サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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あれから何が僕らを変えただろう あのとき誰が行き先を知っていただろう 2012-03-27

今は僕も 旅のまだ途中を歩いてる
右手には青い夢と 熱い野心と
少し君は 少しきのうよりも大人びて
穏やかに微笑んでる そんな気がする
人の優しさ僕らは感じてたい
人の痛みは忘れない 忘れたくない
(SOME DAY/澤地 隆)

歌いながら文章を書くのはすごく難しい、っていうか無理だと思いました。
この曲を聴いていた頃は今よりもっともっとずっと時間があったので、
20年以上経った今でもソラで歌えるくらい曲を聴きこんでいるってことがわかりました。
当時から「なんでマルチマックス?なんでチャゲ?」と不思議がられていた私の趣味ですが、
しょうがないじゃない。声が好きだったんだもの。
喋らせるとかなり面白いのにすんごいシャイなのが見え隠れするところも好きだった。
ああ、これ以上書くと痛い子になりそうだからやめておこう。
ごきげんよう、たいこです。
ちょっとした占いを見せられて、あまりに当たっていて思わず爆笑した夕方。
今日はお星様が綺麗でした。
金星とお月様と木星がぴたっと一直線に並んだ姿は肉眼でもはっきりと見え、
さらにそれなりに長い時間堪能することが出来ました。
写真も撮れたよ!
https://twitpic.com/91j6s0
ぶれてるけど……!
携帯カメラの割にはそれなりに撮れたってことにしておきたい。
星撮るのって難しいよね。
星のぐるぐるは地球のために回っているのではないし、むしろ地球だってぐるぐるの一員であるし、
こんなふうに見えるのはちょっとした偶然の賜物で、そりゃーぐるぐる回り続けてたらこんな日も来るのです。
が、
こんなふうにまじまじと空を見上げることって普段はそうそうない私には、こんなにくっきりお星様が見えて大満足なのでした。
あー、月がきれいだな。月がでっかいな。って思いながら、星のちろちろ燃えているのを見るのは好きです。
あのちろちろがこう、好きです。


あなたつよいよね。と言われるのがあまり好きではありません。
自分では自分の弱いところをよく知っているから。
そして私の物事の判断基準は、自分の中にあるから。
強い・弱いの基準が自分にあるのだから、自分が強いなんてことは大抵の人は思えないと思うのです。
さらに一概に強い・弱いといってもその言葉には様々な意味があるのです。
誰のどの一面を見てどのように強い・弱いと感じるかは、それこそ人の数だけ解釈がある。
パッと見硬くて、ぶつかったら痛そうな人のことを「強い」と呼んだりしがちです。
それは強いのではなく、きっと「ぶつかったら痛そう」なんだと思う。強いって使っちゃうけど。
攻撃は最大のガードなのです。
表層的なところで「食って掛かるぞ」のオーラをまとっている人は、一皮剥いたら非常にセンシティブで柔らかいのかもしれない。
中にあるものが柔らかくて弱いことを知っているから、表面を強固にコーティングしているのかもしれない。
何を言われても動じないような人のことを「強い」と呼びがちです。
でもきっとそれは正しくは「鈍い」ということなのだと思います。
鈍い事に関しても、繊細であるがゆえに気づかないようにしている、目隠し的鈍感ちゃんと、
本当に何も感じない鈍感ちゃんがいると思う。
同じ鈍感でも、前者と後者ではえらく意味合いが変わってきます。
さて、自分の基準で世の中を見渡した時に、弱い人間っていうのはたくさん目につきます。
逆に自分よりずっと強くかっこよく感じる人間もたくさん目につく。
私ならこういうふうに解決出来るな、というようなことで躓いて悩んでいる人もたくさんいる。
些細なことで傷つく気持ちはとてもよくわかるし、私も些細な事で傷つきやすい人間である。
苦労すると人はつよくなる。
つよくならないと生きていけないから強くなる。
これは必要性にかられて発動した強さである。
心に病を抱えて、仕事に行きたくても行けない人。
そんな人を「甘えだ」の一言で片付けてしまうのは、そういう面で甘えなくても大丈夫なくらい強いということ。
確かにそれは甘えなのかもしれない。でも甘えることって悪いことじゃない。
若いうちの苦労は買ってでもしろ、とはよく言いますが、
しなくて済むなら苦労なんてしなくていいとも思う。
苦労はしてもしなくても、考える事で人はきっときちんと成長する。
幼い頃にした苦労なんてろくでもないと思っている。
それは、たしかに自分自身を大人にするけれど、
幼少時代のベタベタに甘え、甘えられていた経験と引換だったりするのだ。
世界中の人たちがにこにこ笑いながらゆったりとした暮らしをしている、そんな世界が夢だ。
苦労だって不幸だって、起こらないに越したことはないのだ。
もしそんな世界が来て、その世界の住民は揃いも揃ってバカばっかりだとしたら、
なんかそれってすごく幸せなことじゃなかろうかと。
何が言いたいかっていうと、弱いとか強いは優劣ではなく、そのものの本質を表すといいうこと。
不毛な悲しさ・怒りは出来れば一切しないで過ごしたい。
どこまでもどこまでも、他人のことをまっすぐ信じられるような世の中だったら、
私は喜んでバカになると思う。
そして人は、死ぬまで成長する生き物だと思う。
心を鍛えて成長することは、死ぬまで可能だ。
きっと少しでも弱いところを鍛えようとする人もいるだろう。
今、こんなに弱い自分であることをよしとしない人だってたくさんいる。
そういう人は成長をするきっかけを自分で作っていける。
でも今現在弱い自分は、今現在の自分にはどうしようもない事。
弱かったな、ダメだったな、と思えるならば、その今現在の弱さごと応援したいなと思うのです。
で、そんな気持ちになることに、「強い」も「弱い」も関係がないのかもしれません。


物事を多角的に見る訓練をしたい。
多角的に物が見えると、何かでテンパった時に自分のテンパりっぷりを自覚できるから。
そういうことで自分自身を落ち着けることができるから。
ここ最近私の頭と心をなやませていた出来事が、今日一応の決着を見せました。
事実は何も動いていない。ただ、自分で答えを見つけただけ。
けれどきっと、この3月に私が思い悩んでいたことはきっと私の無駄にはならない。
そしてつくづく、私は自分が悪いって言われるのがキライなんだなあと自覚した。
自分にとっての発見があるのはいいことだ。うむ。
できるだけ、外からの刺激を受け入れて、それを糧に自分磨き出来たらいいなぁと思う。
今回の一件も、そんな風に自分の心の栄養になってくれたらいいな。

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