サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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教室の少女コッソリと ドロシーと呼ぶ中2病の少年が見るような夢さ 2013-09-10

叫んだし 笑ったし 涙した みんなで
踊ったし 回ったし 飛び跳ねた 全員で
歌ったし 歌ったし みんな声合わせて
アンコール ラストソング
あぁ 本当だ夢のよう

(中二病の神ドロシー / 筋肉少女帯)

25年追っかけてたバンドが実は幻でしたよ、という曲。
筋肉少女帯、結成して25年らしいです。それでこんな曲作ったと。
中二病っていう言葉をそのまま使っちゃうあたりが大槻さんらしい気がします。
ごきげんよう、たいこです。
最近優しさとかが色々足りてない気がします。
もう少し柔らかくいられたらいいなあって思うのだけれど、
なんだかゴツゴツした面がいっぱい出てきちゃって自分でもいかんともしがたい。
そしてもっぱら虚構の世界に逃げ込みまくりです。
なんかもうめんどくさいことが目白押しで考える事すら拒否りたい。
で、なんでこういうタイミングでわざわざ思い出したりしなくていいようなめんどくさい事について語る機会が出来たりするのでしょう。という。
もう過ぎ去った過去、その結果としての現在。
今あるその現在の形が、本当にこれでよかったの?って考えちゃったりするようなこともあったりなかったり。
弱ってくると人と関わる事が本当に億劫になるのですが、人と関わらなければ生きていくことは出来ず、
そして当の自分もかなりの寂しがりでひとりきりではいられないという、結局一番面倒くさいのは自分自身。
切り離せない縁のある自分以外の人たちや、もう消せない思い出すと胃がムズムズするような過去の過ちやら何やら。
そういうものは歳をとれば取っただけ増えていって減ることはないのだなあと思う。
私は過去のことは過去のことで、綺麗サッパリ水に流す方式でもって生きています。
過去に結構な傷を負わされたり迷惑をかけられたりしても、喉元すぎれば結構普通に接することが出来ます。
しかし自分が傷つけたなとか迷惑をかけたなとか怒らせたなという相手にはなかなかそれが出来なかったりします。
それでもう二度と関わることがなくなった人たちのことなどを考えると、いたたまれなくなったりするのです。
振り返っても仕方がないけれど忘れることも出来ない。
そういうものを閉じ込めて見なかったことにするのも必要なことなのでしょうけれど、
ふっと湧いて出てきてしまったらたまにはそのどんよりした気分にどっぷり浸かるのもアリかなあ、、、、
なんてことを最近考えています。なぜなら秋だから。
ゲームでも小説でも映画でも、本当に手に入れるべきもの、手に入れたいものはなかなか手に入らないし相応の苦労をしなければたどり着けない。
これって現実でもそうなんじゃないかなって思う。
そして現実は虚構の世界の予定調和なんてないものだから、辿りつけなかったり手に入れられなかったりすることも多々あるのだよなあ。
ここ数ヶ月私が直面しているのは、そんなような種類の漠然とした不安だったりします。
私が今、喉から手が出るほど欲しいものは、もしかしたら一生手に入らないのじゃないかという不安。
それを考えると叫びたくなるくらい怖いのですけれど。
ただそんな不安ばかりを声高に叫んでいても仕方がないし現実は変わらない。
できるところから手をつけていくしかない、のかもしれない。
それがたとえ雲をつかむような話であったとしても。
いい加減気持ちの方向転換したいんですけれどもねえ。
ムリに転換してもろくなことがないので、しばらく流れるに任せるしかないのですけれどね。
見事なばかりの秋効果。
よくもまあこれだけネガティブな方向に傾いていられると、自分でも少々呆れモードでございます。
面倒くさいことは嫌いだ。
そして私にとって世界で一番めんどくさい存在なのが自分自身だっていう、
このどうしようもない感じはそのうちどうにかなるのでしょうか。
渦中にいるときは出口の位置も入り口の位置もわからない。
明日出口につくかもしれないし、10年後かもしれない。
そういう、色々とはっきりしない感じがまたこれ、いたたまれなかったりするのです。
早く出口につかないかなあ。

カテゴリー 日記