来し方、行く方
自分が歩いてきた道は、一本だ。
曲がっててもくねってても、一本だ。
絶対に二本以上になることはない。
自分が歩いた跡は、一本の道になっていて、自分が歩いているだけの幅の道が出来上がっている。今立っている、まさにその地点までの。
あなたは、選択をしている。その結果が今、ここにある。
と、言われた。
もう、選択をした後だと。
そういえば、ある地点からの私の選択のしかたは、どれもこれもが、切羽詰ったものだった。
常に、「こんなの無理」のそのちょっと上の選択を迫られていた。
「こんなの無理」ではなくて、「無理だろうがなんだろうがやらなかったらどうにもならない」っていうところで、私は選択し続けて、私の足元まで、今は一本の道がある。
いくつもの選択肢は、そこに乗り続ける?降りる?という選択肢。
そういうことを、はっきりと言葉にして伝えられること。
それはなんだか、非常に視界がクリアになった感じ。
感じてきていた感覚と、もらった言葉は違うのだけれど、しっかり言葉になって、色々な確認作業ができた。
その視点から今までの来し方を振り返ってみると、なんとまあ、納得する事の多い。
やっぱり、自分の力で変えうるものなんだなぁ。自分の生き方というのは。
自分のことは、まるごと全部自分のせい、と言う感覚とか、そういうものが実感として身についたことは、私にとってはとても大きな財産だ。
1年前、自分の急激な変化について色々考えた時期がある。
あれから、同じくらいのスピードで、私は変わり続けている気がする。
あの時、急激だなぁと思ったのは、あの時が何か外れる瞬間だったからなのじゃないかなと思う。
公園にある、「ぎったんばっこん」のぎーーったん の 「たん」のとこ。
そういう力は少しずつ蓄積されていって、ある時にパタンと動く。
パタンするまでは、先見えないんだよねぇ。空しか見えないものねぇ。
だからね、怖くなったり戸惑ったりするんだよねぇ。
時に疑心暗鬼になりつつ、時に納得しきれなくなりつつ、それでも必死で選び取ってきた選択肢の、いくつもの積み重ねが、今のわたし。
今までも、相手のせいにしているつもりはなかった生き方だけれど、
そうでもないんだなぁ、っていうことがよく分かった。この道を歩いていて。
極限って、きっと人生で何度も味わえないだろうけれど、出来れば当分味わいたくないけれど、でも極限から得るものってものすごく大きいんだなぁ。
平坦な道を難なく歩くことも、きっと素晴らしい事だろう。
でも私にはどうやら物足りないようだし、自分で納得のいかないことは、どうもごまかしてしまえないようだ。
ごまかせないなら、とことん付き進んでみるしかないわけで。
今、この時点で、やらなきゃいけないことの多さに押しつぶされそうな気持ちにもなっているのだけれど、ひとつずつクリアしてって今はこれだけになってる、という気持ちもある。
自分の得意分野・不得意分野あるけれども、(私の不得意分野が極めて生活に密着した事務的手続きのあれこれだと言うのも痛いのだけれど)少しずつマイペースで乗り切れたらいいなぁ、って思っている。
さて、この先、行く方に何があるのか、私は知らない。
けれども、歩いて行けばそのうち分かる。
納得して歩いてる道だから、不満はない。文句もない。
その場その場できっと、青くなったり赤くなったりしながら、乗り越えて歩くんだろう。
そういう道のりを一緒に歩く人、支えてくれる人、見守ってくれる人、心配してくれる人。
ありがたい、と、思える自分はきっと幸せだ。うん。
曲がっててもくねってても、一本だ。
絶対に二本以上になることはない。
自分が歩いた跡は、一本の道になっていて、自分が歩いているだけの幅の道が出来上がっている。今立っている、まさにその地点までの。
あなたは、選択をしている。その結果が今、ここにある。
と、言われた。
もう、選択をした後だと。
そういえば、ある地点からの私の選択のしかたは、どれもこれもが、切羽詰ったものだった。
常に、「こんなの無理」のそのちょっと上の選択を迫られていた。
「こんなの無理」ではなくて、「無理だろうがなんだろうがやらなかったらどうにもならない」っていうところで、私は選択し続けて、私の足元まで、今は一本の道がある。
いくつもの選択肢は、そこに乗り続ける?降りる?という選択肢。
そういうことを、はっきりと言葉にして伝えられること。
それはなんだか、非常に視界がクリアになった感じ。
感じてきていた感覚と、もらった言葉は違うのだけれど、しっかり言葉になって、色々な確認作業ができた。
その視点から今までの来し方を振り返ってみると、なんとまあ、納得する事の多い。
やっぱり、自分の力で変えうるものなんだなぁ。自分の生き方というのは。
自分のことは、まるごと全部自分のせい、と言う感覚とか、そういうものが実感として身についたことは、私にとってはとても大きな財産だ。
1年前、自分の急激な変化について色々考えた時期がある。
あれから、同じくらいのスピードで、私は変わり続けている気がする。
あの時、急激だなぁと思ったのは、あの時が何か外れる瞬間だったからなのじゃないかなと思う。
公園にある、「ぎったんばっこん」のぎーーったん の 「たん」のとこ。
そういう力は少しずつ蓄積されていって、ある時にパタンと動く。
パタンするまでは、先見えないんだよねぇ。空しか見えないものねぇ。
だからね、怖くなったり戸惑ったりするんだよねぇ。
時に疑心暗鬼になりつつ、時に納得しきれなくなりつつ、それでも必死で選び取ってきた選択肢の、いくつもの積み重ねが、今のわたし。
今までも、相手のせいにしているつもりはなかった生き方だけれど、
そうでもないんだなぁ、っていうことがよく分かった。この道を歩いていて。
極限って、きっと人生で何度も味わえないだろうけれど、出来れば当分味わいたくないけれど、でも極限から得るものってものすごく大きいんだなぁ。
平坦な道を難なく歩くことも、きっと素晴らしい事だろう。
でも私にはどうやら物足りないようだし、自分で納得のいかないことは、どうもごまかしてしまえないようだ。
ごまかせないなら、とことん付き進んでみるしかないわけで。
今、この時点で、やらなきゃいけないことの多さに押しつぶされそうな気持ちにもなっているのだけれど、ひとつずつクリアしてって今はこれだけになってる、という気持ちもある。
自分の得意分野・不得意分野あるけれども、(私の不得意分野が極めて生活に密着した事務的手続きのあれこれだと言うのも痛いのだけれど)少しずつマイペースで乗り切れたらいいなぁ、って思っている。
さて、この先、行く方に何があるのか、私は知らない。
けれども、歩いて行けばそのうち分かる。
納得して歩いてる道だから、不満はない。文句もない。
その場その場できっと、青くなったり赤くなったりしながら、乗り越えて歩くんだろう。
そういう道のりを一緒に歩く人、支えてくれる人、見守ってくれる人、心配してくれる人。
ありがたい、と、思える自分はきっと幸せだ。うん。