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心の記憶

友人の脚本家さんとお話していて、その人の脚本作りの話になった。

徹底した取材をする、その書き方の姿勢に頭が下がる思いをしました。

彼の過去の作品の中に、「Cutting」というお芝居がある。
リストカットをする女の子を題材にしたお芝居なのだが、
それだけ重いものを扱っていても、彼の作品は必要以上に重くならない、
とか、そういう話をしていたわけだ。

脚本とか、戯曲というものは、それだけで完成品ではないものなので、
これだけ読んでもなんとも言えないのだが。

彼の、「後には引かせたくない。劇場を出た後まで引きずって欲しくない」
という心意気は解ったが、脚本だけ読んでしまうと、
やはり思うところは少なからずありまして。

彼を治すためには、その記憶を消し去るしかなかった。

という言葉が、この脚本の中に出てくる。そして、

心の記憶はね、意味があるから残っているの。
辛くても、悲しくても。それがあるから楽しいって思えるの。

この台詞で、消し去ったはずの彼の記憶を呼び戻す理由付けをしている。
記憶を消し去ったとしたら…
嫌な記憶を全て消し去ったとしたら…

私たちは、ずっと赤ん坊のまま。子供のまま。


記憶には意味がある。
それは消し去るのではなく、昇華させてあげなければならない。

すごく大変な作業だと思う。
その記憶が、しんどければしんどいほど。
なぜあの時に自分は、あの人は、こう出来なかったのか。
これで間違っていたんだろうか。結局自分は…

誰にだって、同じ気持ちはある。誰にだって、どういう風になる可能性もある。

お前はただ、死ぬって言ってかまって欲しいだけなんだよ。

こういう台詞も出てくるのだが。
よく、周りにいる死にたい死にたいってつぶやいてる人。
まさにこういう事なんだと思う。

でも、私はこの言葉をそのままそうつぶやいている相手には吐けない。
そういう風に考えないと、保っていられない人だって、
いるような気がする。

そういう人に、いきなりこういう言葉を投げても、
きっと受け入れられない。はじき返される。

言葉を、気持ちを、できるだけ届けたいと、私は思う。
傲慢かもしれないけれど、そう思う。

この辺については、長くなりそうなので別の機会に。

私、いつも自分を「普通」って言うけれど。
なんというか、自分が特別とか、普通じゃないとか、
自分だけ、という考え方があまり好きじゃなくて。

所詮根っこはみんな同じ。

普通に人生あるいていたら、それぞれに同じ位の苦しみとか、
辛さとか幸せとか、喜びとか、出会ってるはずなんだろうと。

そこで「特別」って思ってしまうと、その先がなくなるような。
しんどい、辛い、と言う状況に甘んじてしまう状況からは、
人は前に進めないわけで。

それが解っていても、どうしても前に進めない。
そんな状況があることも、充分理解しています。
そういう時は、留まってみてもいいのではないかと。

辛いことがある分、どこかに希望もあれば、幸せなこともある。

楽天的な私は、こう考えてしまうのです。

こう考えると、少し楽になるような気がするのだが。
他でもない、私だって、若かりし頃は「特別」って思い悩んでいた一人だったのだから。

こうやってうんうんとうなって、少しずつ…
心の記憶を、いい記憶も悪い記憶も、昇華していけたらなと。日々思うのである。
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