グループと個人
私は、ひとつ同じところに留まっている事の出来ない人間だ。
小学校の終わりごろ、クラスの男子ほぼ全員からイジメをうけたことがある。
それ以前から、クラスの中でもいるんだかいないんだか、
片隅で大人しくしている、誰からも相手にされないタイプだった。
クラスで目立たなくて、先生にも嫌われていた私は、
それでもあの頃が、一番 素 で生きていたんだと思う。
いじめられるって、とんでもなく辛い。
自分の居場所があるはずの、クラスの教室の中に、
自分の居場所がないのは、本当に辛い。
かといって、いじめられる前から自分の場所がクラスにあったのかと
問われると、それもどうだか怪しいのだが。
もう、もう、本当に今思っても、
あの頃から自分には自信ってものがなかったんだと。
ものすごくブサイクだと思っていたし、
自分が必要な人間とか、そんな事考える事も出来なかった。
居場所がなくても、槍玉に挙げられなければ、
それなりに場所を見つけて生活できるのだが、
いじめられた時に、その場所が全くなくなって、
受け入れられる場所のない辛さを、身に染みて味わった。
それでも小学生は、学校のクラスの教室以外に居場所を求める事が出来ない。
いじめられるほうにも、原因はあると思う。
それは今になればよく分かる。
当時の私は、本当にいじめたくなるような嫌な奴だった
。
それでもいじめられる怖さは充分身に染みつつ。
集団のグループの中に入ろうと努力したのが中学時代。
グループの中にいて、馴れ合いの中で、余所のグループを排除する、
そういう雰囲気には、すぐに嫌気が差した。
それからずっと、一人でいる。
グループに属する事を拒否しながら生きてきた。
自分を殺してまで、居場所を求めなくてもいいじゃないかと思った。
自由は、寂しい。
でも、自分を殺してまで得る居場所なら、いらない。
自分の居場所は、自分でつくろう。
そんなわけで、私はグループが嫌いだ。
ネットでも実生活でも、いつも特定の集団と一緒にいることが出来ない。
息がつまるのだ。
外の空気が吸いたくなるのだ。
新しい風をいれたくなるのだ。
昔恋人に、
「オマエは自由である事こそ、オマエなんだ。
好きになればなるほど、自由にしてあげたいと思い、
好きになればなるほど、束縛したくてどうしようもなくなる。
いっそ、束縛するのなら、この手を放してしまおう、
そう思ってしまう。オマエには、自由でいて欲しい」
といわれまして。
私は、矛盾した2つのものを求めているそうです。
自由と、束縛と。
それでも、人間、この2つ、どちらも求めてしまうのではないでしょうか。
それは私だけではないような気がします。
私は、愛した人にはひとつのものしか望みません。
「一番で、いてね」
あとは何してもかまわない。
浮気したって、どっか遊びにいったって、かまわない。
私という存在が一番大切と、
別格と、思ってくれればそれでいい。
何をしていても、お互いどこで何をしていても、
不安になることのない、絶対の信頼関係が欲しい。
ま、これが一番贅沢なのかもしれません。はい。
これ、一番…贅沢な望みなのかも知れません。はい。
小学校の終わりごろ、クラスの男子ほぼ全員からイジメをうけたことがある。
それ以前から、クラスの中でもいるんだかいないんだか、
片隅で大人しくしている、誰からも相手にされないタイプだった。
クラスで目立たなくて、先生にも嫌われていた私は、
それでもあの頃が、一番 素 で生きていたんだと思う。
いじめられるって、とんでもなく辛い。
自分の居場所があるはずの、クラスの教室の中に、
自分の居場所がないのは、本当に辛い。
かといって、いじめられる前から自分の場所がクラスにあったのかと
問われると、それもどうだか怪しいのだが。
もう、もう、本当に今思っても、
あの頃から自分には自信ってものがなかったんだと。
ものすごくブサイクだと思っていたし、
自分が必要な人間とか、そんな事考える事も出来なかった。
居場所がなくても、槍玉に挙げられなければ、
それなりに場所を見つけて生活できるのだが、
いじめられた時に、その場所が全くなくなって、
受け入れられる場所のない辛さを、身に染みて味わった。
それでも小学生は、学校のクラスの教室以外に居場所を求める事が出来ない。
いじめられるほうにも、原因はあると思う。
それは今になればよく分かる。
当時の私は、本当にいじめたくなるような嫌な奴だった
。
それでもいじめられる怖さは充分身に染みつつ。
集団のグループの中に入ろうと努力したのが中学時代。
グループの中にいて、馴れ合いの中で、余所のグループを排除する、
そういう雰囲気には、すぐに嫌気が差した。
それからずっと、一人でいる。
グループに属する事を拒否しながら生きてきた。
自分を殺してまで、居場所を求めなくてもいいじゃないかと思った。
自由は、寂しい。
でも、自分を殺してまで得る居場所なら、いらない。
自分の居場所は、自分でつくろう。
そんなわけで、私はグループが嫌いだ。
ネットでも実生活でも、いつも特定の集団と一緒にいることが出来ない。
息がつまるのだ。
外の空気が吸いたくなるのだ。
新しい風をいれたくなるのだ。
昔恋人に、
「オマエは自由である事こそ、オマエなんだ。
好きになればなるほど、自由にしてあげたいと思い、
好きになればなるほど、束縛したくてどうしようもなくなる。
いっそ、束縛するのなら、この手を放してしまおう、
そう思ってしまう。オマエには、自由でいて欲しい」
といわれまして。
私は、矛盾した2つのものを求めているそうです。
自由と、束縛と。
それでも、人間、この2つ、どちらも求めてしまうのではないでしょうか。
それは私だけではないような気がします。
私は、愛した人にはひとつのものしか望みません。
「一番で、いてね」
あとは何してもかまわない。
浮気したって、どっか遊びにいったって、かまわない。
私という存在が一番大切と、
別格と、思ってくれればそれでいい。
何をしていても、お互いどこで何をしていても、
不安になることのない、絶対の信頼関係が欲しい。
ま、これが一番贅沢なのかもしれません。はい。
これ、一番…贅沢な望みなのかも知れません。はい。