り立たせているのだろう。

それで家庭が築けるはずもないだろう。
母は、21年間すごーーーーーく無理をして頑張ったんだなぁと、その時に思った。

わからないことを責める事は出来ない。
それはわからせて教えることしか出来ない。
けれどこの類の事は、ある年齢までしか学ぶ事が出来ない。
そしてこの類の事は、歳を取れば取るほど学ぶのに大変な思いをする事になる。

父にはまるでそういうものがないまま、大人になってしまったんだと思う。
父は世間体というもののために結婚をし、傍にいてくれる人たちに愛情をかける術を知らず、自分本位に物事を進めて来て、年老いてしまった。

年老いた父に残されたものは、限りない孤独だけだ。

子供を3人(正確には5人)もつくったのに、その誰もが父によりつかない。

どころか、頼ってきた子供を追い払う。

表面をいくら取り繕ったところで、そういう自分しかない心を実の子供が見抜けないはずもなく、父は、ただ、「一般的な」親がして当然のことをしないひどい親として、非難され続ける。

けれど父がどうしてそうなったかという理由を知ってしまったら、責める事が出来なくなる。

けれど私にしてきたことは、私や弟や妹にしてきたこと、これからし続けることは、私達の心の中に残って消える事はない。

こうなったら、かかわりを断つしかないのだ。

人の真心を知らない人。

本人のせいではないよ。

けれどもそのせいで傷つく人はどうしたらいいんだろう。

一番大切なのは。

そういう人をつくりださないこと。

誰にも罪がなくて、誰もが悲しい思いをするなんて、嫌だもの。

私はきっと、たった一人だけ、そういう悲しい人を救うためにいる。ここに。

そしてその人を救い出すことが出来たら、私も救われる。きっと。
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040よく見詰める。

今の自分の状況をはかれない、というのは、非常に恐ろしい事だ。
出来うる限り、冷静に、距離を取って、自分自身の現状を見詰める。
私が私を見る。
その距離は、0。

どうしても死角の出るその視点。
その死角を、ないがしろにしてはいけない。
だから、できるだけ、自分以外の人の話はよく聞く。
吟味して吟味して、自分の中に消化する。

過分なきよう。
不足なきよう。

自分の立ち位置を探ること。
とても基本的なこと。
基本的だから、ないがしろにできないこと。

そして、実はとても難しいこと。
過信してはいけない。
自分の視点に。
間違いは間違いと認められる冷静さ。

今の自分の、本当の、根っこにあるものを。
気持ちの動きを。
冷静に、冷静に。
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自分の中身を覗いてみた

トラウマを発見した日の話。
私の今のこの体の不調がなんなのか、わからなくて、でも少なくとも精神的なものだとは分かっていて、考えていた。

何故なら、ここまでおかしくなる理由がわからないから。
ちょっと、異常なのだ。
そりゃ、ショックな出来事があったのは認めるし、それで食らったダメージもそれなりに大きいのも理解している。
けれど、ちょっとご飯が食べられないとか、なんかそれを超えてる感じがするのだ。

外出する時に吐き気なんて、産まれてはじめてだ。
ショックで落ち込んでいるなら、それなりの理由があるはずで、少なからず自覚のあるものでしょう?

でも、なぜ自分がそこまで参ってるのか、その理由が分からなかった。

だから、表面上はとっても穏やかです。
ただご飯が食べられないのと、ただ吐き気がするだけ。

あと、眠れない。

ま、これは解決する気がします。
寝なかったら死にますから。ええ。
ご飯はそんなにすぐ死にませんから。

さて、親友にナビされながら、自分の心の中を探って行った。
突き当たったのは、最初の失恋の時に味わった、巨大な絶望感だった。
嫌いになって、顔も見たくないと思って別れる恋愛って、そんなに多くはないよね。

私の文章の中にも何度も出てくる私の初恋は、元親友だった。

お互いの事がとってもよく分かった。一緒にいて空気みたいだった。
私たちは、確実に、一番近い距離にいた人間だった。

その彼には彼女がいた。彼女と別れた後、私たちが付き合うことになるのは、至極当然のように思えた。

異性間の親友は、タイミングときっかけで、いつでも恋人になりうる。
だって、人としてすでに愛し合っているのだから。

そこまで仲のよい時代を過ごしていたから、お互いにとって、お互いはかけがえのない人物だった。
けれど、ある日突然、壁が出来た。
考えている事も何もかも、分からなくなってしまった。
私から、目を逸らした瞬間。なのだ。

相手が悪いのでも、私が悪いのでもない。
ただ、私の気持ちの進み具合が、あまりに急だっただけのこと。
私を抱え切れなくなった彼は、つぶれてしまったのかな。その辺は、もう今の私には分からない。
彼の本心は、分からない。

けれど、彼が自分の殻の中に閉じこもって、私を締め出した事だけは分かっていた。
どうしてそうなったのかも、分からなかった。

そして、ある日。

彼から電話が来た。
いつもなら掛かってこないような時間に。
これから仕事に行く、という時間に。(彼は夜と朝仕事をしていた)

「どうしよう。俺、前の彼女の事が、忘れられないみたいだ」

と、彼は言った。
嘘なのは分かっていた。
けれど、そう言い張る彼に、私が言える事はなかった。
だって、彼の中から閉め出されてしまったのだから。

「どうしたらいい?」

と、聞く彼に、

「だったら、一旦お友達に戻るしか、ないんじゃないの?」

と、私は答えた。
一旦、と言う言葉を、流してほしくなかった。私の、必死の、抵抗だった。

でも、私は彼の事を本気で愛していた。
彼が幸せになるために、私には何が出来るのだろうと、そんな事ばかり考えていた。
体が弱かったんですね。生まれつきの病気を持っていた。

睡眠不足や、過度の疲労は病気の大敵だった。なのに、彼は体を痛めつけるような事ばかりしていた。
徹夜の次の日、顔がパンパンにむくんでいる事があった。

「おしっこ真っ黒ー」

って笑っていた。

私は、どうしたらいいだろうとずっと考えていた。
今なら、そういう行動をとる彼の気持ち、分かるんだけれど。
当時は18歳だった。分からなかった。

心の強さも脆さも、全部が自分基準だった。

そして、私の強さに、彼が折れた。

私から、逃げた。

でも、心の反面では、私はそれでもよき理解者だったのだ。
東京で、唯一の。

地方から東京にやってきて、夢を叶えるために東京にやってきて、
ずっと一緒だった、傍にいた、理解者を手放すこと。
望んでいたはずがないのだ。

けれど、それは恋愛対象ではなく、という話。

ここが難しいね。どれだけ合っている人とでも、タイミングがずれたら、
それは壊れてしまう。から。


私たちは、ほんの一点、(多分一点)が合わなかった。
けれどそれは、恋愛する上では決定的な一点だった。

何がなんだか分からないまま、私たちは別れた。

あの時の事を思い出すと、今でも怖くなるくらい、二度と経験したくない痛みだった。
そして、私は求めた。求めて求めて求めて、彼を求めた。

結局、どれだけ求めても、どれだけお互いがお互いを必要としていたとしても、
心の壁一枚でダメになってしまう。たった一点で、ダメになってしまう。
そういうこともある、と言う事を学んだ。

上手に諦める方法を身につけた。

今考えても、長い長い1年だった。

その1年の間に、私はおそらく多くの事を学んだ。

黒い雲が晴れた頃、私は一気に多くを学んだと言うことを理解した。

そして、今まで気づかなかった、恐怖も学んだ。
私は、怖い。

どれだけ気持ちが近くにあっても、そんなこととは関係なしに、お別れしなきゃならないことがある事を知っているから。

そのときの痛みが半端ではないことも。

彼も相当痛い思いをしていたはずで、私は別れた後で、彼をめっためたに傷つける結果になってしまった。
好きだから幸せになってほしいと思う反面、心で私を求めている、その声が聞こえていたから。あるいは、聞こえている気がしていたから。

気持ちがどうであれ、もう、一緒に歩いていく気はないんだと決めたら、
振るほうは、意地でも世界一の幸せ者を装わなきゃいけないってこと。

一瞬で、天国から地獄に落ちた、あの衝撃と痛みを、そして、一度扉を閉じられてしまったら、どれだけがんばっても、声が届かないと言う事と、

・・・みんな、嘘をついてはなれて行くと言う事と。

どの恋愛も。

振られて終わった恋愛の、相手の言い分は、

「前の彼女が忘れられないんだ」

あるいは、

「昔の彼女の面影を求めているんだ」

納得できなくても、納得しなきゃいけない、最強の断り文句で。
私は何も言えなくなる。

こんな恐怖で、自分がやられてること自体、今の相手に失礼だなと思うんですけれど。
この辺はどうも理屈ではないみたいで、どうにもならないようです。
覆してくれるの、信じてるよ。

こんなつまらない過去、覆せるって信じてるよ。

私にあと一歩の勇気を。

こんな恐怖に打ち勝つ、勇気を。

これだけ諦めないで、食いついてる自分をまずは褒めてあげたい。
よくやってるって褒めてあげたい。
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輪の中と外。

内輪受けとか、あんまりいい意味では使わない言葉ですが。
今回はそんなお話。

某サイトで、こちらに何の連絡もなく、そこのサイトとは別に活動しているサイトの事を書かれまして。

あちらのサイトとこちらのサイト、本人がリンク誘導せずに告知もせずに運営している場合、それがどういう意味を持つのかくらいは、ネット暦もサイト運営暦も長い彼なら、すぐわかることだと思うのですが。

偶然見つけてしまった。それは本当に偶然に過ぎない。
けれど、それを彼女が活動している某サイトで晒す事はないんじゃないかと思うわけです。

彼女と晒した本人とは、お互いメールアドレスも知らない間柄だと認識しています。

連絡の取りようがない間柄だったら、なおさらこれは、やっちゃいけないことなんじゃないのかなと。


確か、彼はリンクの件で、別の方と争ったはず。
リンクを貼らないだけで、やっていることは同じじゃないの?って思うんだけど。
むしろ日記のネタにしてるぶん、やってることは悪質のような気がするんですが。

仲良しの内輪で、過度な晒しあいをして遊んでいたのも見ていました。
でも、彼女は内輪の人なの?輪の中と外の境界線を越えてはいけないんじゃないのかな。

自分にとっては些細な事でも、他人が同じ事をやられて些細な事と流せるかどうかは別の話です。

ついでに言うと、彼が偶然発見する事となったリンク元の方との友達づきあいは、日が浅い。非常に浅い。
こういう事で新しい人の輪が、ぐちゃぐちゃになってしまう可能性も多分にあるわけで。

そういう事は、解ってる人だと思っていましたが。

私がこんな場所にこういう文章を書くのも、あちらとこちらの人間関係をややこしくしたくないからに他ならない。
でも、こういう事はもう二度とやってほしくない。


少なからず、晒された私のお友達は、とんでもないショック受けてました。
これで彼女が今あるブログを、今のブログの人間関係ごと清算する事態になったらどうするの。

私というつながりがあったからこそ、そうなってしまったなんて結果になる事だけは、避けたいですね。正直。

それは、私の顔を、彼がつぶした、という事になりますから。
早急に対処願いたいところです。
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近況

本当に何の気なしにだったんだけれど。

ひょんなことから、昔の彼氏の今を知ることになった。
インターネットって、本当になんていうか。。。すごい。

前の記事でも、すこーし触れている人なのですが、
10年ほど前に、付き合った方です。
産まれて初めて、本気で好きになった人です。

地元に戻って、1年前に会社を立ち上げたようでした。

個人のブログもリンクされていて、そこには、元気そうで、
充実していて、幸せそうな彼の姿がありました。

なんかね、すごく嬉しかった。

10代の終わりの時期、私と彼は紛れもなく親友だった。
一番の理解者だった。で、一番近くにいる人だった。

毎日のように顔を合わせて、毎日のように長電話して、
毎日のように、夢や将来のこと、明日のこと、今日のことを語り合った。

彼は病気を持っていた。ちょっとやっかいな病気。
それでも普通に無理をして、うん。やりたいことがいっぱいあったのね。
「今は東京にいるけれど、将来は地元に帰る。地元でこういうことやああいうことをやる。」
って、目をキラキラさせながら語っていた。

多感な時期、色々吸収して、大人になる準備をする時期、
彼から影響したことは数知れず、多分、私も少なからず彼に影響した。

そこから恋人になって、別れて。

別れた後も、中途半端に友達のような妙な関係を続けていて。

そして、彼は別の人と故郷に帰った。
その頃私にも、恋人がいた。

無駄に意地や何かを張り合いながら、お別れの挨拶もせずに彼は故郷に帰った。



10年経った今、彼は彼で自分の家庭をしっかり守って、
でも、あの頃語っていた「やりたいこと」はしっかりやっていて、
なんだかとってもキラキラして見えた。

何より元気そうなのが嬉しかった。

元気でいてよかったなぁ。幸せみたいでよかったなぁ。

私もそれで、すごく元気を貰った。

私の何かを、確実に変えてくれた人で、もう、一生会う事のない人。
私は本当に、彼に感謝をしていて、だからこそ幸せな姿は嬉しい。

ああ、私もがんばらなきゃなぁって思えた。

私の人生、あれからなんだか波乱万丈って感じだけれど、
それでも私なりに、今幸せだって言える。
今の自分が好きだといえる。

ありがとう、お互い幸せになろうね。って言えなくて。
思ってたくせに、言いたい事を何も言わずにお別れしてしまったから。
心のどこかで気がかりではいたんです。今何してるんだろうなぁって。
幸せにしてるのかしら。元気なのかしら。って。


私を変えてくれた人。

色々な人と出会って関わって、私は変わったり変えたりしてきて、
色々な人に助けられて、知らず知らずに誰かを助けていて、
そんなものがめぐったりまわったりしていて、

そして、「今、元気出さなきゃな。今、がんばらなきゃな」
って思ったそのタイミングで、この彼からこんな元気を貰って。

そしてまた今、私は大きく変わりつつあって。

その、変りつつある私は前よりも好きな私で。

変えてくれた貴方にやっぱり感謝していて、

そして貴方が、私の今の一番なんです。

私の中に、今確かにいる人。


胸を張って「ひさしぶり。元気そうで嬉しかった」って、彼にお手紙出せる日まで。

もうしばらく、心の中にありがとうは留めて置こうとおもいます。

私は私の一番の貴方のために、貴方を見詰め続けます。
貴方と一緒にわらって、

「今私も幸せよ。充実してる」って、言いたいね。

うん。でも言えるって信じてるから。
だから今でも私は充分胸を張ってるんだよ。
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贋作

偽物と本物の境界線の話。

簡単に使いますけどね、偽物、本物って。
偽物がどんどん、本物に近づいていっていて、
まあ、人の技術もすごいのねーなんて思いますが。

でも、偽物と本物って、確実に違うわけですよ。

んー見方を変えて。

ジルコニアは偽物。と、思う。

メロンパンは?と、考える。

…メロンパンは、なんか、本物と思う。

うむ。

アンパンマンパンは?

・・・ちょっと偽物っぽい。でもあれは微妙。

ああ、そう。

うちの祖母の趣味は、お花を作る事でして。
お花のパーツが売ってるんです。
花びらとか葉っぱとか。
それに色をつけて、コテとかハンダとかでカーブをつけて、
お花を作るんですね。

コサージュとか、あとは、本当に鉢植えみたいにして。
「うわぁ、本物みたいぃー」
って、思うんですけれどね、最初は。

本物と同じものが作れたという自己満足だけなのでは…と。
作るまでが楽しいのが造花…そんな気がしました。


うちの父親が韓国へ行ったときに、
プラダの偽物を買ってきました。
得意げに、「これは偽物だけど、本物とそう変わらない」と。

そのもののデザインや機能性に惚れるのではなく。
そのブランドのロゴ、小さな小さなロゴ。
それだけに価値を見出して、持って、喜んでいる人たち。

そりゃ、いいお値段の分だけ、中身も素晴らしいんだと思いますが、
その良さを理解してお金を使うのと、
その表だけに吸い寄せられてお金を使うのと。

モノが本物、偽物ではなく、
使う人が本物?偽物?

そんな事を思ってしまいます。

何かに憧れる、誰かを目標にする、事は、いい事だと思います。
素晴らしいことだとも思います。

でも、何かを目標にする事は、そのものになることではないはずで。
そのものや、人と肩を並べるという事ではないかな、と思います。

何かがいいと思う。それを、自分の中で消化せずに取り込む、
あれが流行ってる、これが流行ってる、で、取り込む。

あれはいい品だ、と、聞く。

何も考えずに取り込む。

偽物の出来上がりですね。

偽物にならないように、常に自分の心と感性は磨いていたい…
と、思っています。
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出会いとタイミングの話。

んと、そんな不確かなもの信じてどうするんだ、という突っ込みが入るのも承知で。

私には今、現存している弟妹が一人ずついます。
一人は2歳下。今26歳。
一人は8歳下。今20歳。

この間に、7歳下の弟がいました。
彼は、生まれて半年で亡くなってしまったのですが。

小学校の1年だった私は、彼の事をとっても可愛がって世話をしていた記憶があります。

弟が死んだのは、乳児には珍しくない、
「腸重積」という病気です。

何かの拍子に、腸が重なってしまって、その部分が壊死してしまうという病気。

体のまだ未熟な乳児によく起こる病気。

それはさておき。

私は人と出会う運に、ものすごく恵まれていると、自分で思う。
誰かからプレゼントされてるみたいなタイミングのよさ。

こういうとき、弟の存在を感じる。

ああ、見守っていてくれるな、って思っている。

せっかく用意してくれた出会いなんだから、
大事に使おうと思う。

世の中に無駄な出会いなんてひとつもない。
皆それぞれに、大なり小なり、何かを残して行ってくれる。

弟のプレゼント、って私が勝手に思うことで、
私が勝手に頑張る姿を見て、きっと弟も喜んでるんだろうなぁ、と。

今はもう会わない人。
今はもう、どこで何をしてるんだか分からない人。

大切だった人。

好きだった人。

嫌いだった人。

皆みんな、そういう出会いの一つ一つが私の成長に関わってるんだなあ、と。

どんな出会いであれ、その出会いをどういう風に生かすか、殺すか、
それは、自分が取って来た行動と、
自分の気持ちの方向と、

少なからず、今までの自分の道を振り返ってみると、
「こうありたい」と、思っている自分に、
ちょこっとずつだけど、近づいてる気がする。

それは、きっと、私と出逢って関わってくれた人たちのお陰で。

そういう人たち皆に感謝。

そのタイミングで出会えた事にも感謝。

そして、そういうタイミングのよいきっかけを作ってくれている(だろうと勝手に思っている)弟に、感謝。

頼りない姉だと思う。
お空の上からハラハラしっぱなしだと思う。

んでも絶対に途中で投げ出したり、
いい加減になったりはしない。

あなたが味わえなかった「俗」な部分を、
散々味わっておいてあげる。
あなたが、味わえなかった分。

あなたの(私の)母親も、私も、 なんだってこうなんだろう。

そしてこんな人生である自分が、大好きでしょうがないところも一緒。

お迎えが来るまで、精一杯手を抜かないで生きるのが、
私の責任だよねー。

見守ってくれる人に対しての、お返しは、
きっと、それしかできない。
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表面と中身

「自分に都合悪いのは排除して
都合のいいとこだけで付き合って
・・・上っ面の馴れ合い 」

さあて。

ネットに限らず、この上っ面の馴れ合いしてる人ってどのくらいいるかな?
ってことです。

友達という表現ってとっても曖昧でして。
どこからを友達と呼ぶか、どこからが親友で、どこから知り合いなの?
っていう。

自分で言うのもなんだけれど、
私の友達の基準、ハードル高いです。

私の場合…
こういう文章を書き、不特定多数の人に自分をさらけ出してるくらいですから、
普段の人付き合いもまあ・・・それくらいさらけ出てます。

故意に人に応じて態度を変えられるほど私は器用ではなく…
と、思っていても、無意識レベルで相当警戒したり防御したり。
人によって、その人との距離によって、
私が見せる側面は、変わっているようです。

上っ面の馴れ合いレベルでは、到底私は友達と呼べないのですが、
上っ面の馴れ合いしか出来ない人も世の中にはいます。

都合よく調子よく、の場合もあれば、
どう頑張ってもそれしか出来ない人もいます。

都合よく調子よく、うわべの付き合いをされると、どうしても利用されてる感がぬぐえません。
別に利用されるのが嫌だとか、そういう事ではなく、利用するならすればいいさ、というのが本音です。

ただ、自分が、そういう事をわかっていればいい。

ちょっと前まで、自分がバカになるという事がすごく嫌だったりしたんです。
なんかそういうのはどうでもいいかな、と、最近思ってます。

一般論・世間・普通は・常識的に・ハタから見たら…とかとかとか。
ほんっとうにどうでもいい。勝手に解釈してくれ。
本当のことなんか、外から見てたって結局わからない。

だったら別に、いいじゃない、と。

ただ、自分の中ではちゃんと分かっていようと。
騙されるのは嫌だ。分からずに騙されるのは嫌だ。

でも、分かっていて騙されるならそれはアリじゃないかなぁって思います。

結局、自分を育てるのは自分しかいないし、
いくら素敵な出会いがあったって、それを生かすも殺すも自分次第であって。

なんか、裏切られるのが怖いから閉じてうわべとか。
もっと傷つくのを怖がらなきゃいいと思うんです。

でも怖いんだよねぇ、傷つくの。

でもね、傷つかなかったら対処法もなにもないんだよね。

傷ついた時の痛い記憶も確かにあるし、それは二度と経験したくないけれど、
きっとその時に得た物もあるはずで。

とびっきりの幸せな記憶と、とびっきりの痛い記憶って、
なんか背中合わせで、それは切っても切り離せなくて。
どちらを取るかはその人次第。

でも、とびっきりの幸せが欲しいなら、やっぱり覆ってるものは外さないとなぁ、と思うわけで。

故意に態度を使い分けられる人は、それでいいと思います。
その代わり、そうされた時は、こちらも「ああ、そうなんだなぁ」って思うだけ。

だからどうしようとか思いません。

それでも。。。。

そこまでして、うわべの付き合いして何が楽しいのかなぁとも思うわけです。
だってねぇ、疲れません?

たのしいです?それ。

いや。。。。

そういう人を批判するつもりは毛頭なく、
そういうところを克服しようと頑張ってる人も沢山いて。

それは似ているようで全く違うこと。
それは見ていれば解ること。
物事の本質を見なければいけない。人との関係に於いても、きっとそれはそう。

その上で、こうして観察してしまうことも、自分の弱さの一つと自覚しつつ・・・。

ね、なかなかこういうのって克服できないよねぇ。

日々、まだまだ勉強あるのみ、ですね。まったく。
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ショートストーリー

◆とあるサークルで書いたリレー小説です。だから完結も何もしてないの。



すでに空になっていた。

ない。ない。ないない。
もう一度なかを覗いてみる。やっぱりない。
「あれがないと困るのに…」
そう、いつか使う日のために、大事に大事に取っておいたのだ。
今こそ、あれを使う時。
今を逃していつ使う。

そんな気分だったのに。

いっつもこうなのだ。普段は何気なく目についているのに、必要な時に出てこない。
探しても探しても、その時にはどうやったって出てこない。
タイミングを逃して、使う時期を逃して、途方にくれていると、ふと目の前にあったりする、そんな感じ。

でも。

これだけは失くしたらいけないのに。
何がなんでも見つけないと。
大事で大事で、だからなくならないように、大事に箱に入れておいた。
カギを何重にもかけておいた。

・・・なくなるはずなど、ないのに。

あるはずなのに。いつの間になくなったんだろう。

あると思うから、いくらでもどうにでも笑ってこられた。
あると思うから、何をされても言われても、笑って誤魔化せた。
でも、誰にも見られたくなかった。

その結果がこれか。

どうしてもうちょっと早くに…見ておかなかったんだろう。
そんな後悔ばかりが頭をよぎる。
ない、と、気づいた瞬間、世界はこれほどまでに頼りなく、不安定なものなのか。
昔はこんなに大事にしまっていなかった。当たり前に、手元にあった、それ。
でも、自分の一番大切なそれは、理解される事もなく、みんなの嘲笑の的になった。
自分の一番大事なものを、理解されないどころかバカにされるなんて、とてもとても耐えられなかったのだ。
だから、蓋をして、鍵をかけた。

解らない奴なんかほっとけばいい。しょせんその程度の奴なんだ。
いつか、これを理解してくれる誰かが現れるはず。そう。自分は特別なんだから。

そんな風に思い続けていた。いつか現れるはずの誰かは、未だに現れない。
・・・いや、怖くて見せる事が出来なかったのだ、いままで。

あの子は・・・初めて見せてもいいかなって思える子だったんだ。
あの子ならきっと・・・でも、もしあいつらと同じように嘲笑われたらどうしよう。
そんな事を思い続けていたんだ。

もう、限界なんだ。
見せないわけにはいかない。

今しかないんだ。なのに。なのに。

なくなってるなんて・・・自分の信じてきた自分は、一体どこに置いてきたんだろう。
一体今の自分はなんなんだろう。

なくなるはず、ないじゃないか。そうだ、きっとあるはず。諦めきれず、もう一度箱の中を覗く。

…隅に、小さな小さな、それを見つけた。
もう、曇ってしまってどうにもならないように見える、それ。
あの頃から比べたら、どうしようもなく小さくなってしまった、それ。
長い間、しまっておいた結果がそれなのか。

今ならまだ間に合うかもしれない。大丈夫だ。大事に大事に磨こう。
そうしよう。

それに手を伸ばす。
手を伸ばした瞬間・・・それは跡形もなく、崩れ落ちた。
え・・・・・・・・・・!

 ビクッと目を覚ました。
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グループと個人

私は、ひとつ同じところに留まっている事の出来ない人間だ。
小学校の終わりごろ、クラスの男子ほぼ全員からイジメをうけたことがある。

それ以前から、クラスの中でもいるんだかいないんだか、
片隅で大人しくしている、誰からも相手にされないタイプだった。

クラスで目立たなくて、先生にも嫌われていた私は、
それでもあの頃が、一番 素 で生きていたんだと思う。

いじめられるって、とんでもなく辛い。

自分の居場所があるはずの、クラスの教室の中に、
自分の居場所がないのは、本当に辛い。
かといって、いじめられる前から自分の場所がクラスにあったのかと
問われると、それもどうだか怪しいのだが。

もう、もう、本当に今思っても、
あの頃から自分には自信ってものがなかったんだと。

ものすごくブサイクだと思っていたし、
自分が必要な人間とか、そんな事考える事も出来なかった。

居場所がなくても、槍玉に挙げられなければ、
それなりに場所を見つけて生活できるのだが、
いじめられた時に、その場所が全くなくなって、
受け入れられる場所のない辛さを、身に染みて味わった。
それでも小学生は、学校のクラスの教室以外に居場所を求める事が出来ない。

いじめられるほうにも、原因はあると思う。
それは今になればよく分かる。
当時の私は、本当にいじめたくなるような嫌な奴だった

それでもいじめられる怖さは充分身に染みつつ。

集団のグループの中に入ろうと努力したのが中学時代。

グループの中にいて、馴れ合いの中で、余所のグループを排除する、
そういう雰囲気には、すぐに嫌気が差した。

それからずっと、一人でいる。
グループに属する事を拒否しながら生きてきた。
自分を殺してまで、居場所を求めなくてもいいじゃないかと思った。

自由は、寂しい。

でも、自分を殺してまで得る居場所なら、いらない。
自分の居場所は、自分でつくろう。

そんなわけで、私はグループが嫌いだ。

ネットでも実生活でも、いつも特定の集団と一緒にいることが出来ない。
息がつまるのだ。
外の空気が吸いたくなるのだ。
新しい風をいれたくなるのだ。

昔恋人に、
「オマエは自由である事こそ、オマエなんだ。
好きになればなるほど、自由にしてあげたいと思い、
好きになればなるほど、束縛したくてどうしようもなくなる。
いっそ、束縛するのなら、この手を放してしまおう、
そう思ってしまう。オマエには、自由でいて欲しい」
といわれまして。

私は、矛盾した2つのものを求めているそうです。

自由と、束縛と。

それでも、人間、この2つ、どちらも求めてしまうのではないでしょうか。

それは私だけではないような気がします。

私は、愛した人にはひとつのものしか望みません。

「一番で、いてね」

あとは何してもかまわない。
浮気したって、どっか遊びにいったって、かまわない。
私という存在が一番大切と、
別格と、思ってくれればそれでいい。

何をしていても、お互いどこで何をしていても、
不安になることのない、絶対の信頼関係が欲しい。

ま、これが一番贅沢なのかもしれません。はい。

これ、一番…贅沢な望みなのかも知れません。はい。
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おかあさんの名前

突然ですが、私の子供たちはですね、
色々な呼び名で私のことを呼びます。

最近は、5割くらいの割合で
「たいこ(仮)ーーー!」と、本名を呼びます。
あとはお母さんですね。
時々、フルネームで呼ばれることもあります。
…さらに時々、ハンドルネームで呼びます 。

私は別に、名前で呼ばれることをなんとも思わないのですが、
結構周囲はぎょっとするみたいです。

「あのお家はどんなしつけをしてるのかしら」

てな感じですね。はい。

家庭家庭で、その家庭のあり方だとか。
そんなもん違うんで、
好きにさせてくれーと思うのですが。

私が名前で呼ぶことをよしとしているのには、
たいした理由があるようで、なかったり。

ひとつだけ。

お母さんである前に、私はたいこ(仮)
という一人の人間であるということかなぁ。

子供の前で、「おかあさんだからこうしなきゃ」みたいな事を、あまり思わない。

少なからず縁持って、親子という間柄になった子供たちだから、
一緒に暮らしていく仲間として、
彼らの足りないところや、必要なところは、
結構がんばって埋めてやる。
助けてやる。

子供たちは子供たちで、
本人の預かり知らぬところであったとしたって、
私に何かいっぱいくれている。

それにわざわざ名前をつける必要もないし、
名前は私の名前。それでいいと思うんだけど。
「母」という続柄は、それこそ縁であって。

子供は私の所有物ではなくて、
「長男・次男・長女」という縁であって。

弱い人間ですから、
お母さんの立場でがんばって、
それを後々子供たちに、
「子供のあんたたちのために無理して…」
なんていわない自信はない。

そんな事を、絶対に言いたくないので、
無理やがんばりは、そう思わない程度まで。

私は子供を育てているけれど、
同時に子供たちは私を育ててる。

こーやって色々考えてみても、
お母さんと呼ばないことがいけないこと、
という理由がわかんないのだな。

理由わかんないのに、
「いけないこと」って教えるのは、
私はいやだから。
私は名前で呼ばれることは嫌じゃないから。

…「母親としての責任を放棄している」
とか言われたら、そうなのかも知れないけど。

これはこれ。
我が家のスタンス、ってところでしょうか。
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母親の強さ2

前にも母になる強さ、なんて書いた気がしたけれど。
今回もそんなお話。

前回のナンバーレスエッセイ、私的な内容でしたが、
あの後の話。

ビックリするくらい、自分の中のリセットの早かった事。
驚きですね。昔では考えられない。

確かに… 引きずったら子供どころでなくなる事も予想していたし、
そうなってはまずいという気持ちが、少なからず、
恋愛中も、悩んでいる時もあった事は確かで。

母親だろうがなんだろうが恋愛する時はする、
そこは肯定するけれど、恋愛モードの時は、実際、
母親モードではないのも確か。

そのスイッチの切り替えが出来ないとこれ、困るわけだけど。

母親な自分が、自分へのダメージを最小限に留めようとしていた
事も、また、事実。

これをしたたかと呼ぶか、強いと呼ぶか。

もしかしたら父親には分からない感覚なのかもしれない、
なんて、今回ちょっと思った。

本能のレベルなんでしょうかねぇ。

今回は、最後の優しさに甘えて、いっぱいずるい、というか・・・
ワガママを言いまして、心残りのないように、自分を持っていったという。
もう、そこで計算はいってるじゃん!みたいな。

純ではないんでしょう。

でも、それもそれ、必要な強さですね。
現実を見る強さ。
時にしたたかになる強さ。

ああ、自分は女なんだわぁ…って、なんか実感したんですね。

そんなわけで、周りもビックリするくらいのすばやい復活でした。

凹んでた時間、正味48時間。

ほおんと・・・

・・・強くなったよなぁ・・・

母親になるって、こういう事なんだぁ、、、って、
今回はしみじみと実感してしまいました。
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別れ

今回のエッセイは、非常に私的な内容になります。
私、1月に離婚しました。
離婚の原因は、様々なのですが、
原因ではない、しかし、この人がいなかったら、
離婚していなかっただろう、という人がいました。

私の離婚は、その人抜きでも、遅かれ早かれしていたと思います。
そして、そのときにその人がいなかったら、
多分、私はめためたになっていただろうとも思います。

今回は、お手紙です。
私の愛していた、あの人に向けての、お手紙です。
言いたい事、いっぱいあった。話し尽くせないくらいあった。
それを全部、伝える事は出来ないから。
それを全部、いう事も出来ないから。
まだまだ伝えたかった気持ちの、一部を、見るかもしれない、
この場所に、置いておこうと思います。

離婚という方向に、流れが傾いた時から。
遠からぬ未来に、こういう結末が待っていたことを、
私は理解していました。
そしてそれがとても怖かった。

あなたから家庭の臭いが感じない事の理由を、
最後のあの時に、やっと理解しました。

私は、本当は、あなたと一緒に、遠くからでも近くからでも、
人生を歩んでいきたかった。
それこそ、どんな関係になったって、
手放したくないと思っていた。
それほどの、もう、信じられないくらいの幸せを、
あなたは私にくれた。
それは、時が経っても、思い出になっても、
素敵な素敵な宝物になっていることは、間違いがない。

それは消えないし、それが私の自信になっているし、
その、自信は、これから私が、離婚して生きていくために、
とっても重要なもの。

そういう、独りでも力強く生きていく、
力をくれたあなたに。
ありがとう。
あの時の私を、全て認めてくれて、受け入れてくれて、愛してくれた。

あなたにも、幸せをあげたかった。
それが出来なかったことが、本当に心残りです。

しんどかった事も、それはそれで幸せな記憶です。
誰かのために、あそこまで思えるという事は、
そうそう経験できない事です。

ぴったりはまった、という表現が、ぴったりだった。
出会ってよかったし、きっと、出会うようになってた。
お互い、きっと、この時期に、お互いが必要だった。

もっと早くに。
それを言ってはいけないけれど。

私は私の、道を、見つける。
交わった時間は、とても短かったけれど、
この時間を、私は忘れない。
そして、辛いけれど、今は、
きっとキラキラの宝石に変えてみせるから。

あなたも。

キラキラの宝石に、変えて、
お願いだから。幸せになってほしい。
私が出来なかった事を、できるほかの誰かに、
出会って欲しい。

そして、いつか。
お互い幸せで、あの頃は…なんて、
笑って話せるときが来るといいな。

って言う希望。

約束。

やくそく、覚えてる?

絶対に幸せを諦めないで。

絶対に。

私も幸せを、自分の理想を諦めない。

伝えたい事は、もう、沢山たくさんあった。
言いたい事も、これから聞きたいあなたのこれからの人生も、
沢山たくさんある。

でも、我侭は言わない。
この気持ちが落ち着くまで。
でも、いつでも。人間と人間として、
あなたの幸せは、祈っています。

関係性なんて、とっぱらえるくらい、
強くなりたいね。本当にありがとう。
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ネット依存症

私は、自他共に認めるネット依存者である。
ネット依存の是非について、書いてみようと思う。

以前、私のネット依存度に触れた事があるのだけれども、
そもそもなぜ、ここまでべったりと依存してしまっているのか。
そして、私は一体、何をネットに求めているのか。

きっかけはただの好奇心。

チャットってどんなもんだろう…と思って始めてみたのが最初。
最初のチャット、実はいい思い出がない。
なんせサバ落ちで終了。部屋に戻る戻り方も解らなかった。

でも程なく見事に嵌った。
チャットに嵌った。
匿名であり、相手が何歳なのか、どこの人なのか、下手したら、
男なのか女なのかすらわからない中の会話に、魅了されてしまった。

会話をする事に飢えていたんだと思う。
そして、同じ欲求を持つ主婦も会社員も学生も、
結構多いのじゃないかと思う。

みんな、最初はのめりこむなんて思わずに戸を叩く。

世の中には、こんなにも沢山の人たちがいる。
会社にも、街にも、公園にも。
でも、コミュニケーションは取らない。素通りしていくやまほどの人。

そして、○○ちゃんのママ、という仮面。
○○部の○○課所属の○○さん、という仮面。

仮面は人を無機質にする。

本来仮面を外すべき家庭の中でさえ
父親の、母親の、夫の妻の息子の娘の兄の姉の妹の弟の仮面を、
被らざるを得ない状況。

仮面を取れるのは一人のときだけ。
でもすでに自分はなんなんだか見失っていて。
自分の感情の根本はなんだったのか。探し当てる事が出来なくなって。

迷宮。

自分はこんなじゃない。でもいつか。でもいつか。今ではないいつか。
そしてこんなじゃないはずの自分をなくしてしまう。

感情や感覚を、信じきる強さ、愚かさ。

それが出来なくて、それはそして自分だけじゃなくて。

失望と安心。

失望は、まだ求めている証拠。自分の感情の根源を、求めている証拠。

そしてネットの世界に埋まっていく。

傷つくの怖いから。ネットのバーチャルなら、
傷つく前に逃げられるから。捨てられるから。なかった事にしてしまえるから。

でも、ネットの回線の向こう側には、確実に人がいる。
バーチャルだってなかった事になんか、できない事も気づいている。

失望と希望と安心。

求めるばかりでは、傷つく覚悟がなければ、依存はきっと断ち切れない。

わかってはいるんだけれどもねぇ…。

ネットという、甘味なツールが、すぐ手の届くところにある生活。
…この誘惑は、本当に断ち切りがたいです。

ええ、実際。

そろそろネットとはいい距離を保ちたいなぁ、と、思っているのですが。

無理かなぁ(笑
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独占欲と嫉妬と愛する事

好きだから独占欲が沸いてきて、
独占欲があるから嫉妬するんだろう。そんな関係の話。

さて、独占欲ってのは、その名のとおり独り占めするという事なのだが

「あなたの事全て知りたいの」
「いつもいつも、寝ても覚めても一緒にいたいの」
「心の中に、私以外の人がいたら嫌」

これ以外にもあるだろうが、
いずれにしても、独占欲を100%満たすことは不可能だろう。

では、どういう時に人は嫉妬するんだろう。
人により様々だとは思うが(程度もあるし)
私に関して言えば、その人と自分が出会う前の、
その人の歴史を知っている人。
私の知らない時間を、共有した人。

これを考えていくと、私の独占欲は「あなたの事全て知りたいの」
になるといえる。

うむ。なるほど。

さて、嫉妬や独占欲ってこれ、エゴである。
自分の〜したいという欲求に他ならない。
愛するって相手のために幸せを願える関係、と前に書いたが、
愛するがゆえ、好きゆえに独占よくもまた強くなっていくわけだ。

相手の事を思えば、好きなように振舞っていて欲しいと思う。
これも実際にある本音のひとつ。

縛りたいのも本音。

好きと言う事実はひとつなのに、
そこから派生するふたつの相反する本音。

「私と夢とどっちを取るのよ!」とか、
「私と仕事とどっちを取るのよ!」とか、
実はこれ、すごく傲慢な考え方だというのが私の意見。

あなたの事が好きな私の気持ちと言うのは、本来自分のものであって、
それは相手に押し付ける物ではない。
大体恋人と仕事、恋人と夢なんて、一緒に比べるべき物ではない。

会えるじかんがなくなるとか、
会いたいのになかなか会えないとか、
こういう事で不安になるのもわかるし、これで嫉妬するのもわかる。
でも、これはエゴなのだから、それを「こうしろ」と、
相手に押し付けるべきではない。

かといって、そりゃ一ヶ月も二ヶ月も会えなかったら、
不安にもなるというものだ。

恋人同士とか、夫婦とか、そういうものは。

本来あなたが一番大切よ、の関係であるはずであって、
お互いいつでも会いたいとか、一緒にいたいとか思っているものであって。

それは夢なり仕事なりのもっと根底にベースにあるものであって。
お互い幸せになろうね、と、一緒にいる存在が、
夢や仕事の足かせになってはいけないわけである。

思うに、お互い同じくらい必要ならば、
その人なりに時間を割いてくれるはず。
その人なり、というのが曲者なんだが。

私はこのくらいの時間を割くのに、
なぜあなたはこれしか時間を作れないの?
てな話になってくるからだ。

ここで相手を信用できなくなると、
不安になるし、嫉妬心も増す結果になり…

「私と○○、どっちを取るの!」

に繋がるんだろう。

お互いをよく観て、お互いの「ここまでなら譲れる」という境界線を
見極めなければならない。
それは好きで大切な相手に対する思いやりに他ならない。
長く一緒にいると、この思いやりが薄れがち、そして忘れがちになる。

なぜこの人と一緒にいるのか。
なぜこの人を選んだのか。

そういう初心は忘れないようにしたいものである。
こういう気持ちをずっと持ち続けていられれば、
きっとずっと仲良しな二人でいられるはずなのである。…たぶん。
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半分のおしつけ

私は十代の頃、電話が大好きだった。
電話というよりも、留守番電話。

付き合っている人に、わざわざ留守の時間を見計らって、
留守番電話に言いたい事を録音したりしていた。

同じ理由で手紙も好きだったが、手紙は出すのが面倒なのと、
返りが遅いという理由で気軽には出せないものだった。

それでも置手紙やら、何やらと手紙もよく書いた。

今で置き換えるなら、メールみたいなものだろうか。

この間、「メールだと言いたい事を書いてくるのに」
と言われて、その事を思い出した。

会って実際に話しても、伝えようと思った事の半分も伝わらない。
というか言えない。
相手の言わんとする事を飲み込むまでの時間と、
新たに考える事が出来てきた時に、考えがまとまらないのと、
言うタイミングを逃してしまうのと…と、まあ色々と理由はある。

なぜこんなに留守電やらメールやら置手紙がいいのかと言うと。
半分のおしつけだからだ。

チャットでも、実際に会って話をしているのでも、
その時に出た言葉が、正確でないと思ったり、
ああ、もっとこういう風に伝えたかった、と思ったり。
あとはその場で反応されるのが怖くて言えない事だったり。

その複雑な考えをまとめて整理しつつ、相手の反応を見ることなく、
言いたい事をどーんと言ってしまえるのは、やっぱりメールであったり
留守電であったりするわけだ。

言いたい、でも言うのが怖い、どうしようどうしようと迷って悩む。
でもいいたいから書く。考える。
メールも手紙も、「えいっ」と思いきって出してしまえば。
思いきって送信ボタンを押してしまえば。

もう、私にはどうすることも出来ない。
向こうもどうする事も出来ない。

「えいっ」の裏に、私の本音が隠れている。


…。自分で言う。ああ、なんて可愛いのかしら。
なんていじらしいのかしら。

ここまで勢いをつけないと本音が言えない自分もどうかと思うが。
へなちょこなりに結構必死でがんばっている、ということである。

そう、もうひとつ。

私がその場で言いたい事を言えない理由。

私の言葉は、時としてとんでもない凶器になるということ。
時々、思って口にした言葉が、相手を再起不能なほど痛めつけるということ。

言われた方も相当ダメージを食らうだろうが、(なんせ再起不能)
正直、思わず言ってしまったこちらも、相当なダメージを食らう。

それを言ったらおしまいよ、という言葉が出てきてしまうのだ。
しかも大抵そういう言葉って、そのものの本質を突いている事が多い。
フォローの入れようのない言葉だったりするのだ。

過去にそれで、何人の人を傷つけたか。

それで私は、思った事をぱっと口に出すのをやめたのだ。

人を傷つけたくない。私の言葉で。
人を傷つける事で、自分も傷つきたくない。
常にそう思っている結果がこれなんだろう。

そんなわけで、今日もせっせとメールを送る私なのであった。
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インターネットとたいこ

今日は18日。インターネット断絶3日目なのでありますが…
3日にして、すでにギブアップしそうです。

思えば…ADSLにしてからというもの、
こんなにネットと接触しなかったなんて今までない経験。

改めて、自分のネット依存度を再確認させられたわけですが。

さらに、この機会にとこうしてサイトの大改築なんかをしているわけです。
少しはパソコンから離れればいいのに、自分。

こうしてパソコンに向かっていると、無意識のうちに、
誰かに話しかけられる準備をしている自分がいます。

自分の寂しがり加減も思い知ったこの三日間。

さて、ここで私は、私にとってパソコンとは、ネットとは何ぞや?
と考えたわけです。

知ってる人は知ってると思いますが、私のネット接続時間は異常。
立派なネット依存。それも重度の。

では私は、一体ネットに何を求めているんだろう?

私は、オフラインでのリアル友達がとっても少ない。
いや、これは正確じゃない。

気軽に連絡を取り合えるオフラインの友達が少ない。

子供を産んでから、その傾向が顕著になったのだが。

オフラインのリアル友達が私に連絡をよこす時は、
大抵恋愛相談であったり、友人がらみ相談であったり…

みんな忙しくて、そうそう会える時間がないから仕方がない。

結婚してからの人間関係で、オフラインで友達と呼べる人に、
私はまだ出会っていない。

原因はほぼ、こちらにあると言ってよいだろう。
なぜ、自分でそういう気持ちになるのかはわからないが、
子供を通じて知り合う人達に、私は心が開けない。

ネットが出会いのツールのひとつならば、
子供だって出会いのツールのひとつであるべきなのだが。

ここで、離婚ということになって、幼稚園がらみのママ友達からは
一線引かれたな、というのが正直なところ。
こちらが一線引いたのかもしれない。

リアルでの近所の友達は、今は皆無と言っていいかもしれない。

話せないことがある。
相談できないことがある。

これが一番大きいのかもしれない。

私がどういう生き方をしようと、どういう事をしようと、
無条件に理解してくれようとする友達。

ネットにはそういう友達がいる。これは、学生時代の友達も同じ。

学生時代の友達は、ほとんどが独身もしくは新婚さん。
(去年が結婚ラッシュだったんですねぇ…)

リアルの友達は結婚して、子供に普段の生活に精一杯。

離婚だなんだと、相談出来る相手って…
そういないんですよねぇ…。

今の自分の状態や、気持ちをよくわかってくれる人がいるのは、
やっぱり回線の向こう側の人達で。
それはそれでどうなんだろうって思ったりしますが。

回線が繋がるまでは、しばらくこの寂しい状態が続くと思われますが、
まあ仕方がないと思って諦めるしかないですねぇ。とほほ。

…これ、エッセイなのかしら…
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関係

人に耳がふたつあるのは、相手の話をよく聴くため。
人に目がふたつあるのは、相手の事をよく観るため。
人に口がひとつしかないのは、言いたい事は半分伝えれば充分だから。

年明け早々、友人から聞いた話だ。
人が人と関係を結ぶ時、大切なのは、このバランスだと。
うまい事と言うなぁ、と、関心してしまった。

人をよく観ることは、とても大切な事。

年末から、恋人なり夫婦なりの関係のなかで、
言葉ってどれだけ大切なの?という内容で別の友人と激論していた。

ちょうどいいタイミングで、このふたつの話が重なった。

それで少し考えてみた。

私はついこの間、離婚をした。
原因は、まさにこのバランスだったと思っている。
私は夫に、言いたい事の半分も言えなかった。
言えない分、私はそれを態度に表していた。
夫は私のそんな態度を見逃した。

それだけの事だったと思う。

しかし、それだけが全てでもあるわけで、
この、目・耳・口のバランスが崩れて修復不可能になった時点で、
信頼って簡単に崩れ去ってしまう。

欲しかったのは、
「ちゃんと観て、聞いて、解ってくれている」
という安心感。この安心感は、とっても大切。

でも、と、思うのだ。
お互いがお互いの事を好きで、思いやれていれば、
こんな事は普通に出来る事。
相手の気持ちに胡坐をかいた時点で、このバランスは、
いとも簡単に崩れ去ってしまう。

それをなくした時に気づいても遅い、ということ。

恋人も、夫婦も、親子も。
どんなに仲がよくても、自分と同じではない。
相手の事を全て理解するなんて不可能な事。
だからこそ、よく観て、よく聞いて、
理解しようと勤める事が大切なんだと思う。

親しい分だけ、信頼が深い分だけ、失った時の衝撃と、絶望は、深い。
それは、失わせた方も然り。

私の場合、耳も目もふたつあった。
でも、口がなかった。
とっても大人しい口だった。
夫は、どうだったのだろう。
観たい、聞きたいと思っていたようだ。
でも、目も耳もひとつずつしかなかったのではないだろうか。

終わってしまった事は残念だし、
この事で迷惑をこうむった人も少なからずいる。
多分、一番迷惑をこうむっているのは、私たちの子供たちだろう。

私たちは、この子たちのためにも、この失敗を生かさなければならない。
この子たちのためにも、幸せにならなければならない。

いつか、子供たちに「結果オーライ」って言ってもらえるためにも。
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心の記憶

友人の脚本家さんとお話していて、その人の脚本作りの話になった。

徹底した取材をする、その書き方の姿勢に頭が下がる思いをしました。

彼の過去の作品の中に、「Cutting」というお芝居がある。
リストカットをする女の子を題材にしたお芝居なのだが、
それだけ重いものを扱っていても、彼の作品は必要以上に重くならない、
とか、そういう話をしていたわけだ。

脚本とか、戯曲というものは、それだけで完成品ではないものなので、
これだけ読んでもなんとも言えないのだが。

彼の、「後には引かせたくない。劇場を出た後まで引きずって欲しくない」
という心意気は解ったが、脚本だけ読んでしまうと、
やはり思うところは少なからずありまして。

彼を治すためには、その記憶を消し去るしかなかった。

という言葉が、この脚本の中に出てくる。そして、

心の記憶はね、意味があるから残っているの。
辛くても、悲しくても。それがあるから楽しいって思えるの。

この台詞で、消し去ったはずの彼の記憶を呼び戻す理由付けをしている。
記憶を消し去ったとしたら…
嫌な記憶を全て消し去ったとしたら…

私たちは、ずっと赤ん坊のまま。子供のまま。


記憶には意味がある。
それは消し去るのではなく、昇華させてあげなければならない。

すごく大変な作業だと思う。
その記憶が、しんどければしんどいほど。
なぜあの時に自分は、あの人は、こう出来なかったのか。
これで間違っていたんだろうか。結局自分は…

誰にだって、同じ気持ちはある。誰にだって、どういう風になる可能性もある。

お前はただ、死ぬって言ってかまって欲しいだけなんだよ。

こういう台詞も出てくるのだが。
よく、周りにいる死にたい死にたいってつぶやいてる人。
まさにこういう事なんだと思う。

でも、私はこの言葉をそのままそうつぶやいている相手には吐けない。
そういう風に考えないと、保っていられない人だって、
いるような気がする。

そういう人に、いきなりこういう言葉を投げても、
きっと受け入れられない。はじき返される。

言葉を、気持ちを、できるだけ届けたいと、私は思う。
傲慢かもしれないけれど、そう思う。

この辺については、長くなりそうなので別の機会に。

私、いつも自分を「普通」って言うけれど。
なんというか、自分が特別とか、普通じゃないとか、
自分だけ、という考え方があまり好きじゃなくて。

所詮根っこはみんな同じ。

普通に人生あるいていたら、それぞれに同じ位の苦しみとか、
辛さとか幸せとか、喜びとか、出会ってるはずなんだろうと。

そこで「特別」って思ってしまうと、その先がなくなるような。
しんどい、辛い、と言う状況に甘んじてしまう状況からは、
人は前に進めないわけで。

それが解っていても、どうしても前に進めない。
そんな状況があることも、充分理解しています。
そういう時は、留まってみてもいいのではないかと。

辛いことがある分、どこかに希望もあれば、幸せなこともある。

楽天的な私は、こう考えてしまうのです。

こう考えると、少し楽になるような気がするのだが。
他でもない、私だって、若かりし頃は「特別」って思い悩んでいた一人だったのだから。

こうやってうんうんとうなって、少しずつ…
心の記憶を、いい記憶も悪い記憶も、昇華していけたらなと。日々思うのである。
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家族論

理想的な家族の関係の話、ということで。

普通、家族というと、お父さんがいて、お母さんがいて、
子供が何人かいて。
それぞれに上下関係が発生している、
という環境が一般的なのではないかと思う。

お父さんの仕事は、働いて家族を養うこと。

お母さんの仕事は、お家の中で家族が心地よく生活できるように、
家事をやること。

上の子は下の子の面倒をよく見て…みたいな。


父親なんだから、母親なんだから、おねえちゃんだから、
弟だから、上だから、下だから。

家族の中に「おとうさん」という役割があり、
「おかあさん」という役割があり。
子供にも子供で、ちゃんとした立場があり。

こういう関係って、息苦しくないのかなぁ?

家族という集団の中の、こうあるべき役割に苦しむというか。
その役割に、過剰に期待したり失望したり。
押しつぶされそうになったり。

本来、親も子もタダの一人の人間である。
縁があって(血のつながりがあろうとなかろうと)
親と子、という立場を担っているだけである。


家族と言う集団の中で…お互いがお互いを人として認めあい、
その中で人間性をはぐくんでゆく…といううのではだめなのだろうか。

私の実家は、なんとなくそういう家族だった。

父親は最初から父親であることを放棄していたし、
母親は子供たちが一人で身の回りのことをできるようになり、
一応自分で考えて行動できる歳になってからは、
子供である私たちに、必要以上の強要をしなかった。

私は勉強しなさいと、言われたことがない。

必要最低限の事は勿論言われるけれど、
家族の母・娘というよりは、集団に於ける人生の先輩・後輩として、
というところが大きかったように思う。

なので私は、必要以上に親に反発した記憶があまりない。
反抗期らしい反抗期は、小学校高学年が最後だろう。

ここで父親が出てこないのは、
父親は本当に親である事を放棄したからに他ならない。
お金を稼いでは来ていたけれど、なんせちぐはぐな人だった。
今の話とずれるので、父親は省略することにして…

こういう間柄だから、親だから、子だから、と、
必要以上に何かを隠す関係ではなかった。
それこそ、母親の色っぽい話まで色々と聞いていた。

必然的にそういう環境で育った私は、
父も母も、一人の人間として見るようになる。

この人はこういう短所があるけれども、こう言うところが好きだとか。
父だ母だ娘だという垣根を取り払って観ることが出来る。

親としての愛情が少ないということではなく、
わが子を所有物化しないということなんだと思う。

うちの母親は、子供を預かり物という感覚で見ていたんだと思う。

縁があって、自分のおなかの中から出てきた、神様からの預かり物。

夫婦の間でも、親子の間でも、上下関係がない、対等な関係。

こういう関係ってすごくいいと思うのだが。
そして、私もこういう家族関係(親子関係)を目指している。
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愛されることと愛することと

この間、友達のところのHPに、「恋文」というタイトルの日記があった。
恋文というドラマの紹介があり、
最後はその友達の夫への気持ちが綴ってあった。

その日記自体、
夫が読む事のない妻から夫への恋文になっていたわけだが。

彼女は夫を愛している。夫は妻に愛されている。

そういう間柄だ。

愛することが幸せな人、愛されることが幸せな人、
二つのタイプがあると思っている。
この日記の彼女は、愛することが幸せな人で、だから、
彼女はとっても幸せな人だということになる。

私も、自分が愛さないとダメなタイプだ。

私にとって、誰かを愛してしまうということは
その人のいいところ、悪いところ、全部ひっくるめて、
受け入れてしまう、認めてしまうということ。

よく人に、
「この人のどこが好きになったの?」とか聞くけれど、
この質問に的確に答えられる人が果たしているのかどうか。

何かがぴったりと来た、というのが私の答え。
頭で「この人は性格がいいから」とか、「この人は経済力があるから」
とか、「この人はかっこいいから」とか…。
そんなことで人を愛せるなら、それほど楽なことはないと思うんだけど。

結婚生活に限らず、人付き合いにはある程度の妥協が必要。
それは納得できる。

ただ、真剣に惚れてしまった人に対しての妥協って、実はない。
(私の場合に限って言えば、ということ)
受け入れ難い部分も受け入れて、認めてしまうということは、
妥協ではない。

これは重い。

相手の何もかもを許してしまうというのは、非常に重い。
相手に対しても、非常に重い荷物を背負わせることになる。

では、私は一体、相手に何を求めるのだろう。

私が求めるものは、
私がかけがえがないと思ってくれるその気持ち。
そして、その人の存在。
見つめていてくれれば、それ以上の幸せはないのだ。

心の奥に、ベースとして常にこの気持ちがあるので、
どうしても、どうやっても、私の恋愛は重くなる。

だからなのか、私の恋愛はいつもどこかが普通じゃない。
普通の恋愛に憧れ続けてきて、いつも問題は相手にあると思っていたが、
どうも原因はこちらにあるようだ。

だとしたら、仕方ない。これはこれ。普通は普通。
私は私。
いまさら変えようもないので、普通の恋愛なんて思わないことにした。

だって、できないんだもの。
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自信が持てないという話

自分に自信が持てないのである。

そういう話をしていたところ、友達に、
「自信っていうのは、持てる持てないものじゃなくて、
自分自身で『持つ』ものだ」
と言われた。

自信というのは、気の持ちよう、ということだと。
自信が持てない人の抱える一番の問題点は、
自信が持てる『何か』がない事や
『自信を持てない自分』では無く

そういう『焦り』だったりするんじゃないかな?
と思ってます。

その人の文章の抜粋である。

なるほど、こういう風に考えたら楽になれるのかもしれない。
と、感じた。

根拠のない自信を振り回して勝手に満足していた時代もあった。
そこに根拠がないと感じ始めて、
自信がもてなくなったのではなく、私は素直になった。

根拠のなさから来る不安を、吐き出すことができないばかりか、
自分で認めることすらできなかった。

全開の「甘えベタ」と話がだぶってしまう所も多々あるのだが、
今、自分が感じている自信のなさとは質が違うもののような気がするのだ。

今の自信のなさは、自分の感覚が信じられないと言う事。
傷つくのが怖いからそうなっているということも、なんとなく感じつつ。
感覚を信じる事ができたら、どんなにか素晴らしい事だろうと思う。

でも、感覚ってこれ以上ないくらい掴みどころのないもので。
どうしてもそこに、理由付けしたくなってしまう。
感覚に理由なんかないのに。

自分の感覚に自信が持てなくて他人に意見を求めてみたり。

自信がなくて意見を求めるのに、なぜか相手が納得してしまう。
反論をどこかで待ちながら、周りにあるのは同意ばかり。
これは相手が悪いのでなく、私に問題があるのも百も承知で。

言葉に説得力があるそうだ。
自分が意図する以上に、私の言葉には力と影響力があるらしい。

結局、言えば言うほど自分の首を絞める結果に。

大勢で一人を責めるというような、いじめのような事が嫌いで、
でも時々気づくと、自分がその中心にいるような結果になっていたり。

勿論自分が正しいとは思っているけれど、
そう思っていなかった人にまで、結果的に巻き込む結果になって。

そんな事を繰り返すうちに、自分の感覚を信じていいものかどうか、
自信を持つことが怖くなった、ということか。

自分の感じたものを堂々と信じられる強さがほしい。

感覚を感覚と捕らえ、堂々と信じる事ができれば。
どれだけ素晴らしいだろう。

傷つく事を恐れない。
そうなれたらいいけれど…

せめて、大切な人の前では、そうなれたらいいと思う。
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甘え下手な人

私は自他ともに認める甘えベタである。

もう、十代の頃は本当に可愛くない女だった。
なんというか…鉄。鉄壁。

すべては自分の自信のなさの現われだったような気がする。

十代の私には、女ということに対する自信がまるでなかった。


やっていることは脚本だの演出だの、
人の心を観察して分析して感じて…みたいな事をやっていたくせにである。

そして、自分が別の方面では非常に根拠のない自信を持っていた事も確かで。

どこかでその自信に根拠がない事も分かっていた。


それを認めることができずに、ただただ虚勢を張っていた時期が、
結構長いことあった。

傍目から見ると、すごーく寂しい人間である。

寂しくて寂しくて自分の事をわかって欲しくて、
幾つもの言葉を重ねては伝わらずに絶望して。


そんなことの繰り返しだった。

正直、今の私にも甘えるってことがどういうことなのか。
よくわからないでいる。

ただ、ある特定の人といるとき、ある特定の瞬間、
すごく開放された気分になることがあって。
ああ、もしかしたらこの瞬間のことなのかな、甘えるって、、、
と、思ったりする。


十代の頃から時間を積み重ねてきて、
さまざまな経験から、自分の人間としての自信が、少しずつついてきた
事も確かな事で。

私はこの自分に対する自信と、甘えるっていうことは、
かなり関係してるんじゃないかと思う。

甘えるって事がなんだか解ってないので、偉そうな事は言えないが、
例えば自分が丸ごと素っ裸になれる瞬間。
(素っ裸になったつもりでも無意識のレベルで武装している、というのは
ここには入らない。)


これってすごく難しい事だとは思うんだけど。
なんせ一人でいる時だって、丸ごと素っ裸になる瞬間なんて、
あるんだかどうだか。

こういうとき、いい感じで甘えられている気がする。
私に限って言えば。

そう言う時間を持てる相手と出会い、関係を築いて行くたびに、
自分の自信もついていっているような気がするのだ。

私はまだまだ甘えベタであるが、
そのうち、甘えのスペシャリストになってみたい…と、
思ってみたり思わなかったり…。
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好きっていう気持ちと愛するっていう気持ち

お互いの関係の中で、エゴを越えてしまうのが愛。
私はそう思っている。

親子の間の愛も、本質的には同じだと思う。
(正確に言えば、親が子に対する愛か)

愛するってどういうことだろう…と、十代の頃に真剣に考えたことがある。
究極的な愛情表現…

それは、見守るということ。
ただ、何もせずに見守るということ。

結局のところ、見守るという以外に、本当にその人のために
出来ることってないんじゃないかと思う。

形に見えることで何かしてあげるというのは、
所詮自分のエゴに過ぎないのだ。突き詰めてしまえば。

本当に相手のためになるということは、
相手を信頼して、ただ見守ることなんじゃないかと思う。
お互いがお互いを信頼しあって、見つめあっている。
そこに甘えは存在しない。
ただただ、見つめられているという確信が、
お互いを強く成長させていけるのじゃないかと思う。

勿論、これだけで成り立つ間柄ってのは相当大変であって、
こんな関係を築けるのは神様だけという気も、しないでもない。
信頼している自分の気持ちを疑いたくもなるだろうし、
やっぱりときめいたり、ドキドキしたり、
逢いたいと願ったり、触れたかったり。
煩悩に支配されたヒトだから、そう思うのも当然のことで。

その中で、お互いの心の根底で、こう言う関係が築けている、
そういうことが大切なんだろう。

非常に重いししんどいけれど、
こういう関係を築ける相手に巡り逢うのもそうそう簡単な事じゃない。

そういう風に思える相手を見つけられたならば。
たとえその想いがかなわなくても、
その人とずっと一緒にいることができなくても、
とてもとても貴重で、幸せなことだと思うのだ。

過去、愛するが余り、自分の気持ちを無視して
大切な愛する人を手放してしまった。
おかげでずいぶんと苦しんだが、その代わりにかけがえのないものを
戴いたと思っている。

今でも、その人には感謝をしている。

そして、そういう人は、
きっとまた現れる、というのが今の心境だ。
ありのままの自分を出せる、
ありのままの相手を見つめる。
そして見つめられている。

お互いがお互い、高めあえる存在。
そんな関係を、きっといつか築けると思っている。

理想では、あるのだが。
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人を好きになるということについて

今回は人を好きになる事についてである。

最初の頃のエッセイに、
「恋愛はうかつに嵌ってしまった落とし穴のようなもの」
と書いたが…
いまもなお、それは間違っていないと思う。

頭で考えて恋愛が出来れば、そのとおりに気持ちが動くのであれば、
世の中こんなに思い悩むことはないと思うのだ。

しかし、この「好きになる」という感情は、どこからやってくるのだろう。
本能?
ヒト以外の生き物も、こういう恋をするのだろうか。

私は偽善が嫌いだが、
世の中には本物の善意も少なからず存在するわけで。
人間の人間たるゆえん、それは他人を思いやることと、
思い出があることと、先の事を考える力と。
すべてが本能の世界だったら、この国は、この地球の人々は…。

善意があるからこそ、少なくともいま、
こうやって私たちは生きている。

基本的な「恋愛」という感情は、おおよそ本能に近いものであると、
私は考える。
恋愛という感情は、非常にエゴイスティックである。


ではエゴであることがいいことなのか悪いことなのか、
突き詰めて考えてみよう。

この人が好き、という気持ち。
この人とずっと一緒にいたいという気持ち。
これは本当に、自分のエゴである。

この気持ちが一方通行だとストーカーになったりするんだろうなぁ。


では、この一歩先について考えてみよう。
恋したら周りがキラキラ輝いてる。世界が違って見える。
そんなことをよく言うけれど、
そういう時って誰に対しても優しくなれたり。

恋愛対象に対して、自分よりも相手が大事という気持ちが働かないだろうか

自分のしたいようにするのがエゴならば、
自分のしたいようにすることを押しのけてでも、
相手の望むようにしてしまう。
そうせざるを得ない気持ち。


こういう気持ちになったことが、私にはある。
そしてこれは、エゴを超えてしまった気持ちだと思っている。

これが、本当に人を好きになる、愛するっていうことだと思うのだが。

長くなりそうなので、続きはまたの機会に。
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友達ってなんだろう?

前に、男女の友情について書いた。
その時に、「友達」の定義について少し触れたのだが。
友達の定義とは、人により様々で曖昧だという話。

なので今回は、私が定義するところの友達について書いてみよう。

独身の頃から、「顔が広い」と言われ続けてきた。
確かに顔は広い。と、思う。
自分が一番楽な方法で生活していたら、会社でも学校でも、
どうしても付き合いは浅く広くになってしまう。

楽な付き合い方―グループや枠組みに捕われない人付き合い―
そんなだから、あちこちに知り合いが出来てしまう。

しかし、顔が広い=友達が多い、ではない。
実際、私の場合はそうである。

友達とは…その場で楽しく時間を過ごす為だけの存在ではない。
そういう存在は、知り合い程度にしか留まらない。

私は人見知りをするが、逆に「ここだけの知り合い」と割り切ると、
不思議なほど自然に話が出来るし、自然に振舞える。
そこで「これ以上踏み込まない踏み込ませない」領域を
作っているからだろうと推測する。

推測というのは…なにぶん感覚だけで生きている節があるので、
こういう行動のひとつひとつ、全て無意識に行っているからである。

これが「プライベートまで付き合うかもしれない人」となると、
私の警戒心は全開になる。
もう、思いっきり受身モードである。

昔。子供の頃。私は本当に地味で、クラスでもいるのかいないのか…
という存在だったのだが、その頃に戻ったような気持ちになるのだ。

ゆえに、自分が本当に心を許すという友達は少ない。


昔から、大勢の中の一人と言う付き合いよりも、
1対1の付き合いの方が楽だというのも、こういう理由だと思う。

その場、その時が楽しければいいような、刹那的な友達が、
何人いたところで人生楽しくないような気がするのは私だけだろうか。

私にとっての友達の基準とは…

何年会っていなくても、会った途端にその当時のように話が出来る、
そんな間柄のことだと思っている。

そしてそういう友達は、実はすごく少ないんじゃないかと思う。
今、私の友達でいてくれる人達との出会いと縁に、感謝したいと思う。
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言葉の無力

「がんばって」についてである。

「がんばって」という言葉は、非常に便利な言葉である。
便利だけれど、使い方によっては偽善たっぷりの言葉になりかねない。

「同情」でも、「言葉のちから」でも少し触れたのだが、
言葉というのは便利であればあるほど、不便なものなのだ。

友人が、「がんばって」という言葉は無責任な感じがするので
あまり好きじゃないと言っていた。

そう、がんばるのは声をかけられた方であり、
声をかけたほうではない。
友人は、落ち込んでいた私にたいしてどう励ませばいいのか…
と、軽く悩んでいたが、この場合は「がんばって」で充分気持ちは
伝わるのだと思う。

言葉というのは、物事を伝えるための記号である。
記号を記号として使われやすい言葉が、「がんばって」なのだと思う。

言葉に気持ちを込めると、その気持ちの分だけ言葉の重みが増す。
実際に、自分の口を介して出た言葉なら、その気持ちを伝えるのも、
そう難しくはないだろうと思うのだが。

ネットコミュニケーションは、活字のやり取りが主体である。
活字で思いを込めるのは、口を介してよりもずっと難しいだろう。

しかし、ネット回線の向こう側にいるのも自分と同じ、
生身の人間であって、だからこそ、伝わると信じたい。

お歳暮やお中元のような「がんばって」はいらない。

いつもいつも、それは心がけているつもりではあるが、
便利な言葉というのは、そこがやっかいである。

言葉を使って表現する者として、「がんばって」と言う言葉は、
出来る限り真心込めて言いたいものである。
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同情

同情と言う言葉が好きではない。

私は、偽善が嫌い。
全ての人間関係に於いて、出来るだけ対等でありたいと思っている。
たとえそれが親子の間柄であったとしても。

同情というのは、偽善の皮を被った優越感である。
同情と同調はまったく違うもので、共感するということと、
同情するということもまったく違うことである。

たとえば、
障害を持つ人を見た時に、うちの祖母はよく、
「悪いことをしてるとああいう人になっちゃうよ」
と、私たちを叱っていた。
反吐が出るような言葉である。
でも逆に、障害を持つ人を見た時に、
「ああ、あの人かわいそうに…ああいう人を助けてあげましょう」
と、子供を諭すのはもっともっと嫌いだ。

誰かを見て、「ああかわいそうに」っていう思いを持つのは、
その誰かよりも自分のほうが勝っていると思うからだ。
それは優越感以外の何者でもない。
「かわいそうに」という気持ちで一般的に言われるいいことをして、
「ああ、自分はいい事をした」と思う…
これは自己満足以外の何者でもない。
そしてこれは、偽善だと私は思う。

だから私は、同情されたくもないし、同情したくもない。
それは、相手に対して失礼だと思うからだ。
同じ人として、私は人を尊重したい。

本当に相手のためになることは、本当に相手の気持ちを思いやること。
そういう姿勢があれば「かわいそう」
なんて言葉は絶対に出てこない。
同情なんて絶対にしない。

似たような言葉で「がんばって」があるのだが、
これも便利な言葉だが、ある種の「がんばって」には、
この「かわいそう」と、非常によく似た匂いがする。

友達や親しい人が苦しんでいたり、つらい思いをしているとき、
だからこそ、言葉に詰まってしまう。
どんな言葉を並べても、うそ臭くなってしまうのだ。
こういうときほど言葉の無力を思い知らされるときはない。

同情を買って、それで満足する人が時々いるが、そう言う人には、
「自分を貶めて何が楽しいのか」と、感じてしまう。
そう言う人にそれを言っても通じないので、そっとしておいて、
私はこっそりと「かわいそうな人」と思うのである。
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相談

何気に相談を受ける事が多い。

思わず人にこぼしたくなるようなつらい事って、
本人ががんばらないとどうにもならない事だったり。
相談に乗るということは、相手の話を聞くことだとも思っている。
本人のこんがらがった思考の道筋を、整理してやる事が、
相談に乗るということなのかなぁと思っている。

相談という名の、愚痴をこぼすという行為も然り。
こちらが出来るのは、話を聞くことだけ。
前を向いて、がんばろう、がんばろう、という姿勢をとるのに疲れた時に、

話を聞いて、よくがんばったね、大丈夫。
って言ってあげられること。

私は大丈夫という言葉が好きだ。
不安になっているときに、この言葉をかけられると、とてもほっとする。

****************************************************

相談をする側に悩みがあるのは当然のこととして、
相談される側にも、もちろん悩みはある。

時として、その悩みがシンクロしてしまう場合がある。
その相談を通じて、私が責められている気分にもなるし、
同調してしまうときもある。

冷静になって話を聞いていると、そして意見をしていると、
自分の問題の解決の糸口をつかむことがある。

逆にどうにもならない問題のときは、
どうにもならない気分になってしまったりする。

相談するとか、愚痴をこぼすという行為は、
ともするとそこに留まり続ける危険があったりする。

問題が起こって大変なときに、
「ああどうしよう。自分は駄目な人間だ。なんて不幸なんだ」
って思ってふさぎ込んでいる状態では、誰に何を相談しようと、
ただの独り言である。

頑張ってるように見えて、頑張っていない。
傷ついているようで、傷ついていない。
それは自分の状況に酔っているだけである。

そういう相談に対して、私は時々ひどく冷酷な態度を取る事がある。

相談をしてくれる人に対して、私が出来ることなど限られている。
でも、それで少しでも元気になってくれればいいなぁと思っている。

最終的に一人で戦うことしか出来ないのだから、
せめて側で、大丈夫。がんばれ。辛くなったらいつでもおいで。
って励ましてあげたいものである。
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受身の人

私は、何かを自分から誘いかけるとか、
自分から電話をするとか、そういうことが余り得意ではない。
恋愛に関しても然り。ただひたすら待ってしまう。

自分が気になればなるほど、大切と思えば思うほど、
ただ待つことしか出来なくなってしまう。

自分の気持ちも、相手に伝えなければ伝わらない。
頭で分かっていても、どうしても出来ない。
そして込めて込めて、貯めて貯めて、どうしようもなくなってしまう。

寂しい時に寂しいと電話をかけ、
会いたい時に会いたいと言えて
悲しい時にその悲しさをうちあけ、楽しい時にその楽しさを共有する。
そういうことが、どうしてもできなかった。
自分でも、おしゃべりな事は自覚しているのだが、
必要なこと、大切なこと、一番伝えたい事が、
なかなか口から出てこない、なんとも出来損ないな口である。

人に嫌われる事が、人一倍怖い。
これを言うと、「みんなそうだよ。そういうものだよ」
と、言われるが、多分、人並み以上に怖がっているところがあると思っている。

よく、人から聞き上手と言われる。
優しいとも言われる。
私はこれも自分の臆病の裏返しだとも思っている。
無意識に、相手に同調するところがある。
相手を観察してしまうのも、無意識でやっていること。
で、受身なので、こちらから突っ込むようなことは、あまりしない。
真面目な話をしていても、大勢で楽しく話をしていても、
この立場は変わる事がない。

この結果が「優しい」であり、「聞き上手」なのではないかと思うのだが。

なんにせよ、もう少し自分に自信が欲しい今日この頃である。
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言葉のちから

言葉のちから。
私は脚本を書いていた。脚本だけでなく、
様々な形で色々な物事や気持ち、空気を文章によって表現しようとしている。

そして思う。
言葉とはなんて便利で不便なものか。
「言葉は心を超えない」昔流行った歌の歌詞である。
まったくもってそのとおりで、言葉を重ねれば重ねるほど、
伝えたい思いからは遠ざかっていったりしがちである。

戯曲や詩を通して私が伝えたいのは、
まさにこの、「言葉では伝わらない部分」であり、
だからこそ、うーん…と悩み悩んで言葉を選ぶのだが。

言葉をいくら重ねても重ねても伝わらないもどかしさ、
たったひとことで、全てが分かりあえる奇跡のような瞬間。

誰かと誰か、自分と誰か、言葉がなくても心が通じ合う瞬間がある。
そういう瞬間は、とってもいとおしい。

私は言葉を使って、言葉のいらない瞬間を描こうとしている。
言葉を使って、そういう瞬間を描く事が出来るのも、
言葉のちからなのかもしれない。
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入江雅人

ご存知の方も多いと思うが、私は入江雅人のファンである。

入江雅人をご存知ない方も多いと思うが、彼は一応俳優である。
多分、本業は舞台俳優。
時々テレビドラマや映画、CMに出演している。

昔はバラエティにも出ていた。

SHA.LA.LA.という劇団の、脚本・演出をしている人である。

その昔、ウッチャンナンチャンが所属していた劇団だ。
やっぱり昔、ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!が、
深夜枠で放送していたころ…
並びで「ウッチャンナンチャンのSHA.LA.LA」という番組を放送していた。

その名のとおり、その番組にはSHA.LA.LAも出演していたわけで、
そこのコーナーのひとつに、「雅人の部屋」という物があった。

公園やら道端やらで、入江雅人が一人芝居をする、
というごくごく短いコーナーだったのだが、
後に「入江雅人=一人芝居」になる原点は、この、雅人の部屋だと思っている。

私はこの一人芝居にやられてしまったのだ。

よく学校をサボって地方の大学の学園祭に行ったものだ…
入江雅人目当てで。

当時、入江雅人をそこまで追っかけてる人もあまりいなかったようだ。
…マニアックだからなぁ…

私が結婚して、舞台を観に行けなくなってから、
ぼちぼち外部作品(有名どころ)に出ているようだ。

なんでもうちょっと早く…

と、心では思っているのだが。

やはり、お気に入りの役者がお気に入りの人に演出されて、
演じる姿は観てみたいものだ。ファンとして。

高校時代に観に行った舞台で、入江雅人が終演後、ロビーに挨拶に出ている、

という事態に遭遇した事がある。
予想外の出来事だったが、何故かしっかりプレゼントとカメラを用意していた
私は、夢見心地で握手をし、プレゼントを渡し、一緒に写真を撮った。

それから一週間、私は抜け殻となった(笑)

そのプレゼントにつけた手紙には、

「入江さんが40歳になっても、ずっとファンでいつづけます」

と書いたのだが、その手紙どおり、もうそろそろ40になろうかと言う
入江雅人を、私は今でも好きでいつづけております。

私の人生に、多大な影響をもたらした人間として、
一生忘れる事はないでしょう。
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男と女の友情について

このあいだ、友人と話をしていた時のこと。
この友人は男性である。

彼が、私のことを「知り合い」と呼んだ。

それはちょっとひどいんじゃない?と、私は笑った。
知り合いと呼ぶには、親しすぎる間柄なんじゃない?と。

せめて友達にしておいてよ、と言ったら、その友人は、
「『友達』という言葉ほどあいまいな言葉はない」
と返してきた。確かに言われてみればそのとおり。

友達という言葉は、便利なのでよく使うが、
その関係の質は、非常に幅広い。

人によっても友達の定義は違うだろうし、なるほど、と納得したところで、

「じゃあたいこは、この関係をなんて呼ぶの?」
と、逆に聞き返されてしまった。
「友達という言葉はなしでね」と。

はて、この関係はなんと呼ぶのだろう?

彼とは軽い話から深い話までとりとめもなく出来る。

性格は似ていないが、物事の考え方が似ている。
似ているようで、根本的なところが違っていたりする。

要するに、色々話していて楽しい人なのだ。
こういう人は、結構いそうでそういない。

よくよく考えた挙句、私が出したのは

「ちょっと気軽に出来ないような話も出来る、貴重な人」

という答えだ。

友人は、「うーん、うまい言い方だ」と納得していたが。

「男と女の友情が成立するかどうか」とは、よく聞くが、
この答え、私の中では「成立する」である。

お互いがお互いを異性と意識しない間柄の友情。
そういう関係は、まあ、私の場合はよくあることなのでこれは例外として。

では、逆にお互いがお互いを異性として意識したうえでの友情は?

実は、この答えも私は「あり」だと思う。
ただし、この友情はバランスが非常に難しい。

同性同士の親友関係でも、嫉妬という感情はつきものだ。
お互いのいいところも悪いところも認め合った上での好意も勿論ある。

この関係と、恋愛関係とどう違うんだろう。

根本的には同じである。

だからこそ、男女間の友情は、
一歩踏み出すと簡単に恋愛になってしまうのだろう。

ところが、恋愛関係にしてしまうのは惜しい相手というのがいる。

恋愛は、続けばずっと一緒にいる可能性もあるが、
終わった時は今までの友人時代の関係から、一切なくなってしまう事もある。
その人の性格に拠る所も大きいだろうが、
やはり、前みたいな関係、って無邪気に戻れないものだとも思うのだ。
vだからこその、あえて踏み込まない友人関係。

お互いがそういう気持ちを強く持っていれば、
男女間の友情はありうると思うのだが。

ただ、この関係…
間違いなく配偶者や恋人に嫉妬されそうではあるが。

配偶者、恋人になる人には、これに「縁」というものが必要である、
と、付け加えておこう。
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友達

ネットをはじめてから、色々とネット繋がりの友達が出来た。
私は、実は小さいころから友達を作るのが得意ではない。

小学校の時から、母親は担任の先生に
「たいこちゃんは人に見えないところもよく見える」
と言われ続けていたそうだ。

人に見えない所がよく見えると言うことは、
視野が広いということなのだろうか。
この、視野が広いって言う事を自覚していないと、とんでもない事になる。

私はそれで、何度か痛い経験をしてきた。

言ってはいけないこと。

これを言ったら相手が傷つく、ということ。

相手の事をより思いやると言うこと。

そういうことがわかるようになるまで、私は沢山の友達を傷つけ、
沢山の友達をなくしてきた。

他人を沢山傷つけた分、傷つけられた分、
今の私は争いごとが嫌いだ。
争いごとが嫌いというのではなくて、争って、
余計な事を言ってしまう自分がいやなのだ。

いじめられる経験もしたし、いじめる経験もしてきた。
いじめられることも、いじめることも、本質的には同じ事。

そこから抜け出すには、
他人に依存しないと立てない自分を変えなければならない。

寂しくても、一人で立っている事ができなくてはいけない。

そして、ある程度大人になってからは、
できる限りそういう風に人と付き合ってきた。

依存しあう間柄にはならないように。
依存し会う間柄はできるだけ避けるように。

それでも、だからこそ、親友と呼べる人が出来てきた。

このあいだ起こった出来事は、本当に、ショックだった。
早く、あの人も依存することから抜け出して欲しいと心から願っている。

自分の寂しさ、辛さ、大変なことを、
自分で受け止めようとしない限り、
どんなに恵まれた状況にいても、人は幸せにはなれないのだから。

自分を、自分の大切な人達を、
もっともっと大切にしてあげてほしいと、私は心から思っています。

人に頼らない強さを。
辛い時、だれかに愚痴をこぼしてもいいけれど。
状況を変えるのは、他でもない、自分自身にしかできないことなのだから。
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「彼」へのエール

「彼」は、大好きな人と、決着をつけるためにやってきた。
彼女はすでに、彼に別れを切り出していた。…半年前に。
彼にとって、彼女は何にも替え難いほど大切な人だった。
彼にとって彼女は、他の何を譲れても、それだけは譲れない、
なくしたくない人。
そういう人だったのだ。
彼は、彼女のことが本気で好きだった。いや、今もきっと好きだろう。

悲しいことだけれど、人の気持ちはどうにもならないものだ。
結末は見えていたのだ。きっと、
彼にも解りすぎるほど解っていたはず。
あがけばあがくほど、彼女との距離は離れる、
わかっていても、あがかずにはいられないんだろう。

そんな経験は私にもある。
だからわかる。
どうしても大切で、大切で、好きで好きでしょうがない、
絶対にこれだけは手放したくない、でも…
手放さなくてはならない時。
非常に辛いけれど、出口は見えないけれど、
その中で必死にあがくのはとっても辛いことだけれど、
それをやらないと次には進めない。

結局彼女も彼もすっきりしないまま、彼は帰っていった。
でも、今は先に進んでいないように見えても、きっと彼の中で…
何かが進んでいるはずだ、と、私は思う。

行ったり戻ったり、回り道したり迷ったりしながら、
それでもこれを乗り切ったら、きっと何かが見つかるはず。
そしてそれは、かけがえのない財産になることだろう。
私は彼にいつかその日が来るのを、
祈りながら応援することしか出来ない。

誰に気持ちをぶつけても、これは彼がひとりで答えを見つけなければ
ならないのだから。
何かを産み出す作業のように、自分を生まれ変わらせる作業。
それは誰も助けることが出来ない。

…がんばってね。
そしていっそう素敵な人になって、
再会できる日を楽しみにしています。
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たいこという名前

たいこ、というハンドルネームは結構目立つらしい。
大抵「サザエさん」のたいこさん?とか、太鼓?とか聞かれる。
通りもいいので、最近では「サザエさん」と言う事にしている。

たいこというのは、実は犬の名前。
私が飼っていた犬だった。
多分、まだ元気で生きてると思う。多分、というのは、彼女が今、
どこでどうしているのかを知る由がないからだ。

たいこは捨て犬だった。
友達の母親が拾ってきた犬だった。

当時、私は大失恋で、とんでもなく落ち込んでいた。
そんな時にうちにやってきた犬だった。

たいこは、かなり私の心の支えになっていた。
たいこがいたから、私は立ち直れたんだと思っている。

たいこは、とても気性の荒い犬だった。
そしてとても寂しがり屋だった。

…飼い主にそっくりだと、周囲から何度言われたことか…

愛情表現は…噛みつきだった。

たいことは、3,4年一緒に暮らした。

結婚して、子供が産まれて、都営住宅に引っ越すことになった時、
泣く泣くたいこを里子に出した。

里親の娘さんが、「たえこ」さんという人だったため、
たいこは「ルル」に改名されてしまった。

たいこは、たいこでなくなってしまった…

その里親の所からまた別の所にもらわれて行ったのだ。
なのでもう、どこにいるのか分からない。

…そんなわけで、私がその名前をもらったのだ。

ちなみに、最初につけた「たいこ」の名前の由来…
これは、犬を拾ってきた友達の、当時稽古中だったお芝居の、
彼女の役名であった。
博多在住、主人公の母親、橋本たい子52歳。

しかし、本当にかわいらしい犬だった。
あのかわいらしさで、保健所一歩手前から今まで生きてきた犬である。
なので、きっと…
今もどこかで可愛がられているだろう。
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片付けられない人

私は非常にお片付けが苦手だ。
これは昔っからのことで、どうにもこうにも物がきちっと収められない。
物だけではない。
色々な事柄が、最後にちゃんと詰められない。
途中で「いいかげん」な性格が出てしまうのだ。

片付けはじめると、ものが出てこなくなる。悲しいほど、見つからない。

小学校のころ、ものがなくなった時に見つかるおまじないというのがあった。

流行っていたのか、それとも自分で編み出したのかは忘れてしまったが、
それは鉛筆を立て、鉛筆に、

「なくしたものがどこにあるか教えてください」

と念じながら鉛筆から手を離す、という…すごーく単純なものだった。
鉛筆の倒れた方角を探すのである。…本当に単純だ…

いまだに、物があまりにも見つからないと、
このおまじないをしたくなってしまう。今はさすがに恥ずかしくて
出来ないが。

この間もうっかりしまった携帯の充電器がみつからなくて
泣きそうになった。
かれこれ1時間は探していただろうか…
うちには携帯の充電器が2つある。
夫婦で同じ機種を使っていたからだ。

私は、この2つともどこかへしまってしまったのである。
はっきり言ってアホだ。
家中探しまくって、結局テーブルの上に置いてあるのを発見した。

…やっぱり、もう少し片付け上手になりたい…私であった。
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寂しいということ

私は寂しがり屋だった、とは前に書いた。
その私が、子供を産んでから不思議なほど寂しい、と、
思わなくなった。

自分でもこの変化が不思議でしょうがない…。

子供にとっての私は、今の所「かけがえのない」存在みたいだ。
きっとその重さも、子供が大きくなるにつれ薄れて行くんだろう。
しかし、私にとっては…
きっとずっとかけがえのない存在なんだろう。
そして、寂しいという感情がなくなった分、私は強くなった気がする。
色々な意味で…(笑)

「母は強し」とは、もしやこの事?と、最近思わなくもない。
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自分が好きということ

前回の幸せに関連して。
自分を好きになるということ。

自分が嫌い、という人をよく見かける。
私もある時期までは、自分があまり好きじゃなかった。
でも、自分の事が可愛くはあったと思う。

自分を好きになるということは、
自分を大事にするということだと思う。

自分を大事にする。
自分を大事にして、自分のこうありたいという理想に向かって、
自分をどんどん磨いていく。

それは辛い作業だけれど、そうしていれば、
自分をきっと愛せるようになる。

「私は駄目な人間。私はこんな自分が嫌い」

って言ってる人は、きっと自分が可愛い。
自分で自分を慰めて、「嫌いな自分」に定着している。
自分を磨くことは、他の誰にもできない、自分にしかできないこと。
そうやって自分を磨き続けていけば、
そういう努力をしている自分がきっと好きになる。

自分を大切にしていない人が、結構多そうだなぁ…、
と、時々思う。
せっかく生まれてきたんだから、自分を大切に。
好きになって。強く楽しく生きられればいいなぁ、と思うのだ。
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幸せ・不幸せ

私はひとから「幸せ?」と聞かれたら、
必ず「幸せ」と答えている。

自分が穏やかな時も、しんどい時も、私は「幸せ」だと思っている。

幸せってなんだろう?

幸せって、その人の境遇ではなく、その人の心のありようだと思っている。

なるべく後悔しなくて済む人生。
幸せな人生。

若い時の失敗も、その失敗があったから今の自分がある、
あの失敗がなかったら、もし今、同じような場面に遭遇したって
あの時のような選択肢を取るに違いない。

過去の失敗も、その時に悩んで苦しんだ自分も、
かけがえのない財産であり、経験だと思う。

だから私はいつでも幸せだし、自分が大好きだ。


…そのくらい強がって前を向いて生きていくほうが、
へこたれながら後ろを振り返りつつ生きるよりも、
よっぽど楽しい、と思うのだが…

たまにはへこたれる時もありますよね。
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恋愛する資格

私は非常に寂しがり屋だ。
中学校時代から、いつでも寂しいなぁという思いを抱えて生きていた。

彼氏といても、家族といても、どうにもならないような寂しさ。
それを埋めるために、人を好きになっていた時期もあった、ような気がする。

でも、自分の寂しさを埋めるために恋愛をするのは、
本当に恋愛をすると言うことじゃない。
それは恋愛する対象に、自分の何かを押し付ける事でしかない。
それは一見恋愛だけど、実はまったく違うものだろう。
本当の恋愛をするには、自分の寂しさや孤独感を
自分で処理できるようにならなければならないと、私は思う。

「誰も私のことを理解してくれない」

って、なんかよく聞く台詞だけれど、こんなの当たり前だ。
自分の事なんて、他人が分かるわけがない。
大体が自分自身の事だってよく分からないんだから。

大切なのは、
「大切なあの人のことを理解する私」
ではなく、もちろん
「私の事を理解してくれる大切なあの人」
でもなく、
「私のことを理解してくれようとしている大切なあの人」
であり、
「大切なあの人のことを、理解しようと努力する私」
なんじゃないのか。

他人のことなんて、それがたとえ親子であったとしても、
100%理解できるものではないと思う。
それでも相手を解ろうとする気持ちが大切なんではないのか。

恋愛とは、しようと思って出来るものじゃない。
うかつにはまってしまった落とし穴のようなものだと思う。

少なくとも、自分ひとりの孤独感をもてあますような人は、
幸せな恋愛は出来ないんじゃないのかなと思うのだ。
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