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考える人に100のお題 INDEX

1.考えるということ
2.
3.自由論
4.友達とは
5.常識・普通
6.芸術
7.学校・学ぶということ
8.才能
9.悪と正義
10.人生
11.生きる糧・原動力
12.幸福論
13.知性
14.自殺の善悪
15.美しいものと醜いもの
16.遺伝子操作
17.生まれたこと
18.恋愛論
19.権利と義務
20.音楽
21.家族
22.愛憎
23.忘れること
24.無意識の内にあるもの
25.あしたについて思うこと
26.金と地位
27.嘘をつくこと
28.現在の自分と過去の自分
29.殺人
30.映画
31.××フェチ
32.居場所
33.本能
34.ストレス
35.優柔不断
36.愛情と恋情
37.守るもの
38.不変の真理
39.理想と野望
40.同性愛
41.いじめ
42.現実逃避
43.奇跡
44.唯一無二
45.アイデンティティ
46.小説
47.手放せないもの
48.
49.虐待
50.他人との距離
51.渇望するもの
52.怖いもの
53.個性
54.性善説と性悪説
55.かっこいいひと
56.変化すること
57.安楽死
58.外見と内面
59.平等の定義
60.結婚
61.ファッション論
62.大人・子供
63.目に見えるものと見えないもの
64.信じる
65.日本と世界
66.青春
67.死刑
68.セックス
69.自分の意志
70.××依存
71.闘う
72.殺したい
73.制服の賛否
74.私の住む街
75.周りにいる人たち
76.放課後
77.宗教
78.努力
79.優劣
80.差別と区別
81.自然
82.精神異常
83.宇宙
84.リストカット
85.苦痛
86.望み
87.人間の定義
88.最高の思い出
89.コンプレックス
90.身分・上下関係
91.将来
92.自意識
93.「生きている」とは
94.強さと弱さ
95.隠し事
96.日常の風景
97.敵と味方
98.整形・化粧・着飾ること
99.神
100.死=?


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(C)考える人に100のお題
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闘う

苦手だな。闘う。
本当に苦手だな。闘う。
それでも、必要な時には闘わなきゃならない。
何のために闘うのか。自分を悪者にしたくないのは皆きっと一緒で。
人を傷つける事が嫌なのも皆きっと一緒で。

それでもどうしようもなく人を傷つけてしまう事ってあるよね。
真剣ならば真剣なだけ、そういうものから目を逸らせないよね。

自分のせいで人が傷ついた、と思うこと。
自分のせいで人が死んだ、と思うこと。

そういうことで自分が壊れる人もいる。でも、それじゃ生きていけない。
闘うのは本当に苦手。

それでも、
闘わないといけないときはある。
相手は自分以外の誰かだったり、自分だったり、自分の大切な人だったり。
闘うことはとても疲れる。だから、できれば闘いたくない。
私は、私の大切だと思う人としか闘わない。
自分自身は本当に大切だから、逃げない。
そういうところをいい加減に逃げてしまうと、私という人間が腐るから。

少し前まで、私は必死に自分と闘っていました。
ひと段落ついたら、今度は何やら別のものと闘わないといけなくなりそうです。

もう、胃が縮こまってぴーぴー言うくらい嫌なんだけど。
でも、これやらないといけない気がする。

自分と闘った結果、手に入れた大切なものがあって、そのひとつが形になって、
今私の傍にいたりする。
私があそこで負けていたら、手に入らなかった大切なもの。
ああ、頑張って闘ってよかったなって思う、そんな時があるから。
それは、闘わないで逃げるよりもきっと気分がいいから。

私には一人で考えて立つ事がきっとできるから。
だから、闘う。
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××依存

しないで生きていけたらいいのかもしれない。
でも、別にしてもいいなと思う。
自覚のある依存もあるだろうし、ないものもあるだろうと思うんですが、私は間違いなくパソコンに依存してるなあ。。

その依存の結果、大切なものも手に入れたり得がたい経験をしたりしているので、これ、一概に悪いと思えない。
ま、依存してるからそう思うのかもしれませんが。

パソコンがなかったら、きっと別のものに依存してそれを讃えているだろうしね。

ギャンブルに依存して金つぎ込んじゃって家族を路頭に迷わせるとかそういうのがなければ、何に依存していてもいいと思います。
その人の生きる目的が、たとえばジャニーズだけで他のプライベートを捨てたとしても。
迷惑がかからなければいいだろうなぁ。


私の話に戻すと。
家族に迷惑かけたりして、パソコンとの距離を調整しつつ今があります。
依存っていうのは、本来自分がつけるであろう優先順位をすごくゆがめてしまう。
現実逃避だってするときはしていいと思うんだよな。

適当の按配がわかってれば、いいんだけどね。
踏ん張りどころだけ押さえてればいいんだけどね。

そこのタイミングを見誤りがちなのも依存なのかもしれません。
難しいものです。
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自分の意志

私の最大の弱点、かもしれない。
意志。弱い。これだけ我が強くて色々考えてるから、自分の気持ちも意志も持ってるんだけど、それを戦わせるのが苦手。とりあえず引っ込めて…っていう逃げ方。
じゃあ自分の意志で自由にやりなさい。って言われるとそれができなくなるという。

意志の力が弱いのは、小さい頃についたクセのようなもので。
大人の顔色伺って生きて来た人にはありがちなのではないでしょうか。
ここから自分の意志を持つなにやらってのは、結構ハードルの高いものです。
ハードルは高いけれど、これ克服しないと何も始まらない。
要するに、誰かの顔色を伺って生きるということは。
顔色を伺う誰かがいなくなったとたん、糸の切れた人形みたいになってしまうということ。
それは、ひとりで生きていけないということ。

でも、ひとりで生きていけないから誰かがいてくれないとって思っててもだめなんだよね。何も始まらない。
誰かと何かをやるには、まず、自分がひとりで生きていないとだめ。
なんとなく満たされない思いを抱えて寂しく生きていくなんて、嫌だな。という、今の自分の意志。願うだけで与えられるならこんなに簡単なことはないけれど、それでは生きている意味がない。

さて、私の持っているものはなんだろう。
私が誰かに向けて、これが私ですよ。って提供できるものってなんだろう。
そうしてひとりで立って堂々としていられるものってなんだろう。

今まで中途半端にしてきた色々を、そろそろまとめて形にしないといけない気分です。
一本芯の通ったものを自分の中に置くこと。
今まで、見ないように見ないようにして逃げてきた、一番治さなくちゃいけないところ。
そこに手をつけないといけない時期が来た気がします。

やっぱりさ、楽はしちゃいけないね。楽した分だけ後からツケが回ってくるようにできてる。
苦手なことをするのは腰が重たいものです。でも、その先にしかなりたい自分がないならやるしかないんだよねえ。
少しがんばろうと思います。

一本筋の通った人に、なるんだ。
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セックス

我が家の次男(現在小学校3年生)は、得意げに語る。

「赤ちゃんってさー、結婚してさー、キモイことするとできるんだよ!」

彼らにとって、セックスはまだ「キモい」ものらしい。少しほっとしたりする母心。

私はセックスをキモい事だとは思っていませんし、なくなったら困っちゃうものだとも思っております。
三大欲求のみっつめが性欲。
食欲と睡眠欲は満たされないと死んじゃうけど、性欲は満たされなくても死なないんだなあ。次に命を繋ぐための本能だから。

愛する人とじゃないとセックスできないとか、愛のないセックスは自分を粗末にする行為だとか。
そんなことないよねーー。セックスをどう位置づけして意味づけするのかなんて個人の自由。個人によってその意味だってなんだって変わってくると思うのですが。

ただ、自分にとってのセックスはどうなのかっていう位置づけはしっかりしておいたほうがいいなぁと思います。
これってセックスに限らないんだけれど。自分で何をやってるかがわかってやってるなら、何をしたってどういうセックスしたって自由だと。

セックスはスキンシップだと私は思っています。
自分の中にセックスを特別視する気持ちがあまりない。
どういう過程でどのあたりからそういう感覚になったのかは自分でもよくわからないんだけれどね。
特別視しない反面、ものすごく堅く考えている自分がいることも否定しない。
セックスに関しては、自分でも色々考えたのだけれど、ここで自分の中のセックスのあり方について公開する気にはなれないので伏せておきます。結論だけ。

私という人間は、ほんっとうに呆れるくらい、ややこしい。


困ったものです。
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死刑

殺したって何にもならないんじゃないかと思うのですが、終身刑だと死ぬまで税金で面倒見ることになるわけですね。。。あれ、シゴトってしないんだっけ。受刑者。
その罪に見合った罰なんて、取り返しのつかないものも含めて難しいものだと思う。
死に値する罪っていうのを決めるのは誰なんだろうっていう話で。

被害者でもなく加害者でもなく当事者ではまったくないものが決めるっていうのは一見公平な感じがするけど、実際そうでもないんじゃないかなぁと思う。
罪の重さなんて量りようがないから、でもそれだと人の社会が成り立たないから、っていう意味合いであるのが法律のような気がするのだけれど、どうなんだろう。

辛くても納得できなくても、ここのルールはこうだからそれでおさめてください。っていうことだと思う。

そのルールに外れることは、その社会に属せなくなるということ。
私たちはほとんどの人がどこかの社会に属している。その恩恵は確かにある。
そして私たちはその社会のルールのもとで自由。

私が属する社会のルールが死刑を承認していて、死刑に関するルールもきっちりしているなら、それでいいんじゃないかっていう。
でも、個人的には終身刑のほうがいいような気がするけれどね。
途中で出しちゃ絶対だめ。な、終身刑。
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青春

一生のうちで一番恥ずかしい時代が青春時代だと思う。
私の青春時代は18歳くらいから結婚するまでだったなぁ。
今考えると穴に入ってしまいたいほど恥ずかしいことを平気でしてたりやったりしてたよなあと思う。

恥ずかしいことを沢山して沢山学ぶのもこの時代だと思うのです。

痛い思いや恥ずかしい思いをして、思いっきり傷ついたり傷つけられたりしないと学べないことって確かにあって、そうやって皆、すごーく恥ずかしくて幼いところから成長して今があるんだと思うわけです。

ちなみに私の青春時代、半分くらいが引きこもっている記憶だったりします。
きっかけは失恋だけれど、そこで自分の全てについて振り返ってしまった。
自分という人間がいなくなったとしたら、自分から連絡を取ることをやめたら、私はどのくらいひとりになるんだろう。そんなことを考えて連絡を全て絶った時期があります。

ひたすら自分の中に潜り込んで、延々とものを考える日々。
自分の中にある「もう一度この人とやり直せる」という希望と戦いつつ、では何がいけなくてこうなったんだろうって反省するような日々。

いい経験でしたが、今思うと確実にトラウマのひとつになっていることも否めなく。
まあ、それもこれも含めて今の私なのでしょう。

大人になった自分のベースにあるのは、青春時代の経験。
だから、恥ずかしくて青くて目を背けたくなるけれど、懐かしい時代でもあるのでしょう。
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日本と世界

セカンドライフで遊んでいるわけですが、外国の方と接触する機会が多いです。
日本人のプロフィールには、「i can't speak English.」がお約束のように書かれていたり、i'm Japanese なんて一文を載せていたり。

外国人は本当に様々な国から飛んでいらっしゃいます。
英語が出来なくても気にせずに母国語で会話を試みるひとなんかも結構います。

日本人は日本人だけで固まって、他の国の人と交流しようとしない、とか、すごく排他的だとか、海外では日本人というだけでバカにされてBAN(追放)されてしまうような場所もあったりするのですね。

そもそも、日本と世界っていう比べ方が日本的なのではないかなと思ったりします。
世界の中に日本はある。アメリカもあってロシアもあって、韓国も中国もカナダもあって。
その中の1つの国が日本。
日本とアメリカ、日本と韓国、こういう対比ならまだわかるけれど、世界と日本を対比しても仕方ないと思うのね。だってその中の一員なのよ。日本人。

昔、英会話教室に通っている頃のお話。
「英語に外国という考え方はない」と、アメリカ人の講師が言っていたことを思い出します。
君は日本人でボクはアメリカ人。外国人というものはいない。と。

日本にあるこの「外国人」という考え方が、日本と世界になったり、ワールドワイドなゲームの世界で排他的に小さくまとまって遊ぶ、っていうところに結びつくんじゃないかな。


なんて思いました。
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信じる

目に見えないものの最たるもの。
愛情の出発点もここのような気がします。
一番最初に信じる対象はきっと母親。次は周囲の大人なのではないかな。
その次が自分。その後自分に裏切られたりして右往左往して、
また自分を信じられるようになったりするんじゃないかな。

母親に対する愛、母子の間柄で、最初に能動的に愛するのは、子供の方だと信じて疑っていなかったりします。
その愛に全力で母親がこたえることで最初の信頼関係が生まれる。
まあ、なかなかそのとおりに行かないのも人間だったりするのですけれど。

ともあれそんな過程を経て、人は初めて家族以外の他の誰かを信じるに至るんじゃないかな。
自分も相手も疑いながら、それでもどこかでぎりぎり信じている限りなんとかなる。みたいな。
ゆるぎない、っていうのはそう簡単に成立するものじゃないけれど、それに近づくべく必死になることは悪いことじゃないと思う。

どこまでが本当でどこまでが自分の願望でどこまでが幻想なのかなんて、見えないからこそわからない。けれどもそこで思い切れることもきっと信じることだ。

最後の最後まで疑わしいのは、自分自身だったりするのかもしれない。

じゃなかったら迷ったり惑ったりしないものね。
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目に見えるものと見えないもの

この次の「信じる」というお題にも繋がりそうなお題ですがなんとも。。。
目に見えるものってとてもわかりやすい。

築30年の建物、とか。
年代物の扇風機、とか。
キズがついている、とか。

目に見えるものは、その物のほんの一部をあらわしてるに過ぎない。

このキズは誰がいつつけたの、とか。
どういう人が暮らしてきた建物なの、とか。
この扇風機はあとどれだけ現役でいられるの、とか。

この子は顔がお父さんそっくりね。
性格はお母さんそっくりね。

とか。

見えているところで見えない部分を推し量ったりもするのだけれどね、
見えない部分って結構大事だったりするから、その推し量る部分で色々ぐちゃぐちゃしちゃうと厄介なものです。

欲は人の目を鈍くしてしまうのだけれど、それが顕著に自覚できるのは恋愛中。
好きな人が出来たときとか。
ずっと一緒にいたい、別れたくない、私のものにしたい、という気持ちは欲でしかないから。

誤解が増えて、疑い深くなって、知らずにはいられないのは、そういう欲があるから。

恋は盲目っていうのとはまた違うんだろうけれど、恋をしている状態ってのは欲がむき出しになっている状態ですから、あたらずとも遠からずなのかな。

常に平常心みたいなものを持ち合わせていればそんなこともないんだろうけど、そこまで偉い人間になるのも難しそうです。仏様みたいだよね。
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大人・子供

大人っていうのは、自分一人ぶんの責任は自分で取れる、そういうことを念頭に置いている人。
子供っていうのは、そういうことを考えずに自分の気持ちのよい行動をとる人。

一見正義、一見正しい、傍目に見たらそれはどうしようもなく正しい、正論。
だけれどその影で傷ついたり困ったりする人がいるや否や。そういうことを考えずに行動する子供。
そういうことをわかっていてなお行動する大人。

大人は汚い、大人はずるい。
子供はまっすぐで、無垢で、きれい。

子供って残酷な存在。
大人は汚れた分だけ、優しくなる気がする。
正しいことを行うことと、人に優しくなることは同じじゃない。

それは、自分ではないものを理解するきっかけにもなる。
子供は、沢山のものや人に関わって汚れていかないと大人にはなれない。
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ファッション論

ファッションを語るほどファッションに興味のない私です。
自分の着たいものを着ればいいのであって。
自分の心地よいものを。心地よいと思うものを。

お洋服もお化粧も自己満足に過ぎないと思っている節がありまして。
普段化粧をしないのですが、「化粧は女の身だしなみだ」とか言われるとどうにも困ってしまう。

そういう場面があるのは分かるし、化粧をまったくしないわけでもないのだけれど。
身だしなみなのかぁ。女の身だしなみってお金かかるんだな。こう考えると。

難儀だなぁ、と他人事のように思ってしまうわけですが。
もともといわゆる「社会」みたいな場所に出たことがないのが原因かもしれません。
だから自分が社会人なのか?と考えると、どうもそう思えない部分があることも確かなのですが・・・。

仕事は仕事が出来ていれば問題がない。
客先に出向くような仕事ならば、服装を考えることは重要だと思う。
けれどもそういう仕事じゃなければ、わざわざお金かけて肌を痛めつけるようなお化粧しなくてもいいよねぇ。というのは甘いのでしょうかね。

ファッションからかけ離れた気がするのだけれど、これは服装についても同じように思うのです。
自分が思うほど、他人は自分のことなど観ていない。
ちょっと浮いた服装していても、ものすごく気にかける人なんてほとんどいない。

だったらすきな格好をすればいいと、私は思うのです。
そのほうが楽しいじゃない。
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結婚

えー。結婚1回失敗している私が言うのもなんですが。
結婚はよいもの。

 独身とはいえ、私には子供が3人いるからまったくの単身ではないけれど、生活していくのってそれだけで戦いなんだよね。どうにかなることならないこと、含めて戦い。

 うれしいこととかわーいやったーって事は、大抵わぁどうしよう困ったぞとかしんどいなあこれみたいなのの合間に訪れるもので。

 その困ったぞとかしんどいなぁみたいなものが押し寄せてる時に、じゃあこうしていこう、ああしていこう、と作戦が立てられてお互いの持ち場所を決められるのは素敵なことだなと思うのです。


 もうひとつ。
 私は私がなんで結婚に失敗したのか、なんとなく見えていたりして。
家族と親子と夫婦との絆の結び方がなんとなく分かりかけている。
頭でそうかと分かった事は、実践したい、というのが私の今の気持ち。

 今考えている夫婦のあり方を、10年後の私が正しいと思うかは分からない。でも、きっと離れなきゃならないようなことにはならないかなと思ったりもしています。そういう色々を一緒にいながら変えていく関係性は素敵だと思うし、そういう関係を血の繋がりがない人と作ってみたいなと思っています。

 一緒に歩きながらお互い変わり続けて影響しあっていく間柄なんて、すごく素敵だと思うのです。私にとって、それが結婚なんだな。きっと。
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平等の定義

平等、ってのは皆に等しく与えられてるもののこと。
この世は結構不公平に出来てるけれど、平等にできている。
公平と平等は似てる。でも違う。

私たちは生まれた国とか、時代とか、家庭環境とか。
そういうものはバラバラだ。
でも、いつか死ぬことを約束されて生まれてきている点で平等だ。

生まれた時には体以外の何も持たず、
死ぬ時もまた、何も持たずにひとりでいく。

そういう意味で平等。
不幸の基準、幸福の基準、苦労の基準、楽な基準、そんなものは関係ないのだな。自分がどんな境遇に生まれようと、生まれて、生きて、死ぬ権利がある。

これだけが生まれたときから死ぬまで、私たち人間が持ち続ける特権。
で、これって一番大事で、これだけあれば人はなんだか生きていけちゃう、特権。

ね。世の中は人生は不公平だけど平等だ。

だからこうやって生きていける。楽しく生きていける。
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外見と内面

これは相互に作用するもの、だと思う。
歳を重ねれば重ねるほどそうなるものだと思う。

人の顔にはその人の内面がそのまま映し出される。
顔を見た時の自分の感覚は非常に大切にしていると思う。
そういう意味で外見は大事だ。

冷たい・暖かい・強い・弱い・やわらかい・かたい

なんというかそういうものを顔から受け取る。
そしてそれを基準に私は人を判断することがある。


一番怖いのは、何も読み取れない顔。
たまにだけれどそういう人が、いる。
何が隠れてるのか、何を隠しこんでるのか、
それが見えないというのは本当に本当に怖いことだなぁ。

話したりコミュニケーションを取りつつ感じる「内面」を軽視するわけではないけれど、ぱっと見たときの直感的な「外見」の感覚もちゃんと付け加えて判断しなければいけない。

それは、どちらに偏りすぎていてもいけないものだと思う。
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安楽死

難しいなぁ、というのが正直な感想。
たとえばガンだとしよう。
全身に転移しちゃって手の施しようがない。
延命治療というのは、死期を延ばすためだけの治療だろう。
死ぬまでの何ヶ月が痛みだけならそれはとても辛い。
想像するのも難しいほど、辛い。

誰もきっと漠然と「こういう風に死にたい」というビジョンは持つと思う。ある程度の年齢になればね。
苦痛まみれの死って、望まないだろう。誰も。

ならばそれを楽にしましょう、というのが安楽死なのだろう。
本当の意味での治療・医療ってのはなんだろうと思うわけだ。
でもこれは難しい。線引きが難しい。

末期がんの場合、延命治療をせずに苦痛を出来るだけ取り去る方向の治療も出来るだろう。それ以外の病気でもその選択肢は、本人の意思が見えれば取ることが出来るだろう。

でも本人の確認が出来なかったら?
本人が赤ん坊だったら?

答えはどんどん複雑になってゆく。

余命数時間と診断された乳児(主に新生児)の延命処置を止めて、母親や父親に赤ん坊を抱いてもらって最期の時を迎えるという安楽死の事を話題にしたことがある。

赤ん坊の生きる力を止めるなと、反対している人がいる。
けれど赤ん坊は、何のために産まれてきたのだろうと思うわけで。
本来の赤ん坊の当然の権利である母親や父親からの抱っこ、触れあいもなく死んでゆくのは、なんだかとっても悲しいなと思うんだけどなぁ。

さて。
人の命になると、こうやって重大な問題になるのだけれど。
これがペットの話になるとまた別の話なんだよなぁ。
ペットの安楽死ってよく聞くよね。

「これ以上苦しいのはかわいそうだから楽にしてあげましょう」

という。
この定義が人間に当てはまらないのは少々疑問に思うところではあります。

ま、ペットは人の所有物で、人は誰の所有物にもなり得ない。
そう考えると納得できる…のかもしれない。微妙だけど。

私は自分がそんな立場になったら、延命はしたくないなぁ。
出来るだけ楽に死ぬ時まで暮らせたらいいなぁ。
どうがんばったって死ぬ時に死ぬのだし、それまで死のうと思ったって死ねないのだからね。
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変化すること

変化というのは、常にしているものだと思う。
私たちはつねに変化している。そして変わらない。

私たちは時間から逃れられない。
時間ってのは変化ってことだね。
時間が一定の速度で流れている以上、変化からは逃れられない。

この瞬間がずっと続けばいいと思うことがある。
時間が移ろってその関係も自分たちの気持ちも変わるということを信じられないことがある。

けれども時間はそんなことお構いなしに過ぎていくから、やっぱり私たちは変化する。

そしてそれはたいがい、私たちが自分で望んで得た変化なのだな。

こんなはずじゃなかった、も、これでよかった、も。
全部自分で選んだ結果の変化。
変わらない、そして変わり続けるところを選べるのは自分自身だけなんだなぁ。

変化を恐れてはいけないね。
どのみち変わるのだから。
できるならば素敵な変化を。最後まで。
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かっこいいひと

かっこいい、と私が感じるひと。

自分がしっかりあるひと。

動じないひと。

根っこにしっかり「自分自身」という根を張りつつ、なお変わり続けられるひと。

しなやかにつよいひと。

自分の信じたものをもちつづけられるひと。


曲げないでまっすぐ、よりも、いくらでもぐにゃぐにゃと曲がるけれど、根元から倒れる事が絶対にないひと、はかっこいいなと思う。

本当に大切なことを知っているひとなのだ。

卑怯なことだってなんだって、出来るひと。

そういうひとが、私はとってもかっこいいと思う。
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性善説と性悪説

どっちでもない。

これが正解。

人はどっちも持ってるから、悪だの善だのって名前をつけたんでしょう。意味をつけたんでしょう。
人によって悪の定義も善の定義も違う。
そんな線引きの曖昧なもの自体で、根本がどうだなんてね?おかしいよね?

さて、善でも悪でもない、うまれたての赤ん坊は残酷なことを平気でする。
それは知らないから。学習していないから。
それはすなわち純粋ということ。

うまれながらに、人は人。

赤ん坊のようなもの。

その後に肉付けされる色々によって、善や悪の判断を個人の経験のうえでつけていくもの。
悪でも善でもなく、ひとつだけ言えるのは、誰もが自分が一番大切ということ。
この順番が狂うと、周りも含めてみんなが狂ってしまうよ、ということ。
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個性

 個性が強い、とか弱い、とか個性的、とかいう言い方をよくするけれど、本当に厳密な意味で個性を語れば、10人いれば10通りあって強いも弱いもないものだと思う。
個性的だね、なんて言い方をよくされる。それは言い換えれば「アクが強い」ということに他ならないんじゃない?

 野菜で例えてみよう。
レタス。これはアクがない。色々なものによく合うのは、レタス自身にアクがないから。主張が控えめなので大抵のものと合う。これは、なんにでも合わせやすいというレタスの個性。
ピーマンに苦味があって苦手な子どもが多いのもこれまた個性。炒めても生でも両方ポピュラーという個性。

 個性とは、それをそれと定義するもの、のような気がするよ。主体性のあるなしと個性のあるなしはまったく別のものだと思う。自分に自信がないから目立たないように周りに合わせるのも個性、それに悩んでしまうのもたいして悩まないのも個性。

 こういう項目を細かく設定して行った時に、すべての質問に同じ回答をする人間ってのはきっとひとりもいない。それが立派な個性だ。あなたをあなたたらしめているもの。価値観。自分には何もない、なんて思ってる人はもうそれだけで個性的だ。何もないなんて事、絶対にあるはずがないのだけれど。だって私たちは考える頭を持っていて、自分には何もないと考えられるほどには何かを持っているのだから。

 目立つ人がいい、わけでもない。
誰かとじっくり付き合っていけば、みんなそれなりに味わい深いのだと思う。ただ、それが自分に合うかどうかという話。いいも悪いもないね。

 私とあなたの個性がぶつかり合う。そこで何かがうまれていって、その結果何かが残る。それってとっても楽しい事。私とあなたとの共通点。そこが出発点でもいい。でも大事なのはきっと、私とあなたの相違点だ。それっていいわね、って思うこともあれば、それってなんだかおかしいわね、って思うこともある。ずっと傍にいる人とは、こういう作業を丁寧にゆっくりとやっていきたいなといつも思っている。

 あなたと私は違う、で終わらせてしまっては面白くない。それはもしかしたら、すごく素敵でたいせつなものを自ら手放してることかもしれないから。個性とは、そういう風にお付き合いしていきたいなと思っています。
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怖いもの

怖いもの


たくさんある。
ゴキブリも怖いし、お化けも怖い。
そして、人が人を傷つけたりしようと思う気持ちが怖い。
人が誰かを貶めようとする気持ちが怖い。

性善説を信じているわけではない。
そういうものが自分の中にある事を知っている、から、怖い。
ネガティブはマイナス。ポジティブはプラス。
それはなだらかで時に急な坂。

気を抜くと徐々に、あっという間にマイナスのほうへ滑っていくから。
気づかないと知らないうちに、黒く染まる可能性がある、ということ。

結局一番怖いのは自分自身。
自分の意識で制御できる自分自身なんて、自分の中のほんの一部分に過ぎないのだから。
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渇望するもの

渇望するもの・ことが叶わなかったためしがない。
これだけは、と、思ったものは大抵叶っている。

叶わないのは失恋くらいか。

渇望するものがどうしても手に入らないと悟った時、本当に諦めがつけられた時、諦められたご褒美に何かをもらえるものだと私は思っている。
失恋で人は成長する、とよく言うし、私もそれはそう思う。
それはきっと、何を置いても失いたくない人を、手放さなければならないからだろう。
そこで躓いて執着してしまうと、その後の生き方がたいそう味気なくつまらないものになってしまう気がする。

もう手に入らないものに対して執着を持つということは、自分を嫌な感じに削ることだと思う。

大抵この手の執着には、裏側に恐怖が潜んでいる。

「もう二度と同じようなものは手に入らないかもしれない。味わえないかもしれない。それは怖い。
だから、失いたくない。或いは失ったと認めたくない。」

けれどそれは亡霊のようなものなのだ。
失ってもう二度と戻らないものもあるのだ。

渇望する事は悪いことではない。いい事だと思う。
けれど、それがドロドロの執着に変身しないよう、上手に付き合って行かなければならない感情なのだろうなと感じる。
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他人との距離

告白しよう。
私は他人との距離の置き方が下手だ。

自分の中に自分の決めた距離があって、それは人それぞれで違う。
「知らない人」「知り合い」「友達」「親友」「家族」「パートナー」
もっともっとあるだろうけれど、こういう言葉で人と自分の距離を置く基準を決めている人が大半なのではなかろうか。

うん。

エヴァでいうところのATフィールド。
ATフィールドの大きさは人それぞれ。
私のATフィールドは狭い。
その狭さのせいで色々な誤解を産んでみたり、無駄に気をもんでみたり。

なんとなく話をする軽い友達、というものが作れないのだ。
「世間一般でいうとこの話は重たすぎるのだろうか。そうではないのだろうか」
という、ごくごく基本のところから考えてしまうからだ。

こういう事を考えるようになったのは、即ちそういうことで苦労した経験があるからであって、
という事は、私は最初から「ごくごく一般的な」その基準から少し外れた感覚を持っているのだろう。

自分にない感覚を推し量らなければならないので非常に疲れるし難しい。
だから自分から誰かのところへ飛び込む、という事が出来ないんではないかなと思う。
人は誰も疲れる事は無意識に避けようとするから。

それでもそれをせざるを得ない状況が訪れる事もまた人生の常であって。
私はその苦手を乗り越えないと、しっかりした他人との関係を結ぶ事が出来ないのかもしれない。
普通に考えればごくごく当たり前の事でもある。

相手の気持ちと自分の気持ちと両方なければ他人と関係を結ぶ事など出来ないのだから。

そう考えた時、今現在色々思い悩んでいる取り越し苦労の数々は、私にとっては必要な事なのだなと合点が行くのである。
私は自分の世界を再構築したのだから、すべての人間関係は一から始まっているのだ。

そういうことのあれこれで醜態を晒すのも、きっと必要な過程なのだろうからこれはこれでいいのだ。
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虐待

いじめ と 虐待 は違う。
虐待には、第三者の目がない。
いじめだってケースバイケースだろうと言われてしまえばそれまでなのだけれど、
でもやっぱり、虐待は密室で起こるものだと私は思っている。

自分の中に、虐待する人の芽がある事を、自覚している。
その因子があることを、子供がどうしたら傷つくかという事を知っている。
知っているからその一線を越えないで済むのか、と問われると、それは返答に難しい。

しかし知らなければ、超えてから気づくのだろう。

私はおそらく、虐待されて育っている。
物心ついた時から、両親に対して片思いし続けていた事を自覚している。
親になって、本当はその前から、虐待する心理はなんとなく分かっていた。
される側の心理も分かっていた。それは、とても切ない片思いのようなものだ。

私は見上げられるのがとても苦手だ。
恐れられるのも、ご機嫌取られるのも、非常に苦手だ。
その心理が分かるから、腰ぎんちゃく的な心理がとってもとっても苦手だ。
たとえそれが純粋な好意や愛から出来ているものであっても。

自分をいい子に見せようと振舞う事は、自分を貶めている事に他ならない事を知っているから。
それは後で思いもよらない枷になる事を知っているから。

けれど私がその道を通ってきて、今苦労しているように、やっぱりいい子に振舞ってしまう人たちは同じような道を通らなければどうにもならないのかなと思う。

自分が同じ要素を持っているなら持っているだけ、観るのが嫌になるのはこれ、人のサガか。
親子の虐待ってこういうところから始まるんだな、と、思う。

少しずつ、ではあるけれど。
私にそっくりな私の長男と、私の間に開いた距離は埋まりつつある。
それはある部分で私が彼と距離を置いたからに他ならない。
だから率直に、鼻につく所を指摘することが出来る。

それで治らなくてもいいのだ。
気をつけるようになってくれれば。
「こういうことを言って、こうなったら、周りの子はなんて思うかな?」
という言い方が出来るようになった私を誇らしく思おう。


話が虐待からだいぶ逸れた感じもするけれど、実はそうでもない。
虐待というのは、される側目線で語られるべきものだからだ。
だから、私のこういう葛藤は問題ではなく、葛藤している間、私は長男にとってはよい母親ではなかった。
それは間違いない。

親が最初から完璧ではない、なんていうのも、親の勝手な言い分だろう。
完璧ではないうちに傷ついた子供の心を修復するのは、とても難しい。

長男は、今のところ非常に被害者意識が強い。
「なんで僕ばっかり」という言葉を頻繁に口にする。
その都度私は言う。
「あなたばっかりではない。順番にお願いしているのだよ」と。
具体的な例を挙げて、納得してもらう。

いつになったら消えるか分からないけれど、もしかしたらある程度大人になるまで消えないかもしれないけれど、それでも私は言い続けるだろう。
そして、そんなに私の顔色を伺わなくてもいいんだよ、という事を、全力で伝えたい。
そんな事をしなくても、私はあなたを愛しているのだよ、と。

これを子供に直接言うと、子供を脅迫してしまいかねないので言わないでいるけれど、
いつか分かって欲しい事はある。

「あなたたちの可能性を信じていなければ、私は叱らないよ。失望もしなければ怒る事も、悲しむ事もないんだよ」

こればっかりは、大人にならなければ分からなかった事だ。
自分が信じるって事を理解できないうちは、きっと分からないことだ。
私はきっと今、子供を信じている。
だから、子供達はそのうちにこのことを分かると思っている。


母親検定なんてものがあったら、間違いなく赤点ぎりぎり、な私だけれど、
赤点にならないギリギリのラインで母親やっていけたらなと思う。

採点するのは、常にわが子達だ。
ごまかしも言い訳も出来ないな。
彼らが親離れするその時に、合格点がもらえるように暮らしていければいいな。
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死ぬまで見続けるもの。
私は幸福なことに、夢のなかった時代がない。

いつも何かしらを夢見ている。


つい最近のこと。
私のところに「中学生バトン」なるものが届いた。
中学時代の事をネタにしたバトンだ。
私も書いて、珍しく友人たちに回した。

私が回した友人のうち2名が、「中学時代に夢はなかった」と書いていた。


そうか、そういうこともあるのだな。
夢があるほうが珍しいのかもしれない。
思えば私の弟も妹も、期限ぎりぎりで自分の将来を作り出していた。

ちなみに中学時代の私の夢は、マイケルJフォックスと結婚すること。
当時すでに結婚していたのですがね、、、彼。

マイケルに近づくにはどうしたらいいかを真剣に考え、
「戸田奈津子みたいになればいいんだ!」と、真面目に翻訳家の道へ進もうとしていた時期。

それが、中学時代。

沢山の夢があって、そのつど色々な形で挫折をして、
そして今の私は、やっぱり夢を持っている。

私には常になりたいものがある。

これがなくなったらどうなるんだろう、なんて考えた事がないくらい、なりたいものが次から次へと出てくる。
これがいい事なのか悪い事なのか、私は知らない。知らなくていい。


ただ、生きる原動力の大きな指針のひとつになっている事は、確かなようだ。
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手放せないもの

歳を取るごとに、手放せないものがどんどん少なくなっている気がします。
手放せないもの=執着 というならば、手放せないと思っている事って全て思い込みでしかないのよね。
これがなくなったら生きていけない、と、思い込んでいる程度。

そういう事を経験から学んでいるから、きっと「これだけは手放せない」って事を思わない。
そしてかけがえがないのは、そうやって学んできた自分自身の中にある経験なのではないかな。
しかしそれでさえ、たとえば記憶喪失なんかになって全部消えてしまったとしたら。
生きていけないなんてこと、思わないだろうしきっと生きていく。

きっとそれなりに生きていく。私も、私と関わっている人達も。

という風に考えた時に、果たして手放せないものってあるのかなと思う。
きっと答えは、ノーだ。
手放せないものなんて、ない。

でもそれはあってもなくても同じということでもない。

ちょっと間違えるとすごく冷たい考えかたにみえるけれど、この考えかたは大切なんじゃないかなぁと思ったりもする。


ちなみに、純粋に「物」に対しての執着は、子供を産んでからだいぶ少なくなった気がします。
子供が小さい頃、まだ赤ん坊の頃、悪気もなく破いた大切な本や、
若い頃に書いた台本や、
芝居を観に行っては書いていた感想文のノート。

物なんて所詮、物でしかないな。と、悟らざるを得なかったのはそのときの話。
芝居をたくさん観に行った、経験と記憶があるからそれでいい。
忘れてしまっているならそれまでの記憶だよ、と。


それでも戸棚の片隅からひょっこり出てきた、昔に観に行った芝居の半拳の束は、やっぱり捨てる覚悟ができずにいるのです。



・・・これって手放せないってこと?
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小説

かなり経済的な娯楽、という捉え方をしています。
小説を読むのは好きです。
ノンフィクションよりもフィクションが好きです。

フィクションというのは、言い換えれば嘘で。
どれだけ上手に嘘をついてくれるかな、ってところが好きなのです。

嘘の中に誠がある。
フィクションという嘘だからこそ、心に響く誠があったりする。

自分の伝えたい事、テーマを、物語という嘘のオブラートに包んで伝えられることは、素敵なことだと思う。それがきっと表現なんだな。


小説も映画もお芝居も。


娯楽と呼ばれるものって、不必要なものなんですね。生きていくうえで。
なくても死なない。
なくても死なないけれど、なくなると生きていくの結構辛いとも思う。

無駄な部分、余白の部分って大事なんだなぁ。
そして私にとって、一番手軽に接する事ができる娯楽が、小説。

人に生まれてきてよかったなと思うことは、こういう娯楽を楽しめるということ。
余分にすぎないのだけれど、それが自分の人生に少なからぬ影響を及ぼす、というのも、娯楽の素敵なところだと思ったりします。


ちなみに。好きな小説は、幸せな小説。優しい小説。
せめて嘘の世界くらいは、ほんわかしたいなというのが本音です。
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アイデンティティ

アイデン&ティティという歌がある。


アイデン&ティティは高円寺のアパートで
貧しいながら幸せに暮らしていた

ある朝、目が覚めると誰かのタレ込みで
アイデン&ティティは引き裂かれたのさ

それを何処で手に入れた 誰から買った 
問い詰められてとてもロックを知った時とは言えず

アイデン&ティティを捨てるならば
二人一緒にしてやるよと役人に言われた

一生、口にするなと肩を叩かれて
アイデン&ティティは解放されたのさ

アイデン&ティティは住みにくい街を捨て
辛く長い道を今日も歩むのさ

みうらじゅんがつくった詞。
映画「アイデン&ティティ」では主人公が歌う。

「この国にはアイデンティティがなくなってしまった。」

と、主人公は言う。

私達を取り巻く環境は、色々な情報に満ち溢れてる。
色々な情報に触れる段階で、自分を見失ったり自分を確立しづらかったりはあるの、かな。
自分の頭で物を考え、自分の気持ちの赴くままに行動し、それをよしとするならば、
確かに扱いづらい存在ではあるのだろう。集団をまとめるうえでは。

けれどなぁ。

あるものはどうしようもなくて。
いくらそれを何かで誤魔化そうとしたって無理だったりするわけで。
そういうものがなければ何かはつくれない。
自分をぶっつけて摩擦して削れて傷ついていく過程ってきっと死ぬまで大切なことだと思うんです。

自分がなかったことがない。
流されることはあっても、全部が流れることがない。
そんなような強い根を持っている自分でよかったと思う。

ない、わけがなくて、誰にでもあって、隠れているものだと私は思っています。
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唯一無二

わたしじしん。
ありふれていて、けれど代替がきかないもの。
そうじゃなきゃ大切にしようと思えないでしょ?

私は自分自身に非常な愛着を感じているから。

唯一無二なあなたでわたしでなにかであるのだから、
代替が効かないのです。

さっき試しに娘に聞いてみた。

「ねぇ、もしお母さんがいなくなって、代わりになっちゃん(私の妹)がゆっちゃんのお母さんだよ、って言われたらどうする?」

即答。「やだ」って。

そういうことでしょう。
私も娘の代わりに何か別のもの、とは思えませんし。
自分が愛着を感じているものって、みんな自分にとっての唯一無二なんじゃないでしょうか。

それを私以外の誰かがどう思うかはさして問題ではない。
唯一無二の宝物が、両手にちょうどおさまるくらいあることがきっととっても幸せな事なんだろうな。
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奇跡

小さい頃は神様がいて毎日愛を届けてくれた
やさしい気持ちで目覚めた朝は
大人になっても奇跡は起こるよ

カーテンを開いて 静かな木漏れ日の
やさしさに包まれたなら きっと
目に映るすべてのことはメッセージ


ユーミンは偉大です。
奇跡ってこういうものだ。

で、終わってしまっても仕方がないので駄文をつなげてみよう。

頑張って生きてるとたまに感じることが出来るものが奇跡なんじゃあないでしょうか。
奇跡なんて、ないっ
って思ってしまえば奇跡なんてひとつもないし、
これは奇跡だ!
って思ってしまえばなんだって奇跡です。


やさしい気持ちで目覚めた朝にしか、奇跡は起こらないんですよ。
奇跡を感じるには余裕が必要。
奇跡を感じるくらいの余裕がないと、だめだって事です。きっとね。

奇跡を感じてさらに余裕がうまれる。
よしがんばろうなんて思える。がんばれる。

私とあなたが出会ったのも奇跡。
あなたがここでこれを読んでるのも奇跡。
あなたがここでこれを読んで何か感じたらものすごい奇跡。
私があなたをもし愛してしまったらとんでもない奇跡。

世の中、奇跡に満ち溢れていますね。

そういうことです。
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現実逃避

たまにするといいもの。
用法、容量を守ってね、みたいなもの。

逃げる事も時には必要だと思っている。
許容量を超えてだめになっちゃうくらいなら、少し逃げて英気を養えと言いたい。

自分の限界を知らずに、超えちゃって自滅するのは愚かな事だ。
自分の限界をよく知ること。身の程を知る事は大切だから。
上手に逃げることと上手に戦うことは必要だ。
それを無理して頑張って結果迷惑かけるよりも。

上手に逃避している人を見ると、憧れる。
うまい逃げ方を知ってる人は、素敵だ。
そして、強い。

ぽーんと、現実振り切って逃げたくなることは、生きてりゃたびたびあって、そのつど上手にとは言えずともなんとか乗り切るわけで。

現実から逃げっぱなしじゃいけない。
現実と向き合い続けていてはつぶれる。
その按配とバランスを保つことって、すごく大切な事。

インターネットは手軽に現実逃避できる手段であったりもする。
そればかりに傾倒していては、自分が腐ってしまう。

ちょうどいい美味しい状態を保つために、現実逃避はよいスパイスになる。
でもそれも、使う人の使い方次第。

そんな感じのもの。
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いじめ

集団を維持するのに、結束力を強めるのに一番手っ取り早くて幼稚で効果的なこと。もの。
人というのは目的を持つと結構簡単に結束するもので。
またその期間というのは楽しかったりするもので。


人身御供みたいな要素は、少なからずあるものがいじめだと思っています。


「死にぞこないの青」という小説があります。
教師が、クラスをまとめるための手段として主人公の少年を徹底していじめるという小説。


頂点に立つ人が、それさえ理解していれば、集団をまとめるのは非常に簡単なわけで。
でも、いじめられる側にとっては、それは地獄のような暮らしになるわけで。


会社でも学校でも、なかなか抜け出すことが出来ない場での苦痛は、おそらく想像を絶する。



いじめられる経験もいじめる経験もそれなりにしてきて思うことは、いじめなんかに頼るような結束なんかいらない、ということ。
何もない時に、何もないままずっと付き合える友人を作る事の方が、集団の中で戦々恐々として暮らすよりよっぽど楽だと言うこと。


そんな事を考えたのは、中学校2年生の時。


それから私は、グループというものに属さずに今まで暮らしています。
ひとりでいるという事は悪い事じゃあない。
何かを抑えたり無理したりしながら、集団の輪の中にいるほうが、よっぽどおろかな気がします。


学校という縛りがなくなり、自由に暮らしてきて、
今、学校のPTAという縛りの中にいるけれど。


やっぱり私は、グループと呼ばれるものの中に入る事を拒んでいる。
その中に仲間がいなくたって、私には私をそのまま分かってくれる人がいるから。
それで、いいと思ったりする。
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同性愛

同性を愛する人。


それだけ。


とりたてて考えることでもなく、ただ、マイノリティについて考える事はあるかなぁ。
でもそれは、「同性愛」自体を考える事とは別の話だとも思うので、ここでは書かない。
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理想と野望

似て非なるもの、かな。
まーここのところ、ものを考える力が衰えすぎております。
考えなきゃだめだな。


理想を、持っています。
口をあんぐりあけて、「こうなったらいいなぁ」とか思ってるのが願望なら、
理想はいかにして「こうなったらいいなぁ」に近づくか、ということを念頭に置き、切磋琢磨する様か。
野望は「こうなったらいいなぁ」に向かって、周りを省みずに突き進む感じか。


どうも私は、野望を持てるタイプではない。
理想は持つけれど、非常に個人的で内向的なものばかりのような気がする。
人と争うことが好きではない。
ひっくり返せば、それは負けず嫌いということになるのだろう。



争って自分の中の何かをむき出しにすることを望まない。
誰かがそれをむき出しにしているのも見たくない。


甘い人間なので、野望を持ってそれをギラギラさせている人が苦手です。


芥川の「蜘蛛の糸」ではないけれど。
自分が登るために、他者を蹴飛ばすということがとっても苦手です。
嫌いなのではなく、苦手。
怖くてそばに近寄れない感じ。そばにいても常に緊張している感じ。


甘すぎて笑ってしまいますが。


怠けながら、だらけながらも、一応理想は心の中にあり続けます。
これがあるから、すんでのところで立ち直れるもの、だと思っています。
こうなりたい自分の理想像は、すごくすごく高いところにある。
いつでもそれに手を伸ばしている。


最近怠けてるかな・・・。


理想も野望も悪いものとは思いません。野望が必要な事柄もたくさんあるでしょう。
そのくらい強い気持ちが必要不可欠な分野もたくさんあるでしょう。


理想は一歩間違えれば野望になり、野望の中心には理想がある。
きっとね。



そういう間柄のことだと思います。
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不変の真理

あると思う。
こうしてただ文字にすると、とても陳腐な響きだったりするのだけれど、
でもやっぱりあると思う。


人生は諸行無常で、色即是空なんだけれども、
だからこそかたちのない何かを学べる場所なのではないかと思っている。


30年生きていると、「あぁ、そういうふうにできているんだなぁ」と思うことがたくさんある。
それは偶然なんてないということ。
それは自分の歩いてきた道、すべてが必然だということ。
今の自分はなるべくしてなっているということ。


いくつかの分岐があって、その分岐を選んでこうなっていること、とか。


もしくは、どの分岐を選んだとしても、結局ここに辿りついている、とか。


そういうふうにできているものっていうのが、ある。確実に。



十二国記という小説がある。
ファンタジーなのだけれど、十二国記の世界にある、世の中の、世界のきまりごと。
はっきりしていてはっきりしすぎている感じもするけれど、私達が暮らしているこの世界にも、きっと同じようにはっきりしたきまりごとがある。


それは法律とか憲法とかそんなレベルの人が作ったものではない、人智を超えたルールだ。


極限まで追い詰められた時、考え込んだ時、その後にそういうルールの一端が見えることがある。
信じる信じないは個人の自由だけれど、実感してしまったものは、どうしようもない。


そういうルールがおぼろげながらでも見えてくると、世の中が少し違って見える。
そして深く納得することが出来る。


非常に宗教っぽい話になってしまったのだけれど。


感覚で感じたことなので、上手には言えないのだけれど。ね。
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守るもの

人を強くする一つのきっかけ、だと思う。
守るものがある、ということ。


今現在の私には、結構真剣に守ってるものが3つある。


子供たち。


かなりの勢いで守ってます。
何かを守るには、自分がそれだけの力を持たなくちゃならない。
だから、守るものを持つと人は強くなるんだと。


私が守る事を意識した瞬間。実ははっきり覚えてる。



最初の子供を産んで、退院してきて、初めて家で2人きりの時間をすごした日。
授乳していて、もう、なんだか生まれたての赤ん坊ってね、必死なんです。
必死で乳を吸う。


赤ん坊、最初から乳飲むのが上手ではないしね。
飲みながら練習していって、しかも乳は、出始めると勝手にぴゃーぴゃー出てきてしまうもので、子供はゲホゲホしながら吐きながら、乳を飲む=栄養を採るコツを覚えていきます。


その必死な姿を見ていて、まあ、飲むほうも必死ならば与えるほうも必死なわけでして。
お互いに必死な授乳風景の中、私は子供を見ていて、


「あ。今、私がいなかったらこの子死ぬ」


って思ったんです。
実際に死ぬなんてこと、ないんだけどね。私がいなくなったら、誰かが育てる。
今の日本はそういうふうにできている。


でも。


そういう理屈ではないところで、私は思ってしまった。


今にして思えば、あれは子供というものを育てるうえで、必要不可欠な感情なんだと。
だから、ごく自然にああいう感情がうまれたんだなぁと感じています。


それまで、死ぬわけでもないし死のうとも思わないけれど、ただなんとなく「いつ死んでもいいや」と感じていた気分がすっかり抜けまして。
それから今まで、私は自分が守りに入った事を感じています。


だって、守る人だから。私。


子供を守るのは私だから。


母は強し、と言うけれど、これはきっと「そういうふうにできている」人間が上手に次の世代に命を残すための、仕組みなんじゃないかなぁと思ったりしています。
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愛情と恋情

恋愛って両方入ってるけれど。
どっちなんだろう。


どっちもあるんだよね。だから、恋愛。


恋はときめくもの。
恋は好きで好きでずっとずっと傍にいたくて、自分のものにしたくて独占したいっていう気持ち。


大抵苦しいのは、恋情。


愛は慈しむもの。
その対象を愛し、大切に思うこと。その対象がよりよくなることを望む気持ち。自分のことはさて置いて、対象のためになることを模索する気持ち。


好きだから愛する、に至るのであって、愛が100%になることは、なかなかなかなか。
恋した人を愛する、だから、思い悩んだりするんであって。
相手の望むことと自分の望むことが、100%かっちり当てはまる瞬間なんて、そうそうないわけで。


譲り合うのは、お互いの愛のバランスがいい時。
いつも必ず、どちらかが余分に譲ってる。


恋は最もエゴイスティックな心の動き。
愛は、最もエゴイスティックから遠い心の動き。


そんな気持ちが同居するのが、恋愛。
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ストレス

どうしようもなく溜まる時は、溜まっている自覚がない時だったりする。
気がつくと、どうしようもなくトゲトゲ・イガイガになっている、自分。


そうなっちゃうくらいストレスを感じることも、必要だよね。
自分と全く同じ人って一人もいないし、人と関わらなきゃ生きていけない。
そこで生じる摩擦で、私たちは何かを削られたり磨かれたりしていく。


私たちは、原石でうまれてきて、磨かれて光っていく。
磨かなかったら原石は原石のまま。
磨き方を間違えたら、輝くことはない。


どうせなら、輝きたいと思う。


ストレスを感じてどうにも出口が見つからないとき。
それはきっと、自分を輝かせるチャンスだろうなぁ。
磨き方を問われる時。


失敗したり、間違えたりしながら、
正しい磨き方を身につける。


ものすごく頑張った後には、必ず何かが返ってくる。
それはそれこそは、自分以外の誰にも出来ない、自分以外の誰にもプレゼント出来ない宝物なのじゃないかな。


後でよかった、と、思うためには。
そういうつらーーーい時間が必要なんだろうなぁ。
その場ではとてもじゃないけれど、見返りなんて考えていられないほどの、必死さが要求されるんだろうなぁ。


これはいつも、とんでもないストレスからおなかを壊したりした後、思うこと。
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本能

私のモットーは、「本能に素直に!」だったりする。
素直でいるということは、出来てるようで出来てなかったり、まー性格がややこしいだけに考え始めると止まらなくなるスパイラル、ということで。


こうやってモノを書いて、色々考えてはいるけれど、そもそも考えるきっかけっていうのは、自分の感じた「感覚」みたいなものが発端なわけです。その根本が知りたくて、考える。


私の行動って、モットーにするまでもなく、実は本能にすごく即したものなのかもしれない。


エッセイカテゴリでも書いているけれど、感覚を闇雲に信じてそれにすがってつき進む時は、あまりいい時ではないなぁ。きっと。


感覚レベルで気持ちいいと思うことを選んでいきたいなとは思うけれど。


本能って大切。でも、私たちは異常に人間が多い、社会というもので暮らしている。
私たちがたいして普段、生命の危機を感じずに暮らしていられるのは、モラルのような人間社会のきまりごとがあるからだ。


それはそれで大切。
そこのバランス感覚を大切にしたいなとは思っている。


これはすべき。これはすべきではない。という、ルールだけで生きていては、んー。きっと楽なんだろうけどつまらないな。
自分の気持ちいいと思う行為と、社会との、ちょうどいい折り合いを見つけて行く生き方が出来たらいいなと思う。


本能。


偉大なちからです。私はきっと、本能の望むがままに子供をつくって、産んで、暮らしてる。


その結果な今現在の自分や取り巻く環境、楽だとは言わないけれど、嫌いじゃない。
だからきっと、このまま、本能に素直に生きていくんだと思う。


どうせなら楽しく生きたいものね。





その道が山あり谷ありだとしても。
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居場所

大切なもの。
どこでもいい、なんでもいいから、自分の居場所は確保しておくべきだ。


それは自分が自分のままでいられる場所。
わずらわしいことを考えなくてもいられる場所。
安心する場所。


そんな場所を作るために頑張らなきゃいけないこともたくさんある、気がする。
ひとりっきりの場所は、居場所とは言わないような気もする。
自分がそこに「居る」場所ということは、誰か他の人がいないと成り立たない気もするから。


居場所、と聞いて思い出すのはバンプのダンデライオン。


居場所を追われたライオンが、最後に見つけ出したのはタンポポだった。
なぁんかとっても切ない話だけれど、こういう、他者って必要なのかなと思う。
ライオンの居場所は、タンポポの前だったんだよねぇ。。。ってことだよねぇ。


こういう居場所、幸いにも私にはあるみたい。
自分でつくろうとしなかったらつくれないし、誰かに与えられるものでもないし、
つくり方を教えてくれる人もいない。


自分で気づいてつくっていくことに意味のある、大切な大切な、もの。


自分にはそんなものない。自分は不幸だ。不運だ。と、色々なことに対して、不満ばかりだったり、その原因の責任を他者に擦り付けているようでは、自分の居場所はいつまでたってもできないね。きっとね。
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フェチ

フェチズムかぁ。。。
私、フェチズムと聞いて思い浮かぶところがないのです。


異性のどこを見て、私はドキっとするのだろう、なんて考えてみたけれど。


色々なフェチを持つ方がいらっしゃいますが、そういうものが好きになった背景というか、きっかけってあるものなのでしょうか。
私は自分自身の性癖の根源を、なんとなく理解しています。もちろんはっきりでもないですが。


世間やら建前やらを、一番とっぱらったところにあるだろう、性欲。
それに基づいて、フェチってきっと何か深いものが潜んでいそうです。


もぐりこんだらでて来れなさそうなので、この辺でお茶を濁したいと思います。
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映画

開始時間ぎりぎりに慌てて映画館に入る。
慌てて入る必要なんてないのだけれど。
予告が流れてるから。


でも、どうして慌ててしまうんだろう。
ジュースはSサイズでいい。途中でトイレに行きたくなるから。
ポップコーンはジュースを助長するから本当は買わなくていい。


暗くてしんとしてる映画館。


できれば綺麗な映画館がいい。


汚い映画館は最近みかけないな。


マリオンの、ピカデリーとか日劇とかの、天井のシャンデリアがせり上がる。


あー、はじまるんだなー。っていう、軽いわくわく感。


予告編の終わりに、スクリーンのサイズが変わる。


あー、本編はじまるんだなー。っていう、わくわく感。


そういうのも全部ひっくるめたのが、映画館。


DVDを否定しない。ビデオを否定しない。
でも、映画館には映画館のよさがあって、両者は別物なんだなぁと思う。
手軽に観れることと、あえて出かけて行って、観る事とは意味合いが違う。
どっちもいいものだ。


あほの一つ覚えみたいにビデオを観あさった時期もあったけれど。
やはり適量は守りましょう、という気持ち。


麻痺した感覚で映画を観続ける事は、至極もったいないことだなぁ。


気軽に現実逃避ができるもの。それが映画。というか、映画館。
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殺人

人を殺してはいけません。
あたりまえのことです。


なんで?


人のものを盗んではいけません、と、同様のこと。
ころされた人が困っちゃうから。
でもね。
この世の中はそう単純に出来てるわけじゃなくてね。
死にたいと心から望む人がいるとしたら。
でも自殺できなくてほんとうにつらい思いをしてるとしたら。



どうします?



そんな場面、きっと色々あるのだろうけれど、一番わかりやすい例を挙げて。


安楽死。


もう、余命もいくらもない。
生きていることは身体的な苦痛のみ。
あとは死ぬのを待つばかり、な状態。
こんな状態で、「もう死にたい。ほっとけばすぐに死ぬのに。延命のためだけに生きたくない」
って、自分の大切な人が心から望んだとしたら?



難しすぎて、とてもじゃないけれどたとえ話で結論が出る問題ではないです。
人を殺すことを、なんとも思っていない、と言う人はあまりいなくて、それは私たちの生きる社会がつくったルールなのだけれど。良心。幼い頃から刷り込まれたこういうモラルに逆らうことは、とてもとても重い枷を負うことになるわけです。


もうちょっとオカルティックな(あるいはスピリチュアルな)方面から話を進めると、人を殺すというカルマを背負うことになるわけです。


とてもじゃないが、憎しみで人を殺すことは出来ません。
そんなものを、にくい人のために背負うことが理解できない。
私はとてもいくじなしな考えのもと、人を殺すことはできないと思う。
それほどの重荷を、他人の重荷を、背負えるほど強くないから。



人を殺せるということは、強いということ。
その強さがうらやましいかというと、そうでもないのですけれどね。
そんなことを思います。
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現在の自分と過去の自分

たとえば、10年前の自分と今の自分を比べてみる。
私は今度の3月で30歳になる。


10年前の私は、20歳になることを非常に恐怖していた。
怖くて怖くて仕方がなかった。
それは、高校を卒業するときにも味わった感覚だった。


何の感覚か。


自由になることへの、漠然とした不安だったのだと思う。
大人になるということは、自由になるということで、自由になるということは、それなりの責任を自分で負う、ということだから。


そう言う事を考えて、果たして今の自分にそれだけの度量があるのだろうか、と、恐怖していた事を思い出す。


そして今、もうすぐ30歳になろうとしている私は、似たような恐怖を抱えている。
「30歳ってオトナだよな。でもオトナってなんだろう。」


いくつになっても、身の丈と実年齢が合わない、という感覚に苛まれている。
でもそれはきっとそういうものなのだろうなぁ、という気もしている。
私が20歳の時に想像していた30歳というのは、今の私なんかよりずっとオトナで、ずっとかっこよくて、、、なんてね。


実際その年齢になってみると、「へーなんだこんなもんかー」となる、ような。


そして。


20歳の私と今の私、比べてみると結構違う。10年間の間に学んだ事は、結構多い。そして大きい。
そういうものなのだろうなぁ。


徐々に、時に劇的に変化する自分自身。


変化を恐れたら、そこで自分の成長は止まってしまう。
だから、常に身の丈に合わないなぁ、と思いながら、暮らし続けるのだろうなぁ。
その積み重ねがすなわち、成長するということなのだろうな。
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嘘をつくこと

嘘をついたことのない人なんていないだろうな。
いい嘘と悪い嘘、っていうけれど、本当はそんなものないんだろうな、とも思う。


隠すこと、が、嘘になるならば、また定義は変わってくるのかもしれない。


事実を偽って誰かに伝えることは、それがたとえ優しさだとしたって一時しのぎにしかならない、という事。
伝えるべき事柄、伝えるべきタイミングというものはあると思う。


けれど、今その時点のことだけを考えて何かを偽るのは、結局自分のエゴなんではないのかな、と思ったりする。最近。
嘘をつくことを、「あの人のため」と思い込むのはよくないな。


だってきっと、それは逃げだもの。
事実を隠すのと、事実を曲げることは違う。


まあ、事実を事実のまま伝えることってすごく難しいとも思うのだけれど。


ひとつの事実を、私が伝える。あなたが伝える。
その内容はきっと、わずかでも違っているはず。
それは私なら私の、あなたならあなたの頭や心の中を通っているから。


伝言ゲームのように、誰かの中を通るたびに少しずつ形を変えて行くから。
それがきっとうわさなんだろうな。
事実無根なんてうわさ、あるのかな。なんて思う。


事実なんて、それを体験した当事者にしか分からないものだものね。
たとえそれが、色々な人の中を通った結果、当事者からしたら事実無根になったとしたって、誰も責められない。


話がずれたけれど。


自分の心や気持ちを偽ったりすることは、やっぱりたとえどんな理由があったって、しちゃいけないんだな。きっと。
それは後悔みたいなものになって、ずっと心の中に溜まっていってしまうから。
それは自分を曇らせるから。


あなたのために、と、嘘をつかれた相手の気持ちになると、やっぱりやりきれないものな。
つかないでいられたらいい。でも、やっぱり嘘をつきながら生きて行くんだろうな。私たちは。
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金と地位

金も地位も世間のもの。
世間は大切だよー。でもそれはおまけだよ。


おろそかにしていいものではない。けれど、それを目的にしたら手に入らないもの。


自分をきらきらさせるため、自分自身を磨くんだ。
そうしたらお金も地位もくっついてきたりこなかったりする。


死ぬときに、その瞬間に、持てる物ってきっとお金でも社会的な地位でもなくて、人とどれだけ繋がれたかな、ってことなんじゃないかなーと思っていて、そこから学んだり得たりしたものや、深く深く繋がれた人との絆とか、そういうものこそが自分自身で持てるものなんじゃないかな。


死ぬときに誰かが惜しんでくれたり、誰かが悲しんでくれたり、そういうのがあったらいいなと思う。


世間みたいな浮気性で気まぐれなものの顔色を伺って生きるのは、なんだかとってもつまらないうえに疲れる生き方のような気がするな。
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あしたについて思うこと

今日の連続が明日になって昨日になる。
過去も未来も今現在があるから成り立つ。


あしたは今日の延長。
昨日は自分の軌跡。


今日、今の行動の結果が明日につながる。
だからなるべく手を抜かないようにしようと思うのだけれど、
手抜いちゃう時はあって、それも自分でしかたないかな。


それも含めて、あしたはあしたの自分をがんばろう、と思う。



予定は未定。
そのくらいの気持ちで考えるのがいいんだと思う。
あしたの事を考えて、怖がるあまりに踏み出せないこともたくさんあるけれど。
困った事に、重大なことならば重大なだけ。


それでも、近所のコンビニに行くくらいの気安さで、踏み出せたらかっこいいなぁ、と思うのです。



タロットカードの0番。愚者。
彼は足元もみずに歩いて行く。
タロットカードの9番。隠者。
彼は考えるあまりに隠れた者。


思慮深さと、行動力。


このどちらもが、きっと必要。
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無意識の内にあるもの

考えれば考えるほどややこしくなるもの。


無意識、とは、意識した時点で無意識ではなくなるものだから。
本当の無意識は、自分以外の人からしか見えないもののような気がする。


友人に、「あなたは無意識に荒れる」と言われる。
無意識なので荒れている自覚はない。けれど思いっきり荒れているらしい。
その矛先が、自覚できるところに向かい始めた頃、自分でも荒れていることを認識するのだ。


無意識に私のイライラを受けている友人には、本当に「申し訳ない。お世話かけます」としか言えないのだけれど、無意識をさらけ出す事の出来る友人がいる事は幸せな事なのだと思う。


傍観、と言う言葉が正しいのかどうか判らないけれど。
自分自信の距離は、それなりに自在に取れる特性を持っていると思う。
何かの時に客観視することが出来る視点。


それは無意識と対角にあるもので、それは無意識の領域が狭まるということ。
いつも、常に、意識している。
と、言うこと。


けれど、それが出来るからと驕っていると穴に落ちる。
完璧に無意識の領域をなくすことなど出来ないのだから。
自分が感知していない、けれど、間違いなく自分自身の本心、という、やっかいで複雑な状態のものが、無意識の中には詰まっている。
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忘れること

ないと困る。大切でやさしい頭のはたらき。
忘れられない、なんて嘘。


なんだって都合のいいように人の頭の中は動いてる。
本当に忘れたいような嫌な思い出は、きっと忘れる。


忘れられない、でも忘れたい思い出っていうのは、きっと本当は忘れたくない甘い思い出だからだ。
忘れたくない、忘れたい、切ないけれど。


もしも、コンピュータのように、忘れるという事なしに生きたら人はどうなるだろう。
賢くなるだろうか。…ならないよなぁ。無理だ。
上手に忘れて、上手に思い出して生きていきたいな。


願わくば、思い出す思い出は笑って話せるようなのがいいな。


ちくりと胸が痛むような思い出も。
そのちくりとした胸の痛みを、楽しめるような思い出がいい。
忘れるって、きっとそういうこと。


人にとっても優しい、生きるための大切な機能。
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愛憎

関心のある状態。
関心が非常に高い状態。


私はヘタレ仕様なので、愛→憎になることはないのだけれど、
…というか、愛に比べて憎の心を持ち続けることってとってもエネルギー使うから。
心も消耗してしまうから。


期待をしないこと、希望を持たないこと、に、繋がっていくのかなぁ。


見返りを求めない、というと聞こえはいいけれど、それって憎まないための逃げのような気もする。
自分のことです。はい。


期待をしないということは、自分の自信のなさのあらわれなのかな?
見返りを求めない気持ちっていうのもあると思う。これは自信のなさではないような気がする。


諦めには、「ああやっぱりか」っていう気持ちがくっついてきて、
見返りを求めない心にはそういう気持ちはついてこない。
ここに差があるかな?


けれど取る行動が一緒で外からその判断がつかないなら、あまり違いはないのかもしれません。
その違いは、きっと当事者同士だけが分かること、なのかもしれません。
当事者同士にも分からない場合も多いかもしれないね。


悲しみを怒りに変えるだけのエネルギーが足りません。でした。
今もやっぱりなかなかそこまで踏み出せません。


憎まれてもいい。私の事を記憶にとどめておいて欲しい。


という気持ちは、やっぱり歪んだとはいえ、愛の形なのかもしれません。
私にも、自分がこの人と愛したり愛されたりした爪跡を残したい、という気持ちは人一倍強い事を自覚しておりますから。


むしろ、それさえあれば納得する、みたいな。


それが「愛」の跡でも、「憎」の跡でも、もしかしたら大差ないのかもしれませんね。
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家族

至極縁の深い他人の集合体。
人が活動する上で一番基本となる集団。


家族のような間柄になると、たまに忘れがちになるのが、家族と自分は他人であるという認識で、これを忘れると非常にやっかいなことになる。


血の繋がりの絆は確かにある。私の子供たちは私の胎の中で外で生きられるまでに育ったわけだし、
その間私は結構必死で腹の中の子を守ったりしていたわけで。


けれども、肉が千切れて誕生した瞬間から、私と子供は別の人格を持った他人なのだ。
人は、絶対に誰かの物にはならない。
家族は、甘えても許される間柄だ。ある程度ならば。
けれども、やはり他人の認識を持っていないと、その絆にはひびが入って収集のつかないことにもなりうる。


血の繋がりを過信してはいけない。
夫婦だからと過信してはいけない。
私たちは、家族の一員である前に、ひとりで立つ人間なのだから。


集団を維持していくために、必要なのが役割づけで。
それが、家族の中だと、「父親」「母親」「兄」「姉」「弟」「妹」「祖父」「祖母」といったものになるのだと私は思っている。


役柄があると、集団としての各々の立場がより明確になるから。
役柄がある、その役柄の名前に甘えてしまう、ということ。
本来はそこにいるのは何人かの人で、立場上違うことと言ったら年齢と性別くらいのものなのに。
一緒に生きて行く共同体だから、出来る者が出来ることをやり、助け合っていくのは当然のことで、
それを怠って役柄の上に胡坐をかいていては、他の家族からつまはじきにされるのも仕方がないことなのだ。


逆に言えば。役柄に甘んじて自分には出来ない役割をしている人に対して感謝と尊敬の念を抱くことを忘れてしまえば、簡単に信頼関係は崩れてしまうのだ。
それが例え、親子の間であったとしても。


役柄の名前に甘えてしまうのならば、役割など取っ払ってしまえばいい。
よくある、「お父さんが一番偉い」という立場は、そうやってお父さんを立ててくれるほかの家族があるからそうやっていられるのだ。
お父さんがお父さんに与えられた役割をこなせなければ、それは歪んだ押し付けになる。他の家族の誰かに負担がかかる。
そう言う意味で、家族とはみな同じ平等の立場に立っているという認識を忘れてはならない。


誰が欠けても困ったことになってしまう集団を構成するひとりひとりだという事を忘れてはならない。
本当の意味の家族ってそういうものだと思うのだけれど。




夫婦は他人、子は別というけれど。
そんな事はないのだ。子だって他人だ。
自分のとは全く違った脳味噌を使って、その脳味噌の考えた意思で動いているのだから。
わが子だから、と、わが子の全てをわかった気になってはいけない。
自分以外の誰かの全てなど、決して理解することなど出来ないのだから。
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音楽

音楽。常に常備しているもの。
常に流れているもの。


意識していなくとも、世のなかは音楽でいっぱい。


悔しいけれど、文章では言い表せないものを音楽は簡単に表現してしまうことがある。
そういう瞬間がある音楽を、時々羨ましく思い、楽器を弾けない、音をつくりだせない自分をもどかしく思う事もある。


実は、いつか書いてみたい歌の歌詞。
でもどうしても散文になってしまうのだな。
いつか書きたいな、詞。




音楽。ないと困るのかな。困るな。


本とか音楽とか映画とか。
なくても死なないものだけれど。
やっぱりないと困るんだよね。


そういう余分って結構侮れないほど大切。


そういう余分を大事に生きている、私。
それを糧に現実を生きて行く、私。
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権利と義務

表裏一体のもの。
してもらうばっかりじゃ成り立たない。
してあげるばっかりでも成り立たない。


義務を怠る人は権利など主張できない。
そんな都合のいいように、世の中は動かない。
したことのぶん、なにかが返って来る。
しなかったことのぶん、やっぱりなにかが返って来る。


綺麗事のようだけれど、でもそういう仕組みでなければ世のなかって成り立たないと思う。


世のなか、したいことだけして飄々と生きているようにみえる人も、
きっとそれなりに義務果たしてる。


そうじゃない人は、その後絶対に大きなツケを払うことになる。


義務も権利も楽しくこなせるといいんだよねぇ。本当は。
それが一番いいんだよね。



そういう風に生きている人は、なんだかとっても格好いい。
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恋愛論

できた人は幸せ者 なもの。
なんだかんだで恋愛きっかけに成長する人は多いと思う。


「どうしたら私の大好きなこの人は、よりよく生きることが出来るだろう」


って思うことと、


「自分だけのものにしておきたい。ずっと一緒にいたいくっついてたい明日もあさってもずっと一緒にいたい」


って思うことと、
両方あるのが恋愛のような気がする。


そういう矛盾とか、否が応でも深く深く相手の事を知ったりしていく経験は、人をおおきくつよくする。と、思う。
いっぱい恋愛していっぱい失恋する事は、人として生きる醍醐味なんじゃないかなぁと思う。


自分を差し置いて、相手を尊重しようと思う気持ちになれるって素敵な事だと思うんだなぁ。
そう言う気持ちを持つことが、恋愛するっていう事じゃないかなぁ。


現実逃避のための恋愛は、きっと恋愛のようで恋愛ではないのだとも思うよ。
ま、何をもって恋愛を恋愛と呼ぶのかの定義の違いだとも思うけれど。


いっぱい傷ついていっぱい傷つけていっぱい幸せな瞬間を分かち合えるような、そんな恋愛をした人は、やっぱり幸せ者だと思う。
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生まれたこと

事件だと思う。
幸いにして、両親・家族から待ち望まれて祝福されて生まれて来たひとにとっても、
残念ながら、産むかどうしようか迷ったりして生まれて来たひとにとっても。
自分の生命の誕生が、自分を産んだ人にとっての大事件であることに間違いはないと思う。


ひとはそうやって、誰かにものすごく大きな衝撃と影響を与えて生まれてくる。


生まれたことが、どの瞬間を指して言うのかが私にはイマイチ分からないのだけれど、
うーん。。。
お腹に命が宿った、と、母親が認識した時がそのいのちの存在のスタートのような気がする。
他者に認識されることで初めて、自分の存在が生まれると思うから。


だから残念ながら、「おぎゃあ」と生まれる事なく亡くなってしまったいのちも、
そう言う意味では「生まれて」いるのじゃないかな。


生まれたことは事件だ。
それも大きな事件だ。
生まれたことに意味のない人なんて一人もいない。
生まれたことに意味のないいのちなんてひとつもない。
その存在がとてもとても短くても。


だって誰かに、少なからぬ影響を与えたんだから。
私のもとで生まれてきたいのちに、私は感謝する。
うまれてきてくれてありがとう、と。
私を選んでわたしのところに来てくれてありがとう、と。


生まれたことに意味がないと思えても、それは違う。
意味はある。生んだ側からは、とってもとっても意味のある存在なのだから。
人生を大きく変えるほどの影響を与えられるのだから。ね。
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遺伝子操作

不自然、という言葉をよく使う。
神への冒涜だ、みたいな言葉もよく聞く。
遺伝子操作は色々行われてるから、もうそういう言葉もアレなんだろうけれど。


何が不自然で何が自然なのか、
何が冒涜で冒涜でないのか、
私にはわからない。


法王庁の避妊法 という本がある。生憎私は本を読んではいないのだが、
この本を原作にした舞台を観た事がある。


オギノ式を見つけた産婦人科のお医者さんのお話。
オギノ式を実証するために、彼は自分の妻に生理のあった日を記録するように頼む。
妻は、こう言う。


「赤ん坊は天からの授かり物だ。そんなものをコントロールするのは、恐ろしい。それは神を冒涜する行為ではないの?」


と。
オギノ式は、ローマ法王庁が唯一認めた避妊法、だったと思います。
一番自然な形の避妊法ということです。
どちらかというと、避妊よりも子供をつくるための方法という気もしますが。


そんな時代の人が、当たり前に中絶したりクローンベイビーを作ったりする様を見たらどう思うだろう。
結局はそれが導入されてしまえば、「自然」と感じてしまうのだろう。
それは、慣れて鈍感になっていくということ。
人の手が入ったものを不自然というなら、人工というなら、私達が生活している空間にまったくの自然のものなど本当に少ない。


だから、ある部分で流れに任せて見守ることも必要なのだろうし、
自分の中の気持ち悪さ、違和感を隠さない事も必要なのだろうな。


遺伝子操作、私の中では、アリなんですね。
食物に関して言えば。
人間に対してそれをどう使うか、とか、クローンを作る、とかには抵抗感があります。
でも、抵抗感がある以上の事を、素人である私には何も言えないというのが本音だったりします。
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美しいものと醜いもの

美しいなぁと思うものがある。
醜いなぁと思うものがある。


なぜ、自分のカラダから出たものって醜く感じるんだろうな。


あ。子供は別。


用がなくなった塵だからだろうか。
自分のカラダから出た排泄物って本能的なレベルで、汚くて醜いものだよね。


美しいと思うもの。
現実的じゃないと思われたらおしまいだけれど、真心。
よくね、「純粋」って言うけれどさ、純粋じゃないものって何かしらの純粋さが入り混じって不純になるわけでしょ?


だったら、その気持ちの根本をまさぐってみたら、純粋が出てくるんだと思うのだよね。
純粋にこう思っていて、その思いをどこかにカミングアウトする道のりで色々混ざって不純になる。
根本さぐってったら2つや3つの相反する純粋があることも多いような気がする。


だからね、瞬間的にでも、その根っこの純粋が顔を出す時があって。
私はその瞬間うつくしいなぁ、と思ったりする。


きっと誰でも持っていること。
純粋な面がみえちゃうって奇跡的なことなんじゃないかなぁとね。



でもきっとね。


どんなものだって人だって、見方次第で醜くも美しくもなる。
それは、見る人自身がそれを美しく見ようとするか醜く見ようとするか、っていう事なんだと思う。


だから全ての美しい面だけを見るようにしましょう、なんて言わない。
醜いものと美しいものの判断を、自分でつけて、自分で選んでいくことが、きっと大切なんだろう。
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自殺の善悪

善も悪もないと思うのだけれど。
自殺は自殺。
自分で命を絶つ事の良し悪しなど、一概に決められない。


非常に自分勝手な行動だとは思う。けれど。
自分勝手さを引き留める誰かの存在、何かの存在が見つけられなかった人に対して何かを言う事が出来るだろうか。


それは、自分のせいでそうなるものでもないと思うからだ。
なんだかんだ、一生懸命生きていない人などいなくて、なんだかんだそれなりにそれなりの重たさを抱えている、と、思う。


だから。


世の中は不公平だから。
ある人のところには当たり前にあるものが自分にはないなぁって悲観する事も確かにあるけれど。


その悲観の大きさは、きっと他の誰にも測り知ることができない。
ただ、自分が、大切な大切な繋がりがあるな、って実感出来る事。
それこそが自殺するって事から掬いあげる方法なのかなと思ったりする。


自殺の善悪は問わないけれど、
自殺はやっぱり、残される側からするととっても悲しい悔しい出来事だったりするわけです。


生きる という本脳を凌駕するほどの気持ちを、ひとりで抱える事。
自殺をしたからと、自殺した当人を責める事は私には出来ない。
そして、「自殺すればいいや」という気持ちで辛うじて世界と繋がっている人も、少なからずいるんだろうなと思ったりすると、簡単に善悪つける事は出来ないのだ。


自殺、は、ただひとつの事実。
その事実に付随する様々な解釈や感情は、自殺そのものとは関係がないもの。


自分で命を絶つ事も、事故や病気で亡くなる事も、殺されてしまうことも。
ただ、ひとつの事実。
それは、そこにあった命がなくなる、という事実。
意思を持って生命活動をしていた肉体が、抜け殻になる、という事実。


それだけなのじゃないかなぁ。
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知性

お勉強が出来る出来ないではなく。
物事を考えられる人。
知識を沢山持っているのではなく。
その知識の使い方を知っている人。


人が社会で生きていくうえで大切なもの、こと、そういうことをわかっている。


振舞える。


人の気持ちやこころがわかる。
あたまとココロでわかる。


どっちも大切と知っている。
がんばりどころを知っている。


経験から得た知恵。
辞書や本に書いてあるうすっぺらな知恵ではない。



それが、知性。
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幸福論

幸せってのは状態でなく感情だよね。


どうあれともあれ、「幸せだなぁ」と感じた時、幸福なのだよね。
どこをどう幸せと思うかは人それぞれだから、どれが幸せなのか分からないね。
人間に産まれた事を不幸だと思う人がいる。
人間に生まれた事を幸福だと思う人がいる。
死ぬという事が怖くて仕方がない人たちがいる。
死ぬという事を恐れない人たちがいる。
死ぬという事を望む人たちがいる。


しかし私たちが生きているのも人間であるのもこうしてパソコンを操って文章を書いたりしているのも、ただの事実の羅列であって、それに付随する色々な感覚は解釈にすぎない。


私が貴方を観て不幸だと思うのも。
私が貴方を観て幸せなんだなと思うのも。
解釈にすぎない。


私が不幸だと思う貴方の状態が、貴方にとって幸福である場合もある。
逆もまた然り。


状態ではなく、感情だとすれば、私たちはずっと幸せでいる事も出来るし、
ずっと不幸でいる事も出来る。


それは、不幸と幸福の捉え方の問題。


不幸だな不幸だなと思い続けていたくないので私は出来るだけ幸せだな幸せだなと思える思考回路で生きている。
力入れないでー幸せだなーって。


思えるのが一番いいんですけれどもね。とほほ。
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生きる糧

私はひとりでは生きていけない人間だ。
弱いのかもしれない。強いのかもしれない。


糾う(あざなう)。


人と人とはこうやって生きて行くものだと思っている。
強く弱く、きつくゆるく、人と人との間をあざなっていく絆。


縄のように、それは時に束縛し、時に安らぎを与えてくれるもの。


この、絆という縄でよりあつまって繋がっている、それが私にはとても大切。
それがあるから、私は生きている。
生かされている。


自分という個を確立しながらも、繋がっている絆を大切にすること。
依存と少し寄りかかりあう塩梅の差がここなのじゃないかなと思う。


さて。生きる糧。


私にとって、生きる糧とは、やはり私を大切に思ってくれる、必要と思ってくれる、私に影響を与えてくれる、私が影響を与えてる、そういう人たちなのではないかな。
それが全くなくなった時、私はきっと、生きる事に前向きに取り組めなくなる。


それは、この数ヶ月間でとってもよく分かった事。


書く事も必要。書く事が出来なくなったら私は、本当に辛くてしんどい思いをするだろう。
でも。私の周りにいる人たちが、全て残らず消えてしまったら、私は私でいられなくなると思うから。


自分を認識するということは、他者が居て初めて出来ることだから。


自分を確立するためにも、私には必要なんだな。私の生きる糧は、私の周りの人たち。


周りに居てくれる、私の近くにいてくれる全ての人たちに。
ありがとう。
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人生

道。
ずっとずっと歩いていく、一本の道。
でも、先の見えない道。


自分の歩きだす一歩が、道になっていく、道。


人生はすごろくだ。とは、「疾走(重松清)」の中にたびたび出てくる言葉だけれど。
一瞬一瞬踏み出す時に、その先の可能性はくるくるめまぐるしく変わって行くもの。
自分の道を振り返った時、その道はどうかな。
誇れる道を歩いてるかな。
踏み出した一歩一歩の、その連続の一本道を、私は出来ればずっと、肯定し続けてあげたいと思う。


これが私の精一杯のしるしだ、と。


だってきっと、どんな選択をしてここに立っていようと、私はその時々、至極真面目に選んだものだから。


そうやって、私は今までもこれからも生きて行く。
そうやって辿ったしるしがきっと、人生なんだろうなぁ。


どれだけ挫けそうになっても。
自分だけは、自分の事を認めてあげたい。死ぬまで。
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正義と悪

あるのかなーあるのかなーそんなものあるのかなー。
正義の味方が嫌いです。


正義の味方というけれど。
誰にとっての正義の味方なんだと思ってしまう。
ウルトラマンなんかさ、地球の人じゃないのに地球の人間の味方なわけですよね。
なんとも言えない居心地の悪さを感じる。


結局自分の益になるものが正義で、損につながるものが悪だというのなら。
それはエゴ。


どの立場にも属さず、どの立場にも属するものがあって、それに従ったルールがあるとするなら、それが善や悪の定義なんだろう。


でも。


そんなものは見たことがないし、聞いた事もない。
私は私の中に、悪と善のボーダーがあるけれど、それは私のボーダーでしかない。
許せない事は、人によって違う。
私にとって、許せない悪であっても、他の誰かには必要なものかもしれない。
私にとっての悪とあなたにとっての正義がぶつかる事だって、ある。


そして、世界はきっとそういうものだ。


お互いが相容れない。だから、正義も悪も、そんなものはない、と、思うのだ。
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才能

才能ってものは、本当にあるんだなぁ。
得手不得手ってあるけれど。
本当に才能っていうものを持って生まれて来る人っているんだなぁ。


こうなりたい、と思って、偶然その才能を持って生まれて来た人は幸せなんだろう。
でもね。才能ってなんかしら持ってると思う。誰でも。
才能とこうなりたい意思が結婚すると、「天才」が生まれるんだろうなぁ。


うまいこと合致する人もそう沢山いない気がする。


才能のある人、というものを目の当たりにしたことがあって。
ああ、これじゃかなわない。私には無理だ。
と、心を折った経験がある。


心を折った私の意思の弱さこそが、才能の限界だったのかもしれない。
だから私は、文章でご飯を食べていく事を諦めた。


「才能とは、夢見続けるちから」


と、言った人がいる。


夢を見続けていられるのも才能のひとつ。
それは、だって、夢を現実に変えるちから。


ゆめみつづけるちから。
私はいま、夢を持っている。
それは具体的な夢ではない。
ただただ、こうありたいという夢がある。それは、目標と言い替えてもいいかもしれない。
今は夢であるそれを、現実に変えるために、毎日なんとか踏ん張っている。


いつもいつも、志半ばで夢を諦めてきたこらえ性のない私が、この夢を現実に変えることができるのかはわからないけれど。
確実に、今までの自分ならとっくに諦めている範囲を超えて、私はまだ夢見続けている。


さあて、私にその道の才能はあるのかしら。


自分が、心底素敵だなぁと思えるような、人間になる、ための才能。
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学ぶということ

これがなくなったら生きている意味がないと思うのね。
人も動物も植物もきっと学び続けて生きている。
学んで得た結果があって、成長していくものだと思うから。


それこそ、死ぬまで。


成長は進化に繋がり、それぞれ次に繋がっていく。
私達が今こうして、死なないように頑張らなくても生きていける生活が出来るのも。
飢える、とか、食べるものがない、とか、そういう事を考えずに暮らしていけることが。
結果、環境汚染やら色々な付属品はついてくるけれど。


それも今まで人という生物が学習して得た結果なわけです。
人は間違ったことをしたか。
間違ったことなどしていない。
自然が少なくなった、などと言うけれど、自然の対照に人工を持って来る事自体傲慢じゃないの?って思ったりする。



話がそれたけれど。



だからね、学ぶっていう事は大切なんです。
それは、生きていくための知恵。
今をよりよく生きていくための。
明日はもっとよく生きるための。
この学びは、ここで終わり、っていう終わりがないから。底なしだから。
私たちはきっと、幾世代もの間学び続け、幾世代も先もやっぱり学び続けているんだろうな。


学んで解ることって本来楽しい事。
理解することって楽しい事。
学ぶという事においては、出来る事なら死ぬまで貪欲でありたいなと思っています。
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芸術

芸術ですって。
実は芸術ってよく判らない。


音楽を聴く事は芸術?


クラシック?


ポップス?


ロック?


音楽の中にも様々なジャンルがある。芸術と芸能、娯楽の境界線ってどこだろう。


芸術とはよいものである、ならば。
私は自分が好んで聴く曲、全てがよいものである、と言うだろう。


一般に受け入れられやすいから芸能、娯楽?
理解されづらいから、芸術?


よいものはよいのだ。


とは言え。


そうなかなか言いきれるものでもないですよね。
人には好みがあって、全員の好みがぴったり一致することってないんじゃないでしょうか。


歌に例えたけれど。


映画だって演劇だって絵画だって同じだと思うの。
私が好きなものは、好き。私にとっていいもの。
それが例え、芸術だろうとそうでなかろうと、本当は関係がない。


表現したい人がいて、その表現を鑑賞したい人がいる。
それで何かを感じ取れる。


それでいいのじゃないかな。


お金になる、ならないということと、表現するということは、イコールでは繋がらないけれど。
どうであっても、表現する人がいる限り、それは芸術なのではないかなと思ったりします。
いいなと思う人がそれを支持する。


そういうものだと。
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普通

普通、という基準はどこにあるのだろう。
けれど、皆使う言葉。


思うに。


自分を基準とした、許容範囲のわっかみたいなものがあるんじゃないのかな。
許容範囲内、その、わっかの内側がその人にとっての、「普通」だと。


わっかの広さもわっかの形もきっと人それぞれで、その中心となる人そのものの立ち位置も皆違う。
わっかとわっかの重なり合うところ。大勢の人の許容範囲の内側、となるところ。
それを普通と呼ぶのかな。便宜上。


けれど、そこにかからない許容範囲を持っている人も、必ずいるわけで。
だとすると、「普通」という言葉で色々なものを括ってしまうのは、至極乱暴で危険な事になりはしないか、と、思うのです。


まず。


私はその人の持つ「普通」をさぐることから、コミュニケーションを始めたりする。
そういう風にしていくと、この世に普通じゃないことなんてないんだな、と思う。
逆に言えば、普通なんてものもないんだなぁ、と。


「普通」と、便宜上使うのは構わないと思う。
けれど、「普通」なんていう概念を頭の中に常に置いてある人は、なんて詰まらない、なんて面白い事を見逃して生きてるんだろう、と思う。


もったいないよね。世の中には、すごーーーーーく沢山の価値観があるんだからさ。
それを噛み砕いて自分の中で納得させることなく、突っぱねるのはもったいない。


いろーんなものを吸収して、取捨選択をして、自分のわっかを広げることは、結構楽しい。
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友達とは

便利な言葉ランキングがあったら絶対にベスト5に入ってそうな単語。


「友達」


友達とは なんて定義、広すぎるが故に人によって様々な、実に様々な定義があるのだろう。


私の定義は、おそらく非常にハードル高い、と思う。
それだけ臆病者だということなんだろうな。


私にロックオンされちゃったお友達、ごめんなさい。
運の尽きだと思って付き合ってください。


友達関係を続けていくのって、楽ではないと思う。
楽しいだけ、何も考えないだけの関係ならば、それはお友達づきあいとは言えないよなぁ、と思うのだ。


しんどくて面倒で、どうしてそういう関係を望むの?と聞かれる事もよくあるけれど。
そうやって自分以外の誰かを深く知っていく、深く絡みあっていく事って、とっても大切な事のような気がするから。





嘘のない関係、隠す事のない関係、理想だし出来るかどうかわからないけれど。
でももしそこまで到達できたらすごい事だよね。
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自由論

自由っていうのはなんだろうな。
社会というルールの中で生きている限り、完全な自由というものは味わえないのだろうな。


一番大事なとこ。


自由になりたいですか?


私は、なりたくない。と、答える。


何かに縛られるという事は、何かに管理されているという事は。
何かに庇護されているということだろう。


それはそれは、とっても孤独なことだろう。
他者が介在したならば、当然その間にルールが生まれるわけだから。
何をしても、誰にも迷惑をかけないで生きていくなんて不可能なことで、
どうやって生きたって、誰かしらに迷惑をかけている。誰だって。


何をしても誰にも迷惑をかけないで生きていくという事は即ち、迷惑のかかるような人が誰もいないということだ。
全く他者と関わることなく生きて行くということだ。


そういう状況を、自由と呼ぶのではないかなと思う。



干渉しあって、束縛し合って生きていけるというのはすごく幸せな事なのじゃないかなと。
そうやって、干渉や束縛の糸で繋がった同士のその繋がり。



昔、私がまだ劇団をやっている頃。
「たこ」というお題でお芝居をつくった。
有志の6人が、10分の持ち時間を自由に使う。ただしテーマは「たこ」


一番の年長で演出家だったメンバーが作ったお芝居がある。
台詞は、家族の日常的な会話だけ。
出演者は8人。
皆、腰を赤い紐で繋がれている。
赤い紐は8本全てが一箇所で繋がっている。


中心から、放射状に伸びた8本の赤い線の先に、それぞれが繋がれている。外を向いて。


自分の台詞を言う時は、必ず前に進む、というルールのみの芝居。
誰かが進めば、必然的にそれに引っ張られる他の7人。


飼い犬の「ワン ワン」という台詞にすら、家族がみんな引っ張られる。


めいめいが散々振り回された後、全員で「あけましておめでとう」


外側を向いていた家族が、初めて中心に向き直る。


とってもとっても幸せな束縛の話だと思ったのだ。
とってもとっても幸せな、不自由の話。


だからこそ、私は、自由なんてなるものじゃないな、と、思うのだ。
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自分を持つ、という事は大切だとよく言う。
間違っていないと私は思う。
他人は他人、自分は自分、という考え方はとても大切だという。
間違っていないと私は思う。


けれど、


私という存在を認識するには、絶対に他者の存在がなければ不可能であって、そう考えると、私という定義は相対的なものなのだな、とも思う。


こういうことをつき詰めていくと詭弁のようになってしまうのだけれど。


他人と比べて自分以外の周囲と比べて、「私」というものの位置づけをするのだから。
他人と自分を比べるな、というのは無茶な話なのだなと思う。


では、他人は他人、自分は自分 という考え方はどういう状態の事を言っているのだろう。


私は極力、おそらくはそのように生活していると思う。
それは、例えば、「Aさんのお家にはお金があって裕福でいいわねぇ」だとか、
「Bさんのお家は家族の仲が悪いらしいよ」だとか、
「Cさん、彼氏が出来てとっても幸せそう」だとか、
「Dさんは大失恋してすごく辛そう」
というような事を見聞きした時に、「ああ、Aさんに比べて私は不幸だわ」だとか、
「Dさんは辛そうね。それに比べれば私は幸せだわ」だとか。
そういう思考を持たない、ということ。


なぜなら、幸せ というものの基準は人それぞれだから。
人と比べて自分の不幸を呪ったところで自分が満たされるわけではなく、
人と比べて自分を幸福だと思い込んだところで、やっぱり自分がなっとくしなければ満たされないから。


けれど、こういう考え方も、あらゆる他者と自分を比較してきた結果だと思うのだ。


けれどそれは木登りで誰が高いところにいて低いところにいるという類の比較ではなく、
平野に好き勝手に咲いている花や草のひとつひとつみたいな類の比較なんだろうなと。


私の比較の主軸は、「私」そのものであって。


できればそれが揺るがないようになりたいなと思う。
けれどそれがそんなに簡単に行くような事ではないのが、痛い。


私は、鏡である。


と、昔思った事があるのだけれど。
最近は、少し考えが変わった。


私は、スポンジである。


もとは真っ白なスポンジは、何かを簡単に吸収する。
洗い流せば簡単に色は落ちる。
落ちるけれど、それは完全ではない。


色々なものを吸収して吸い上げやすい私を、最近の私は自覚しはじめた。
これは、主軸が動きやすいということだ。
そしてきっと、これは相対的な考え方が、まったいらだからこそ起こる事だとも思っている。



それでもまだまだ、随分と動く幅のある、この主軸。


スポンジの私に、取り入れる前にかける高性能のろ過機が欲しいものである。
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考えるということ

私はよく考える。色々考える。
ただ、ゆっくり考える。


つき詰めて考える。
一つの物事から、深く深く掘り下げて考える。


一つの物事からいくつかの道筋が派生する。
枝分かれしていくつかの発見をする。


そうやって、私は生きている。
そうやって、私は私の道をつくる。
それが例え、自分の道を狭くしている場合でも。
そうやって考えて歩いて来た、その方法を、変える事は難しいのかもしれない。


考える事は無駄な事、かもしれない。
考えなければ、もっともっと楽に生きられるのかもしれない。


けれど私はとりとめもなく考える。
何かを見つけた時の喜びを知っているから。
ひとつの結論に至った時、私は喜ぶ。そして、安心する。
その結論は、時が経てばまた変わるかもしれない結論で、
やっぱり私は、その時も考えて考えて考えて、また新たな結論を導き出しながら、歩いていくのだと思う。


考えるちから。


自分の脳味噌と感覚をフル動員して、ひとつの結論を導くちから。


それは、きっと、私にとっては欠かせない事柄のひとつ。
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