サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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触り方を訊こうか 触られ方を聞こうか 2014-01-19

だってもう忘れた
あまりに遠くて 遺影
ホレたハレたで
腹は満たぬ
(ドロリーナ・ジルゼ / Cocco)

1ヶ月って早い!
いつの頃からかこの時間の流れの早さを超実感しています。
中の人、まだまだ正月気分抜けきってないんですけれども、もう明日は20日なんですって。
そろそろバレンタインの事とか考えないといけないんじゃないの……?
寒いのは嫌ですが春がくると歳をひとつ取ることになります。それもまた微妙な気分でございます。
ごきげんよう、たいこです。
誕生日が来るのは純粋に嬉しいのですけれどね。
歳は取りたくない気持ちがこの歳になってわかるようになりました。
気持ちは30歳の頃から全然変わってないだけに。大丈夫なのか私?と。
さておき。
土曜日はお芝居を観に行ってきました。
鹿殺し×Coccoという、Coccoがお芝居初主演で鹿殺しがプロデュースしちゃうよーっていう舞台です。
歌いっぱいだろうなあとわくわくしながら観劇。
鹿殺しは脚本と演出が別の劇団です。
演出家は今、海外留学中なので今回は演出が脚本の丸尾丸一郎。
演出家が違うとやっぱり雰囲気って変わるなあ、という印象。
ぱぁっとした派手さが抑え気味な雰囲気でございました。
生演奏がなかったからかもしれない。
Coccoはコレが初舞台のようでしたが、なんだかすごく不思議な雰囲気の演技でございました。
お話はバレエのジゼルを下敷きにしたお話。
大まかなストーリーはジゼルそのままですが、
この作品にはそこに妹、父、母といった主人公の家族が深く関わってきます。
不慮の事故で亡くなった父と妹、仲の良くなかった姉妹、ファザコンとも取れるジルゼの父への愛。
父も母も愛ゆえに主人公を縛ります。
母も父も、主人公のことを案じて、想像して、結論付けて縛るのです。
そして主人公は逃げ場がなくなる。
自分の意思、望みを叶えることができなくなる。
ちょうど、いとうせいこうの想像ラジオを読んでいるところだったのですが、
この作品と想像ラジオはかぶるところが多かったな。
生きている私達は、死んだ人が死んだ時に何を思い、考えたのかは永遠にわからない。
本当は生きていたって死んでいたって、自分以外の人間がある瞬間に何を考えたのかなんて絶対に分からない。
だから私達はどう思ったのだろうと想像をする。
でもその想像は、やっぱり実際とはずれるのです。たぶん。
だからそんな事をしても無駄だよと死者を自分から切り離すのか、
だからこそ考え続けるんだよと死者を自分の一部とするのか。
大切な人が死ぬと悲しい。
それはもう二度と姿を見て、声を聞いて、触れられないから。
本当はもう二度と会うことのない人なんて沢山沢山いるのだけれど、
そういう疎遠になってしまった人たちの誰かが亡くなったと聞いても、私達はそれなりのショックを受ける。
もう二度と見ることが出来ないという事実に、関係の深さの分だけ打ちのめされる。
死者の側からすれば、触れられなくなるのは世界のすべてであって、
今まで自分が当たり前に干渉してきた世界に一切干渉できなくなるわけで。
死者というものの存在があれば、の話です。当然。
そしてジルゼの事情には、死者の世界(厳密に言うとあの世とこの世のはざま)がある。
行くべきところに行かず、無理にその場にとどまる理由はあまりに生きているうちにやり残したことが多いから。
なんというか、それは圧倒的な孤独だと思うのです。
生きている人は大切な人を亡くせば、自分にとってのその人の大きさだけの空白が出来る。
その大きさだけ孤独を抱える。
長く生きれば生きるだけ、その空白は大きくなっていくのです。
孤独だねえ。。
これは、もう二度と会わないと決心した別れでも同じだと思う。
では、こうしてネットの世界だけで心を通わせた相手だとどうなるのだろう。
この世界での関わりは、真実でもありフェイクでもある。
ほんとうのすがた、その人となりを把握するには生身での関わりが必要だと私は思っている。
なんだかそんな事を考えてたら、孤独の穴の中にするりと落ちてしまったのでした。
いかんなあ。


冒頭の曲は芝居の中で最後にCoccoが歌っていたもの。
聞いていてぼろぼろ泣いてしまった曲であり、音楽ってのはやっぱすげえなと思ったのでした。


想像ラジオ、ちょこっと上の方で書いたけれどすごく良い小説でした。
東北の大震災で亡くなった人がDJアークとして放送するラジオ。死者にしか届かないラジオ。
でもどうしても、生きている自分の大切な人に届けたい言葉たち。
生者と死者の間に横たわる、深くて長い三途の川の断絶がかなしくてかなしくて仕方がない。
しかし、悲しみは間違いなく生きている私達を前に歩ませる力を持っている。
その、悲しみパワーを後ろ向きに使うのか、前向きに使うのかは使う人次第でもある。
そういえば私達は、ポジティブになれ、前向きになれ、ネガティブな事は考えるなと言われがちです。
けれど、本当にネガティブな事は不要なのだろうかね。
光が当たれば影が生まれて、めいっぱいの希望を持てばその分だけ不安がつきまとう。
それはどうしたって打ち消せないものだし、だとしたら本当はあるものをなかったことにして振る舞ってるっていうことになる。
なかったことにされた影の部分は一体どうなるの?
なかったことになんてならないのなら、きちんと影と向き合ってそれを慰めるような事があってよくないはずがない。
もう今はない、触れることも出来ない、そういうものを惜しんで惜しんで悲しむ気持ちは、
絶対に必要がないものではないと思うのです。
小説の中に、想像ラジオを聞きたくて聞きたくてなかなか聞けなかったSさんという人物が出てくるのですが、
この人が恋人と交わしている会話。

「会いたいね」
「いつ会えるかな」
「今はまだちょっとわからないな」
「会いたい?」
「うん、会いたい」
「じゃあね」
「うん、またね」

あちらとこちらで交わす、このなんとも切ない会話におもいっきりやられたのでした。

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