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<< 個性 | text_top | #4 月〜裏側 >>

お月様

 私は今くらいの季節が一番好き。コートを羽織るか羽織らないか迷うくらいの気温。春も好きだけれど、春のこれから暖かくなるという浮かれ気分は、時折鬱陶しい。冬の澄んだ、ぴりっとした空気も嫌いではない。けれどやっぱり、一番好きなのはこの季節。秋。

 隅田川には大きくて綺麗にライトアップされた橋が架かっている。たくさん。私は隅田川大橋をよく歩く。橋の真ん中から永代橋側を向けば、ライトアップされたいくつかの橋を見ることが出来る。青い橋、白い橋、ピンク色の橋。そして海水の混じった川の匂いを嗅ぐ。めいっぱい吸い込む。吐き出す。私は隅田川に架かった橋の上から見る風景が好き。

 隅田川の両脇にある細長い公園に、最初に寄り道したのはいつだったかな。水害対策で作られたその公園は、隅田川の両脇にずっと長く続く遊歩道。橋の上から眺めるだけだった公園に足を踏み入れるきっかけは、そこにあなたがいたから。

 あなたはいつもそのベンチに座っていた。私が橋の上で深呼吸したり川を流れる屋形船の赤い提灯を数えたりビルの看板やマンションの灯りを眺めたりしている間、時折あなたはそこに座っていた。ただ座っていた。

 あなたから見たら、私もただ橋の真ん中でただ立っていたんだろうね。聞いたことはないけれど。私はあなたがいるところから見える景色を見たくなった。だから、橋を降りて公園に向かってみた。

 あんなことを思い立ったのは、やっぱり季節が秋だったからだろうな。そしてたまたまその日はあなたがいなかった。偶然で必然の人との出会いのきっかけは、いつだって人の好奇心から始まる。

 あなたが見ていたのは、月だった。
その日はたまたま満月で、その日の月はとっても大きかった。私は圧倒されて、その月に見入っていたから、あなたが来たことに気づかなかった。あなたが隣に座るまで。

 それから幾度となく、私は月を眺めた。季節が3回転した。いつの間にか、橋の上からの景色は懐かしい景色になっていた。同じようで違う景色。同じようで違う月。同じだけれど、違う月。

 今、私たちは橋を歩いている。真ん中までもうすぐ。私には3年ぶりの、あなたにとっては初めての、橋の上からの景色。どうしても、と、私がお願いをしたから。だから私は初めてあなたと一緒に橋の真ん中からの景色を目に焼き付けに向かっている。

 思い出にはしたくないよ。でも時間は神様よりも偉いから。時間に逆らうことは出来ないから。だからせめて、少しでも長い間覚えていられるように、しっかり目に焼き付けておこう。そのくらいの無駄なあがきはしてもいいよね? まんまるだった月が少しずつ欠けて行って、遠くなったり近くなったりしながら、消えながら、また満ちていって。そんな風に私たちも近づいたり離れたりしたんだきっとね。

 月が結んだ縁ならば、月に逆らわずに行きましょう、なんて。どれもこれも言い訳。でも最後くらい、それでいいじゃない。ねぇ? あなたは黙っている。私はただどうでもいい事を話している。ただ、手を繋いでなんでもない風を装って、橋の真ん中から月を眺めてみる。

 綺麗だなぁ。今日は満月で、月はとてもとても大きい。最初のお月様とそっくりな顔をした、今日の月。最後の月。

 立ち止まって見蕩れる。月に見蕩れる。あなたは初めて口を開く。「きれいだなぁ」と。だから私も言う。「きれいだねぇ」と。手は握っている。あなたからの体温を、私の掌が感じている。私は五感をフル動員させて、体中に刻みつける。月のかたちを。川の匂いを。あなたの手の温度を。空気の温度を。その場のその時間を真空パックするみたいに。たくさんのもったいないなぁを胸の中に押し込めて。あなたが私を見る。私は見ない。あなたはまた、月を見る。私は月を見続けている。ごめんね。もうちょっとだけ。

 あなたは3回私を見て、3回目に私はあなたを見た。そして私たちは、手を繋いだまままた歩き出した。ふたりの帰り道が別れるところまで、手を繋いだまま私たちは歩き続けた。

 別れ道で、私たちはまた立ち止まった。私があなたの顔を見る。あなたが私の顔を見る。私はまた、そのすべてを真空パックする。今日の一日を、たいせつにたいせつにしまう。

 「じゃ、元気で」と、あなたが言う。「うん」と、私が言う。そして私はゆっくりと手を離す。あなたは黙っている。私を見ている。私はまた、たくさんのもったいないをぎゅうぎゅう押し込めて、手を振って自分の道を踏み出す。そしてその場に、あなたに、ありがとうをおいていく。

 私は歩きながら空を見た。月は橋の上で見るのと同じ顔をして、空に浮かんでいた。
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