サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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あ、それは常に欲しかったものかも あ、けれどそれもちりとなり消えて 2011-09-29

あ、そのかけらは仕舞っていた物
あ、そのかけらを砕くつもり?
望みさえも くだらなくしていくのさ
守る為の手段ならば なんでもいいのに
(未練は思い上がり/Guniw Tools)

水曜日がやぁぁぁぁっと終わったよぉぉぉぉぉぉ。
というわけで、今週はすごく長いです。すでに息切れ中。
私は喫煙者なのですが、普段はアメリカンスピリットのオレンジ色を吸っています。
このオレンジ、3mm。
ここのところ、このオレンジが立て続けに切れておりまして、
カートンで買うことが出来ないのです。
なもんで、黄色をカートンで買ってきました。
吸った感じがまるで変わった気がしない、そんな黄色はニコチン8mm。
なんでこんなに吸った感じが変わらないんだろうこのタバコ。。。
黄色からオレンジに変えた時も全く違和感なく乗り換えた気がする。
ま、いいんです。アメスピ以外のタバコはあんまり美味しくないんだ。
ごきげんよう、たいこです。
皆様お元気でやってらっしゃいますか。
私は今日、何かと「お元気でしたか」と聞かれる1日でした。
人はロボでもない限り、気分での揺れはあると思う。
昨日はいい人だと思ったのになんか今日はすっごい扱いづらい…とかはよくあること。
出来ればそういう浮き沈みは出したくないなと思う反面、仕方がないじゃん。
人間だもの。
責任感。
なんだか立派な人間の必須条件みたいなもん。
私の言動は、たいてい責任感とは無縁のところにあります。
無責任バンザーイ!
私は本当に無責任なのでですね、なんだかんだで思った通りのことをしたいし、
なんだかんだで欲しい物は手に入れてしまうタイプです。
人並みに空気は読む……と思いたいですが、
とってる行動はかなり自分本位です。
自分と家族、自分と友人、自分とインターネット、自分と趣味、自分と仕事。
すべては自分が中心にいなければ成り立たない。
その昔、私は趣味の演劇活動をしておりました。
自分がやりたかったのは演出とか脚本とかだったので、
必然的に自分で趣味の劇団を立ち上げました。
そして実感したこと。
私は集団をまとめられない。
ええ、劇団みたいなものでは致命的な感じでございました。
だって自分で決められないんだもの。色々。
そのくせ気分で動いてしまうんだもの。あれこれ。
うん。若かった。
自分のわがままで劇団員皆が引いてしまうような作品を上演して、
なんだか劇団暮らしが終わりました。
心底思った。
誰かが仕切るところで遊んでる方がずっと楽チン!
まま、今も何人かで集まってお化け屋敷作ったり、
バー作ったり、波野家作ったりしています。
けれどもそこに集団活動みたいな概念はまるでなかったりする。
基本的に、去る者は追わないし来るものも拒みません。
ただ、自分が一歩踏み込みたいと思わなければ来ていただいても踏み込まない。
踏み込まないだけで拒むことはしませんが。
近しい人のことは自分なりに考えて行動するくらいのアレもあります。
でもやっぱりそれだって自分が無理をして、というまでの事はない。
私は無責任ですが、私自身が楽しくないと思ってしまうような事柄の
自分に対しての責任だけは取るつもりでいます。
現状が楽しくとも楽しくなくとも、それは私の責任。
楽しむ・おもしろがるのは自分の責任です。
自分の他の人たちの楽しむ方法、好き嫌いは聞いているのは楽しいけれど。
それを自分と当てはめる事はしないし、私は自分で直接感じた以外の感想を、
参考程度以上に聞き入れることはあまりありません。
人は自分の思惑で色々なことを言います。
私は自分の言葉で誰かが大きな決断をしてしまったりするのが、とっても重たい。
自分にそのつもりがなくてもそうなってしまうことがとてもきつい。
逆もわりとめんどくさい。
なぜなら無責任だから。
自分以外の責任が取れるほど、自分に余裕もなければキャパもない。
だから、自分に関わるもの以外の事にはまるで興味がない。
こういうのは、ドライっていうのか優しいっていうのか、
それはきっとこういう話を聞いた人によってもつ感想は違うんだろうなぁ。

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カテゴリー: 日記

春を待つ人は華求め 静けさの糸ひきちぎる 2011-09-27

儚い事望むまま 花になりたいと ほざいてた君よ
気づいてね 自分本位を
冷たいから生きようとする ネジまかれる
誰もあなた等見ていない 自由に行け
(冬のうぐいす/グニュウ・ツール)

睡眠不足はいろいろなものの敵だ!
昨日は久しぶりにひとりランチでございました。
ひとりランチは嫌いじゃないです。
嫌いじゃないんだが、私は昼ごはんの後に本気モードで寝る日がくるとは思わなかった。
エクセルシオールカフェで5分くらい本気で寝る。意識飛んでびっくりしました。
いやーなんでこんなに疲れてて眠いのでしょう。
それは連休中にリズムが狂ったから。
ごきげんよう、たいこです。
このあたりまで書いて、昨日は眠たさのあまり眠ったようです。
一応ちゃんと下書き保存はされていた。
中身の文章がめちゃくちゃで書きなおしたけれど。
1回ペースを乱すともとに戻すまでにすごく時間がかかるのは、歳のせいなのでしょうか。
まあいい。まあいい。
自分の思うところや感じてるところ、考えることをきちんと相手に伝えるのはなんだかとっても大変。
事実っていうのはすごくシンプルで、例えば大事にしていたコップが割れた、とか。
割れた。もうない。というそれだけが事実。
でも、なぜそのコップが割れてしまったのかという事を考えだすと、
これはもう、無数の解釈ができてしまう。
うまくことばになりませんな。
やっぱり難しい。
私の好みや趣味は、外側から見ると一貫性がないように見える気がします。
自分でも一貫性がないように思える。
好きなものを集めると、なんだかもうごちゃごちゃとして雑多で、なんだかなぁもうなのです。
そもそも私には、一番好きな食べ物もなければ一番好きな作家もいない。
一番好きなアーティストってのも実はない。
一番はその時のコンディションで変わってしまう。
好きな食べ物は?と聞かれたら、私は必ず「おいしいもの」と答えますが、
これは別に受けを狙ってるわけでもなんでもなく、それ以外に答えようがないからこう答えるのです。
一番好きな作家は?っていうのも無理。
好きな作家はたくさんいるし、それぞれに好きなところがあるのだ。
どれが一番だなんてよくわからないのだ。
好きなアーティストも、好きな色も、どれもこれも一番っていうのが私にはない。
こういう系統好きそうだよね、っていうのが当てはまらない事が多い。
「なんでこれが好きでそれも好きになるの?」みたいなことも多い。
なんでって言われても、そう感じてしまうのだから仕方がない。
好きと嫌いはわりとはっきりしているんですけれども。
「つまらないものですが」と、贈り物を差し出すのが日本のお行儀の良さ。
つまらないと思うものを差し上げるって嫌がらせでしかないだろうと思う私の心。
これはいいものだと思って差し上げるものならば、
「これはとてもいいものだと思うよ。」とさし上げたほうがいいと感じる私の感覚。
謙遜ってあんまり好きでない。
謙虚であることは大事かもしれない。
つまらないもの という言葉は、謙遜してお行儀がよいように見えるけれど、
それを贈るという行為からの責任逃れをしているようにも見える。
自分が提供している何かを、軽んじすぎるのはこれ無責任になるのか。
と、考えた昨日の夜。ちょっと反省もした。
何かを作って提供する場合の、提供する側の思惑とそれを受け取る側の思惑はたいていずれる。
提供する側はどこまで受け取る側の事を汲み上げるかって難しい。
でも、提供することと受け取る事は、本来は別々のこと。
別々のことだということをわかりつつ、そのふたつの事柄を考えることは思いやりなのかもしれない。
で、思いやるには自分の提供してるものを軽んじてはいけないんだなぁ。
そのようなことを考えてぐるぐるしながら眠ってしまった昨晩は、
夢など見る余裕もないくらい泥のような睡眠でございました。
一晩明けたら忘れてしまいそう!って思ったけれど、そうでもなかった。
ただ、やっぱり小難しいことを考えていたんだなぁ。まとめるのにすごく時間がかかったよ…!

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カテゴリー: 日記

赤が雪の上に降る 汽車がすでに過ぎ去ってゆく 2011-09-26

あなたのその指に触れることもないまま あたしは引き裂かれるでしょう
それもいい いやそのほうがいい それでこそ美しい
(口裂け女/女王蜂)

連休の最後はずーっと家にいました。
うっかりとしか言えない感じで滞納していた学校の学費とか色々に頭を痛めつつ、
っていうか4ヶ月もまとめないでよっ!(払い忘れてる私が悪い)
っていう逆切れを心の中で起こしつつ、だらだらとすごす日曜日。
先週、やる気のないまま進まなかった仕事のツケが、今週まとめてやってくる予感。
5日も働けばやる気も勘も戻ってくるはず。
そして明日から新しい席でのお仕事なのです。
ずーっと仮がついていたオフィスの色々から、やっと仮がとれます。
3月に被災してから半年とちょっと。うーん。長かった。
半年前がずいぶん昔のことのように感じます、そして、半年前と今とでは働いている環境が丸ごと違います。
震災がなくても変わっていた事柄もたくさん、でも、震災がなかったらこんな風には変わってなかったなと思うこともたくさん。

「世界のおわり」以降(繰り返すが、それは今だ)を生きるための、自分なりの方法を模索しなければならない。
「やりきれない」ことではない。「やりきれない」ならとっくに死んでるよ。こうしてブログなんか書いてる時点で、生きてゆくと宣言したようなものだ。なにより、こんな極めて異常な事態を、この世の終末以降を体験することができてるなんて、なんて儲けものだ、と、ニヤニヤ笑いながら眺める、もう一人の自分を感じずにはおれないのだ。
ケラリーノ・サンドロヴィッチblog 「日々是嫌日」- 終末以降。

この感覚、自覚してるにしろしてないにしろ、皆持っているんじゃないかなー。
あの日以来、何かが決定的に変化してしまって、それはもう戻らないことを皆もう分かってるんじゃないかな。
世界の終りが来ても、なんだか人は生きている。
この感覚は、エヴァンゲリオンのあの世界の空気にちょっと似ている。
常に非常事態な感じのあの妙な緊迫感は、薄れたんではなく皆慣れたんだと思う。
人の順応力ってすごい。これが生きる力なんだな。きっと。
と、わかったようなわからないような事を書きつつ、
ごきげんよう、たいこです。
今日も今日とてPCの前に座りっぱなしでセカンドライフという、
人としてどうなのそれ。みたいな1日を過ごしました。
いいの昨日お外で遊んだから。
カエルの子はカエル、という感じで、子供たちもたいして変わらない1日を過ごしておりました。
ちなみにchoice!の一番欲しい賞品はカエルです。げっとした。わーい。
まーなんだ、色々とバタバタした日ではあったよ。
反面、のんびりとした日でもあったよ。
どっちなんだって話ですが。
どっちも本当なのだから仕方がない。
自分がいる世界はとてもとても小さいものであって、
自分が知り合い得る人々は、人の全体からしたら本当に少なくて、
何でこの世界にはこんなにたくさんの人がいるの?把握できない!って思ったりするのです。
SLを始めて4年以上経ちますけれども、ここにきて新しく知り合う人は、
既存の知り合いの誰かとほぼ間違いなくつながるっていう状況が非常に多くなってきています。
SLが狭いのか、今までの私の交流っぷりが破天荒だったのか。
多分前者。
そんな狭い狭いSLの中でも、さらに狭くカテゴライズされて人々が集団を作っています。
その集団は、狭い狭いSLの中でさらに小さい集団なわけです。
無数にある、少人数の集団。
その集団の中にだけいて、SLすべてを分かった気になっていることは、
そのまま「井の中の蛙大海を知らず」なわけです。
私はライブ派なので、人の目や耳を通った情報はあまり信用しません。
だって伝言ゲームは、大抵最初の人と最後の人のいう事がまるで変わるから。
直接かかわって、そのときに目にしたものや耳にしたものを最優先で信じたい。
出来る限り広い視野でもって、関係を築いていきたい。
ここのところ出会ってはぐくんで来た、いくつかのご縁が、少し岐路を迎え始めた気がします。
私はここでどう振舞うべきなんだろう。どうするのがいいんだろう。
いろんなことを考えました。
すべては楽しく遊ぶため。
楽しいことがすべてで、楽しくないことは悪だと思う。
だから、もっともっと楽しく自分の居心地を整えることは大切なことだと思う。
幸いなことに、5年目を迎えても私のSLライフは楽しいものであります。
もう少しスマートに振舞えりゃーいいんでしょうけれど、
もともとどんくさい人間がいきなりスマートに振舞えるはずもないんだ。
そういう事を色々と考えながら、できるだけボーダーのない居場所がつくれたらいいな。
ボーダーがないということは、なんと難しいことなんだ、というのも実感中。
それでも私はボーダレスに暮らしたい。
それは、SLでもRLでも。
楽しいことは自分で作らなきゃいけない。
だから、SLがつまらなくなったなんて感想を聞くとやりきれないのです。
SLがつまらなくなったのは、自分が楽しい遊び方を見つけられないだけなんじゃないの?と、
少し維持の悪い気持ちが頭をもたげる。
なんだか書いてて自分のRLでの暮らしっぷりをすごい反省したので、
まとまりがないうえによくわからないけれどこの辺で〆て寝ようと思います。

赤が雪の上に降る 汽車がすでに過ぎ去ってゆく はコメントを受け付けていません
カテゴリー: 日記