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#4 月〜裏側

いつものようにいつもの場所に行ったら、先客がいた。そこは僕のいくつかあるお気に入りの場所のひとつだった。自分のお気に入りを不意に奪われると人はどう感じると思う? 僕は不愉快に感じたんだ。

 彼女は僕の席に座ってぼけっと空を眺めていた。なんとなく彼女の視線の先を辿ったら、そこには月があった。平和な子だなぁと思ったよ。何が楽しくて月なんか眺めてるんだろうとね。ただ、その日は満月で月が綺麗だったのは本当のこと。

 隅田川大橋の袂のこの場所は、本当に人がいない。人のいないところで頭を空っぽにしたい時に僕はここに来る。あの日はいい夜だった。彼女がそれを台無しにした気がしたんだ。台無しにされたついでに話しかけてみた。今日の月は綺麗だね、って。そしたら彼女は僕のことを知ってた。びっくりしたよ。でも今日はいい夜だから気にしないことにした。

 彼女は、僕がいつもここに座って月を眺めているんだと思っていた。僕は否定しなかった。彼女の望むままの僕を、僕は彼女の前で見せ続けてきた。楽しかったろう?僕は人に喜んでもらうのが好きだ。僕の周囲の人には笑っていて欲しい。彼女の前でも、僕は完璧に彼女の求めるものを提供してきたつもりでいるよ。ただひとつを除いて。

 彼女は常に僕と居たがった。僕が一番好きで、たいせつにしているのは、周りに誰も居ないひとりの時間だ。それは、彼女の望む僕でいるためには必要不可欠な時間。それだけは彼女の思い通りにならないこと。

 月を愛で、目に映るさまざまなものに自分なりの解釈をつけて意味を見出して接する彼女。彼女には残念なことだけれど、月と僕は何の関係もない。僕と彼女とも、何の関係もない。僕たちは最初から好き勝手にやりたいようにやっていただけだろう。その結果、離れたり近づいたりしたんだろう。きっと彼女に言っても彼女はきょとんとした顔で見返すのだろうね。僕のこと。

 最後の夜。
橋の上から公園を見下ろしてみる。等間隔で整然と植えられた銀杏の木は、一斉に黄色い葉を地面に降らせている。公園の道は、黄色い銀杏の葉で絨毯のようになっている。街頭のまるい灯りが、その黄色を照らしている。川はそこここの灯りを反射してキラキラ波が光ってる。なんていうことのない、ただの景色。彼女はしみじみと眺めている。何を思って眺めているのやら。

 ふと空を観た。彼女が最初に見ていたのと同じ、大きくて丸い月が浮かんでいる。月は綺麗だ。きっと彼女のような人はたくさんいるのだろう。そんな思い入れなんて意にも介せず、月はただぐるぐるとまわって欠けて満ちている。綺麗だ。その冷たさが僕は好きだな、と思った。
 彼女はなかなか動こうとしない。ただ、じっと月を見ている。僕は彼女の気の済むまで、待つ。

 彼女は駅へ向かう。僕は自分の家へ向かう。
別れ道でまた彼女が立ち止まる。彼女がじっと僕を見る。月を見るのと同じ目で。僕も彼女を見る。月を見るように。「じゃ、元気で。」と、僕は言う。彼女の視線を受け止めて、流して、僕はまるで月のように。そして、僕は家路へ向かう。
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