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同情

同情と言う言葉が好きではない。

私は、偽善が嫌い。
全ての人間関係に於いて、出来るだけ対等でありたいと思っている。
たとえそれが親子の間柄であったとしても。

同情というのは、偽善の皮を被った優越感である。
同情と同調はまったく違うもので、共感するということと、
同情するということもまったく違うことである。

たとえば、
障害を持つ人を見た時に、うちの祖母はよく、
「悪いことをしてるとああいう人になっちゃうよ」
と、私たちを叱っていた。
反吐が出るような言葉である。
でも逆に、障害を持つ人を見た時に、
「ああ、あの人かわいそうに…ああいう人を助けてあげましょう」
と、子供を諭すのはもっともっと嫌いだ。

誰かを見て、「ああかわいそうに」っていう思いを持つのは、
その誰かよりも自分のほうが勝っていると思うからだ。
それは優越感以外の何者でもない。
「かわいそうに」という気持ちで一般的に言われるいいことをして、
「ああ、自分はいい事をした」と思う…
これは自己満足以外の何者でもない。
そしてこれは、偽善だと私は思う。

だから私は、同情されたくもないし、同情したくもない。
それは、相手に対して失礼だと思うからだ。
同じ人として、私は人を尊重したい。

本当に相手のためになることは、本当に相手の気持ちを思いやること。
そういう姿勢があれば「かわいそう」
なんて言葉は絶対に出てこない。
同情なんて絶対にしない。

似たような言葉で「がんばって」があるのだが、
これも便利な言葉だが、ある種の「がんばって」には、
この「かわいそう」と、非常によく似た匂いがする。

友達や親しい人が苦しんでいたり、つらい思いをしているとき、
だからこそ、言葉に詰まってしまう。
どんな言葉を並べても、うそ臭くなってしまうのだ。
こういうときほど言葉の無力を思い知らされるときはない。

同情を買って、それで満足する人が時々いるが、そう言う人には、
「自分を貶めて何が楽しいのか」と、感じてしまう。
そう言う人にそれを言っても通じないので、そっとしておいて、
私はこっそりと「かわいそうな人」と思うのである。
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