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自分を持つ、という事は大切だとよく言う。
間違っていないと私は思う。
他人は他人、自分は自分、という考え方はとても大切だという。
間違っていないと私は思う。


けれど、


私という存在を認識するには、絶対に他者の存在がなければ不可能であって、そう考えると、私という定義は相対的なものなのだな、とも思う。


こういうことをつき詰めていくと詭弁のようになってしまうのだけれど。


他人と比べて自分以外の周囲と比べて、「私」というものの位置づけをするのだから。
他人と自分を比べるな、というのは無茶な話なのだなと思う。


では、他人は他人、自分は自分 という考え方はどういう状態の事を言っているのだろう。


私は極力、おそらくはそのように生活していると思う。
それは、例えば、「Aさんのお家にはお金があって裕福でいいわねぇ」だとか、
「Bさんのお家は家族の仲が悪いらしいよ」だとか、
「Cさん、彼氏が出来てとっても幸せそう」だとか、
「Dさんは大失恋してすごく辛そう」
というような事を見聞きした時に、「ああ、Aさんに比べて私は不幸だわ」だとか、
「Dさんは辛そうね。それに比べれば私は幸せだわ」だとか。
そういう思考を持たない、ということ。


なぜなら、幸せ というものの基準は人それぞれだから。
人と比べて自分の不幸を呪ったところで自分が満たされるわけではなく、
人と比べて自分を幸福だと思い込んだところで、やっぱり自分がなっとくしなければ満たされないから。


けれど、こういう考え方も、あらゆる他者と自分を比較してきた結果だと思うのだ。


けれどそれは木登りで誰が高いところにいて低いところにいるという類の比較ではなく、
平野に好き勝手に咲いている花や草のひとつひとつみたいな類の比較なんだろうなと。


私の比較の主軸は、「私」そのものであって。


できればそれが揺るがないようになりたいなと思う。
けれどそれがそんなに簡単に行くような事ではないのが、痛い。


私は、鏡である。


と、昔思った事があるのだけれど。
最近は、少し考えが変わった。


私は、スポンジである。


もとは真っ白なスポンジは、何かを簡単に吸収する。
洗い流せば簡単に色は落ちる。
落ちるけれど、それは完全ではない。


色々なものを吸収して吸い上げやすい私を、最近の私は自覚しはじめた。
これは、主軸が動きやすいということだ。
そしてきっと、これは相対的な考え方が、まったいらだからこそ起こる事だとも思っている。



それでもまだまだ、随分と動く幅のある、この主軸。


スポンジの私に、取り入れる前にかける高性能のろ過機が欲しいものである。
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