サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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感情発火装置 単3電池が2個 2013-09-12

完結されない恋のゲーム
今、目の前に
ボタンが一つ
(ボタンが一つ / ゆらゆら帝国)

カラカラした感じが好きです。
気づけば9月も1/3を過ぎてしまって、おひさまさえなければ肌に感じる温度はすっかり秋でございます。
秋に運動会!っていう学校は今運動会の準備真っ盛りなのではないでしょうか。
運動するにはいい気候なのでしょうね。
大掃除みたいなことをするにも、この季節が一番いいような気がしています。
衣替えと大掃除。今年の秋の二大懸念事案でございます。
いい加減洋服を半分くらいに減らさねばどうにもならない我が家なのです。
あと、狭いうえに少ない収納がことごとく隙間だらけなのも問題であって、そういう事を少しずつやっていかねばなあ。と思っているのですがさてどうなることやら。。。
ごきげんよう、たいこです。
今日は有休をとってお芝居を観て来ました。
久しぶりの松尾スズキ。初演は1997年というからぎりぎり結婚したかしてないかの頃ですね。
ちょうど芝居から離れた頃合いで、シアタートップスという劇場の名前がとっても懐かしい。
もうないのですよね。シアタートップス。
今日行ったのは本多劇場。こちらも下北沢の再開発がらみでなくなるとかなくならないとか。
ちょっと信じたくないです。こちらも本当に好きな劇場で、いいお芝居をたくさんたくさん上演してきた劇場です。
来月行く青山円形劇場も青山劇場とならんで、なくなることが決まっています。
青山劇場にはあまり縁がないのですが(あそこは商業演劇が多いのよね。。。)、
こどもの城のなかにある青山円形劇場は、本当に本当に好きな劇場なのです。
今、存続を求めて有志の人たちが頑張って活動されています。
出来れば円形劇場はなくしてほしくないのです。だって都内に円形劇場なんて他にないよね?
円形劇場だからこそ出来る公演、表現、一体感って絶対にあるのです。
やだなあ。
と、話がそれた。
本多劇場で松尾スズキの話です。
4人芝居で2時間10分。いやー堪能してきました。
三宅弘城がどんな感じで松尾スズキ作品をやるのか、わくわくしていたんですが。
なかなか頑張ってた!よかった!
賀来なんたら君全然違和感なく観れました。なんだか若い俳優さんなのですねえ。うまい。
平岩紙、いい感じに温度低い感じで演じられていました。
温度の低さは広岡由里子も然り。この人は2役演じているのだけれど、ハマり役だなあ。と。
漫才師の話なので会話が延々とギャグ。
松尾スズキの作品はいつでも喜劇要素が入っているのだけれど、それとはまた別のところでのギャグが多め。
それはなんだかすごく新鮮な感じがいたしました。
どうしようもない悲劇こそが喜劇っていう描き方をする作家さんなので、
今回もどろどろのぐちゃぐちゃ。のっぴきならない感じで、「笑うしかない」っていう状況のなか、
悲劇と喜劇が同居するあの感じが私はとても好きです。
異母兄弟で同級生、子供の頃は本妻の子どもがいじめられっ子。
おとなになったらその立場が逆転している、そういう感じ。
あと、本妻の子どもは父に似ず、妾の子どもは父にそっくり。
それ故本妻はこの子どもを大事に思っている、というすごくすごく込み入った事情。
この危うい状況でも安定したバランスを保っていた彼らの中に、本妻の子どもの嫁という人物が登場する。
この嫁が、この危ういバランスを全部ぐっちゃぐっちゃにしてしまうわけです。
お芝居のタイトルになっている「悪霊」は、登場こそしないけれどものすごくこの人間関係に影響を与えている人物。悪霊と井上は、登場しないからこそ気持ちの悪い威圧感をもってこのお話の中に居座る。
松尾さんの作品らしい素敵なお芝居でした。


SLのお話。
日曜日くらいに箱庭SIMがリニューアルしてオープンしました。
今まではMiniascapeというホームステッドSIMでしたが、
フルリージョンにお引越しして、SIM名も「Hakoniwa」に変わりました。
お月見をテーマに一部分、私もちょこちょこっとものを置かせてもらっています。
月=かぐや姫 というわけで、ちょっと竹取物語的な空間になっています。
色々と足りなくて竹林のある山の頂上みたいな風情ですが、遊びに来ていただけると幸い。
詳細はきっと箱庭ブログに。
お散歩がてら秋の雰囲気を満喫してってくださいね。
余裕があったらちょっとしたおみやげを置こうと思ってたんだけどちょっと間に合わんかった。。。(´・ω・`)
しかし、竹取物語なのになんだか若干ホラーっぽくなったのよな。。。
なんで私が作るとこうなる。。。

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カテゴリー: 日記

教室の少女コッソリと ドロシーと呼ぶ中2病の少年が見るような夢さ 2013-09-10

叫んだし 笑ったし 涙した みんなで
踊ったし 回ったし 飛び跳ねた 全員で
歌ったし 歌ったし みんな声合わせて
アンコール ラストソング
あぁ 本当だ夢のよう

(中二病の神ドロシー / 筋肉少女帯)

25年追っかけてたバンドが実は幻でしたよ、という曲。
筋肉少女帯、結成して25年らしいです。それでこんな曲作ったと。
中二病っていう言葉をそのまま使っちゃうあたりが大槻さんらしい気がします。
ごきげんよう、たいこです。
最近優しさとかが色々足りてない気がします。
もう少し柔らかくいられたらいいなあって思うのだけれど、
なんだかゴツゴツした面がいっぱい出てきちゃって自分でもいかんともしがたい。
そしてもっぱら虚構の世界に逃げ込みまくりです。
なんかもうめんどくさいことが目白押しで考える事すら拒否りたい。
で、なんでこういうタイミングでわざわざ思い出したりしなくていいようなめんどくさい事について語る機会が出来たりするのでしょう。という。
もう過ぎ去った過去、その結果としての現在。
今あるその現在の形が、本当にこれでよかったの?って考えちゃったりするようなこともあったりなかったり。
弱ってくると人と関わる事が本当に億劫になるのですが、人と関わらなければ生きていくことは出来ず、
そして当の自分もかなりの寂しがりでひとりきりではいられないという、結局一番面倒くさいのは自分自身。
切り離せない縁のある自分以外の人たちや、もう消せない思い出すと胃がムズムズするような過去の過ちやら何やら。
そういうものは歳をとれば取っただけ増えていって減ることはないのだなあと思う。
私は過去のことは過去のことで、綺麗サッパリ水に流す方式でもって生きています。
過去に結構な傷を負わされたり迷惑をかけられたりしても、喉元すぎれば結構普通に接することが出来ます。
しかし自分が傷つけたなとか迷惑をかけたなとか怒らせたなという相手にはなかなかそれが出来なかったりします。
それでもう二度と関わることがなくなった人たちのことなどを考えると、いたたまれなくなったりするのです。
振り返っても仕方がないけれど忘れることも出来ない。
そういうものを閉じ込めて見なかったことにするのも必要なことなのでしょうけれど、
ふっと湧いて出てきてしまったらたまにはそのどんよりした気分にどっぷり浸かるのもアリかなあ、、、、
なんてことを最近考えています。なぜなら秋だから。
ゲームでも小説でも映画でも、本当に手に入れるべきもの、手に入れたいものはなかなか手に入らないし相応の苦労をしなければたどり着けない。
これって現実でもそうなんじゃないかなって思う。
そして現実は虚構の世界の予定調和なんてないものだから、辿りつけなかったり手に入れられなかったりすることも多々あるのだよなあ。
ここ数ヶ月私が直面しているのは、そんなような種類の漠然とした不安だったりします。
私が今、喉から手が出るほど欲しいものは、もしかしたら一生手に入らないのじゃないかという不安。
それを考えると叫びたくなるくらい怖いのですけれど。
ただそんな不安ばかりを声高に叫んでいても仕方がないし現実は変わらない。
できるところから手をつけていくしかない、のかもしれない。
それがたとえ雲をつかむような話であったとしても。
いい加減気持ちの方向転換したいんですけれどもねえ。
ムリに転換してもろくなことがないので、しばらく流れるに任せるしかないのですけれどね。
見事なばかりの秋効果。
よくもまあこれだけネガティブな方向に傾いていられると、自分でも少々呆れモードでございます。
面倒くさいことは嫌いだ。
そして私にとって世界で一番めんどくさい存在なのが自分自身だっていう、
このどうしようもない感じはそのうちどうにかなるのでしょうか。
渦中にいるときは出口の位置も入り口の位置もわからない。
明日出口につくかもしれないし、10年後かもしれない。
そういう、色々とはっきりしない感じがまたこれ、いたたまれなかったりするのです。
早く出口につかないかなあ。

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カテゴリー: 日記

ジョン・トラボルタの名の元に 君は踊る殺人鬼となる 2013-09-05

光るステンレスの棒状は
神父さんの胸を刺し通し
おまけに地上の蟲も串刺しにして
土に埋まって
多分 モグラの脳髄も破壊したのだ
僕の大好きな弟はそうして
落ちた天使になったんだ
安っぽいイメージになって
僕の天使になったんだ
(散文詩の朗読 / 大槻ケンヂ)

八つ墓村の格好をしようとしたけれどサタデーナイトフィーバーの衣装しかなく、
ジョン・トラボルタの名のもとに踊る殺人鬼となる18歳みたいな。
ごきげんよう、たいこです。
週末はひたすら本を読んで過ごしました。
八雲面白かった。エンタメエンタメ。ひたすら楽しいという小説です。
ただただ続きが気になる……というだけで9冊読んでしまいました。
そういうことをしている時間はない気がするのですが、自分でもわかりやすいくらいの現実逃避。
いいんです。たまにこういう時があったって。
というわけでRL方面では次々と片付けるべき問題が降って湧いておりまして。
特に何もしなくても大きな問題ではない。
しかし、自分ができるだけ楽しく暮らすためには必死にならねばいけない。
なんかそういうようなこと。
わがままかなあとか、勝手かなあとか、そういう事をひたすら考えて考えて来た事柄について。
それでも自分の欲求は押し通すしかないって事はあるのです。
誰かのせいにしてしまわないために。
自分が楽しくなかったり幸せじゃないと感じたりしている原因を、自分以外の誰かのせいにすることだけはしたくない。さらに言うとその満たされていない自分自身を「自分はもうこれでいいんだ」って諦めるようなことはもっとしたくない。
幸福追求の権利、といいますが、これは生きていく上では義務のようなものだと思う。
誰だって、とことんまで突き詰めて考えたら幸せになりたいものだと思うのです。
こういう理由がある、こういうどうにもならないものがある。だから無理。
っていうのは、それを突破するのが大変で嫌だから。
そうしたいならするしかないのです。他のだれでもない自分自身の人生は、自分にしか責任が取れない。
逆に考えれば、自分の人生の責任は誰も負ってくれないのです。
誰かのために自分を犠牲にしても、その誰かは自分には何もしてくれないのです。
誰かのために何かしたいと思った時は、それは自分がしたい事なのです。
そう、だから私も自分が本当はどうしたいのか、どうなりたいのかを、煩わしさから逃げて観なかったことにしてはいけない。そこだけは目をそらしてはいけない。大きな自分の本筋がずれないように、ぶれないように。
そういう事をここのところよく考えています。
そんなわけで、周りに目いっぱいの迷惑と手間をかけさせつつ、自分の我を通そうと決めたりした週末。
月曜日は子どもの避難訓練で会社をおやすみしたので、火曜日からそのワガママっぷりを発揮いたしました。
わがままをなんとかしようとしてくれる上司などを見ていて、自分はまだここで必要とされているのだなあという実感を得て安心したり、嬉しくなったり。
必要とされていることっていうのは、私にとって、事を起こす上では一番重要な事です。
やる気を出すために必要なこと。
お金がたくさん稼げるのは嬉しいけれど、ないがしろにされるような場所ではすぐにやる気がなくなる。
私がいなくても誰も困らない、他のだれでも代用できる、そういう職場はすぐに飽きてしまう。
あなたが必要だ と言われることが何においてもすごくすごく大事なんだなと実感したりした今週。
お仕事ではその対価はお金ですが、恋愛だとか家族だとかお友達だとか。
そういうつながりのなかでのその対価ってどういうものなのでしょうね。
一方通行では絶対に物事はうまくいかない。
私は私の望むものが欲しい。でも一方的に施してもらうのは嫌だ。
なんだかそんなことを考えています。


さて、明日、というかもう今日ですが、新月です。
乙女座の新月です。
新月は始まりのタイミングです。
切り替わりのタイミングです。
うっかりしていたので忘れていたけれど、こいつが原因か!という大暴れをした気がします。
大暴れはしたけれど、どれもコレも自分の本心。
そういう風に大暴れをすることで、ものすごく疲れたり傷ついたりする人がいることは自覚しているのです。
けれど、それをわかったうえで付き合ってくれている感じはありがたい。奇特なことだとも思う。
そして、最大の脅威はこの方なんじゃないかと常々思っていたりするのでした。
先を見据えつつ今を楽しむ、その行動が合致していなくても、それはそれでよしとする。
そういう柔軟さが欲しいなあ。
しかしど真ん中を一突きしても折れないあの感じ、なんなんでしょう。
ああいう感じは初めてで、だからこそ離れがたいのですけれどもね。
人と付き合うときに、わからないことがあるってとっても大事なんだなあってことを実感しているのでした。
それは好奇心。あとは自分の伸びしろ。そういうところにきっと関係している。

ジョン・トラボルタの名の元に 君は踊る殺人鬼となる はコメントを受け付けていません
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