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042散文

それは、くる。


嫌がったって、拒絶したって、どうしようもないのだ。
くるのが分かっていたって、避けられないのだ。
どうにか逃げようとして、どうにか避けようとして、私は必死に考える。
先に道がないのも分かっているから。落ちたら最後、しばらくはその暗くてじめじめした中にいなくてはならないのが、分かっているから。


でも、避けようはなく。


私はやっぱりそれに呑み込まれる。呑み込まれて流されて、落ちる。
そこからまた、必死になって這い上がってくるのだ。この場所に。あるいは、もう少し景色のちがった場所に。


それは、姿を隠してくることもある。


そういう時は、周到に罠を張り巡らせる。
私は慎重になっているのだけれど、慎重さも最初の危機感を忘れれば穴が出来るもので。
その気づかずにうっかり出来た穴に、するするとたやすく侵入してくる。
気がつくと私は、自らの足で、その場所にいる。暗くて、じめじめした、その中に。




さて、何かが変化する時。


その変化は好ましいものなのかそうでないのか。或いは、先に好ましい結果を産み出すのか否か。
その判断は、至極難しい。

自信がないよ、と、言う。

そんなもの皆持ち合わせていないよ、と、言う。

でもそうなのかな。と、私は思う。


確信を持って下した結論が、正しいか否か、いや、好ましいものか否かは、誰にも判らないし、決断を下した後に行動すること、を躊躇する事は、至極当然の事のような気がする。
それは、自信がないのでは、ないのだ。

自信がないということは、その確信がもてない事。
自分がこう思っている、自分はこう動くのが正しい、という、確信が持てない事だ。

確信した後に行動が移せるか移せないかは、勇気の問題だと思う。
勇気のない人は、行動しなかった事を悔いる。
あの時のあの確信はやっぱり正しかった、と、悔いる。


さて、今の私にないものは、勇気なのか自信なのか。
こういう時に誰かに頼りたくなる、誰かに答えを求めたくなる、これは依存気質。
いやだね。自分で決めればいいのに。

人の力をあり難く借りることと、依存する事は、どんな違いがあるのだろう。
全てが依存だとしたら、依存せずに人は生きる事が出来ない。


見渡す限り、何もなく、ただただ砂の広がる砂漠の中、自分の進むべき正しい方向が見えず。
けれど留まるわけにもいかないので、歩く。歩いている。
自分の歩いている方向が正しいのか、正しくないのか分からないまま、歩いている。


けれど、道を間違えたら、その道を一歩踏み外したら奈落の底に落ちる、そんな細い道を歩いている。


こんな感覚に陥った事が、過去にある。
やっとのことで、少し道が見える、風景の見渡せる場所に戻ってきた。
けれどそれは、ほんのちょっとの出来事で簡単につき落とされてしまうような、危い安定で。


私はまた、堂々巡りの疑問を頭の中で反芻する。



依存ってなあに?



強いってなあに?



弱いってなあに?



本当に綺麗な事など、この世にはない。綺麗なものに憧れるからこそ、人は自分を綺麗に飾りたいんだろう。


自分がどこまで綺麗ぶっているのか、そうでないのか、測る定規はない。
人が自分を飾らないでいる事など出来るのだろうか。



本当の善意はある。信じている。けれども偽善との区別がこれまたつかない。



ある人が言う。「愛を分けてあげますよ」
愛って分けられるものなの?
っていうか、愛って何?
愛するってどういうこと?



それは、気持ちのありよう以外の何者でもないと思うのだけれど。
私がこれは愛だと信じているものが、別の人にはそうではない、という可能性もたくさん。


でも、愛するという定義が揃わなかったら、どうやって人と人は愛し合うのだろう。


そこの隙間を埋めて行く努力をしなかったら、どうやって人と人は関わり合っていくのだろう。


人を信じる基準、指針、そういうものが、一般の人とずれている、と、思う。
警戒心を持ちなさい、と、よく言われる。



でもね?人を信じるなんて感覚の問題なんだよ。
目に見えないものを信じるっていうことが、信頼というものではないのかな、と、私は思ったりしている。
それが、なくしたくない関係になればなるほど、その信頼は、なくしたくない自分のエゴ故に脆くなる。
その重圧に耐えられるか耐えられないかは自分次第。



私が誰かを信じる。


無条件に信じる。


周りから、どう見られても。自分が周りからどう見られる行為をしていたとしても、自分の指針は自分の中にあって。



さて。



私は今、誰かを。無条件に信じる事が出来ているのかしら?
弱い弱い人間の私が、無条件に人を信じる事ができるのかしら?



自分では信じていると思っている。
たまに揺らいではいるけれど、根本的なところで、無条件に信じる人は、いる。
逆に、私のことを無条件に信じている人たちがいる。
何を疑うこともなく、一点の曇りもなく。


いつから、彼らは私に対して、懐疑の目を向けて、ひとりだちしていくのだろう。


私が全幅の信頼を、自分の両親に置けないように。
この小さなひとたちも、いつかそうやって私のところから旅だっていくのだろうか。
どうして、素っ裸でつきあえないのだろう。人と人は。
醜い事も嫌な事も。自分のなかにある、そういったものを全部。
認めてしまえればこんなに楽な事はない。



でも、その醜さを全部受け入れられる自信は、いまのところの私にはない。残念ながら。
深く深く、自分の中に潜って、対話する。
自分が認められていない、自分の黒くて暗いものはなあに?



柳のような人になりたい。



風そよそよと揺らぐ柳の枝葉の、しなやかさ。
しなやかに、さらっとかわして、根っこは揺らがない。
そういう人になりたい。



私の枝葉は、まだまだまだまだ硬い。



何が言いたいかっていうと、もう、どうしようもなく、八方塞な気分なのですよ。
そんなどん底気分の散文。








あー。逃げたい。遊びたいぞ。と。ひとりになりたいぞ。と。
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