おやすみ ねようよ
ガスの元栓 しめて
明日のことはみんな忘れて
いろいろあるけど
何もこわくはないさ
しょうがないね そんな君のいじけ顔
お陽さま 見えたら
庭で ふとん干して
留守電切ったままで
海へいこうよ
(お陽さま見えたらふとん干して/明和電機)
昔、それはもうひたすら落ち込むばかりの日々を送っていた私に友達が教えてくれた曲。
「眠れないときにコレを聞くと、『あ、寝よう』って思えるよ」と。
その後何度となくこの曲には救われています。
それでもここのところずっと忘れていた曲ではあるのですが、ふと思い出したのは「おやすみ」って何度も何度も言った直後だからでしょう。
挨拶としてのおやすみなさいと、本当にゆっくり休んで欲しいおやすみなさいとは、同じなんだけれどやっぱり違う。
こんな気持になるのは本当に何年ぶりなのでしょう。
大切にして大切にされるやりとりってやっぱりいいなー。こんなに安心感いっぱいで浮かれられるって素晴らしい。
と、脳内完全にお花畑モード全開でございます。
ごきげんよう、たいこです。
今日は桜を観て来ました。
2月からずっとずっと待ち焦がれて来た桜。待ちきれなくて3月早々に身代わりマリーを花見会場にするくらい待ってた桜。東京は金曜日に満開宣言がでまして。
明日はどうやら雨だっていうので行くなら今日だろ!って娘連れて近所の桜並木をお散歩してきました。
花見のお客さんいっぱいだったー。
しかし、去年はたくさん出ていた露店が今年は1つも出ていなくてですね、少し残念な思いをしました。
娘と2人で散歩をすると、普段ゆっくり聞けない彼女の話をじっくり聞けるので私にとっても娘にとっても楽しい時間となります。
1時間半くらいぷらぷらと散策して、満足して帰ってきました。
通り道には娘の通う小学校があり、かつて通っていた保育園があります。
行きも帰りも保育園の前を通るたびに、保育園の思い出話を語る娘を見てちょっと感慨深かったり。
そうかー。もう思い出語るようになったんだなあ。みたいな。
彼女は彼女でしっかりと彼女の人生を生きている。
私と重なる部分は、どんどん少なくなっていく。
それは少しさみしいことではあるけれど、大体喜ばしいことだ。
彼女の話を聞いて、自分がかつて彼女の歳だった頃の気持ちや感覚を思い出して辿ったり。
長男や次男は、私と出かけるよりも友達と出かけるほうが楽しい年頃になってしまいました。
友達と遊んで帰ってきて、楽しそうに友達のことを語る彼らを見ていてもやっぱり自分の中学時代の感覚が戻ってくる。
だいたいいい感じに育っているなあ。と、最近そんな目線で子どもたちを眺めることが多いです。
去年の秋ごろに、自分がどんな人と仲良くなりたいか、一緒に歩いて行きたいか、ってことを考えたりしていて
私は自分のことを大切にしてくれる人がいい、ってその時に初めてはっきりと思いました。
私は誰かとお付き合いするときは、その人のことをたいせつにするのが大前提なのだけれど
相手よりも自分、もっと言えば相手なんてだれでもよくてとにかく自分自分っていう人が案外多いSL。
大切にされたいなあ。とは結構切実に思っていたことではあります。
で、今。なんだかとっても大切にされている気がします。
なんでそんなに。っていう疑問も引っ込む程に大切にされています。
なんだか本当に幸せってやつを噛み締めているわけですが、
これに浮かれすぎてしまうのも怖い!って思っている自分も確かにいる。
ただこれもまたものすごい勢いで消えてっている。
走り出したら止まらないこのイノシシっぷりはなんとか治したい。。。
けれどなかなかそうも行かないだろうなあ。
私が口に出さずにいる、私の望んでいることがポンポンと目の前に提示されていく。
気遣いというより、同じとこを見て同じ事を望んでいるっていう感じが本当に居心地良い。
そんなことを考えています。
ゾディアックを観ました。
殺人事件とその事件に関わる人たちの、サスペンス人間ドラマ。
ロバート・ダウニーJr.がまた、ぴったりの役どころで出ていて良い味を出していました。
犯人探しとその事件に魅入られてしまう主人公の描写が非常にすばらしい。
事件は実在のものをベースにしたそうだけれど、その分物語が人間ドラマのほうに比重かかっている。
登場人物の心理描写も素晴らしく、とてもよいシナリオになっておりました。
ノンフィクションベースの映画にありがちな、
このあとの登場人物のことを紹介するアレ。
主人公が「よき父である。」と紹介されたときは、ほっと胸をなでおろしてしまったよ。
劇中に出てくる主人公家族の気持ちも痛いほどわかる。
心配するのは愛するがゆえ。
奥さんには守らねばならない子どもたちもいて自分たちの生活がある。
そこですれ違う夫婦の感じは身につまされるなあと思ったり。
良い映画でございました。
まだの人は是非。