サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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どっちを選べど 獣のように生きるしかない 2011-11-22

とぼけてばっかり人生を
猫見たり 犬見たり 善 悪
猫見たり 犬見たり 炎 水
猫見たり 犬見たり WHITE RED
猫見たり 犬見たり LOVE DEATH
(アベルカイン/特撮)

会社ってのはなんであんなに節目が好きなのでしょうね。。って別に好きなわけじゃないのはわかってる。
そんなわけで、1年の上と下。
私の会社はこの時期がその境目なのでございます。
大きな数字は苦手なんだよ。
だのになぜか毎日大きな数字とにらめっこして格闘しています。
明日はいいかんじに勝てるといいのですが。。。
びっくりするくらい眠たくて、日曜日は日付が月曜日に変わる頃に就寝。
だのに今朝は7時に起きられず、気づけば8時。気づけば頭痛。
痛む頭を薬でごまかしごまかし、1時間遅刻して出社したんですけれどもね、
出かける前にぼけっとした頭で、「スカート履こう」って思ったんですよ私。
「じゃあレギンスレギンス…」ってレギンス履いて、なぜかその上にパンツ履いたわけで。
スカートついてるパンツなんだけども。でもパンツじゃん。レギンスいらないじゃん。そういう服じゃん。
レギンス履きっぱなしじゃん!って気づいたのは出社後でした。
自分で自分にびっくりね。
ハイソックスまで履いてるし。真冬かよ!
このボケっぷりの尋常じゃない感じが静かに恐怖で、そして情けないです。
コート裏表で着て出かけてしまったり、シャツ後ろ前に着てしまったり、
なんだかこう、しょっちゅうそういうことがあると本当に怖いです。。。
大丈夫なんだろうか私。
ごきげんよう、たいこです。
日曜日に久しぶりに落ち着いてチャットなどを。
真面目な話をすることが嫌いだっていう事をいう人は結構多めですが、
真面目な話をすることが嫌いなのと、真面目な話ができないのとでは大きく意味が違ってくる。
真面目な話が嫌いな人は別に問題ないけれど、
真面目な話ができない人とは私はなんだかうまく仲良くなれないのです。
私が真面目だから?(投石禁止)
私は自分のとっている行動や人とのつきあいかたが、時々周囲の人の理解を超えることがあるってことを理解しています。
世話を焼きすぎるとか、無理をし過ぎているとか、面倒見がよすぎるとか。
要するに無用心に人を自分の内に入れすぎるってことなんだと思います。
俗に言うずるい人達にいいように使われているように見えている場面があることも、理解しています。
そして自分がその時に関わっている距離の近い人に影響されやすいこともわかってる。
この行動のせいで、幾人かの人に多大な心配をかけたり、やきもきさせたりしていることもうっすら理解しています。
私がいくら「心配しないでくれ」と言っても、それは意味のないこともわかっている。
危ないところにいる人は、みんなそんなことを言うから。
そして、危険な状態にいる人ほど、周囲の意見を聞き入れないから。
そういう人を何人も何度も見てきて、関わってきているからわかる。
実は、2,3年前までは、自分のことを深く理解してくれている人がいないことがとても寂しかったり、
ものすごく距離の近い人間関係が今現在の自分にないことが心細かったりしていました。
私は、30歳になるまでは、人が羨むような、一部の人からは気持ち悪がられるような、ベタっとくっついた人間関係を育んでいました。
あれが依存だったと気づくまでに、3年くらいかかった。
そういうのじゃない人付き合いをしようってリセットしたのが30歳なんですね。
そういうふうに決めた頃に知り合った、大切な友達がいます。
まだ続いています。私は彼女のことを勝手に親友だと思っています。
彼女は私と生きてきた道筋が似ている、けれど考え方や性格、行動はまるで違う人。
だから、彼女が私のことで感じる怒りや何かは、いつだって少し私の気持ちとズレている。
ズレていても、彼女が真剣に私のことを思って、私の代わりに怒ってくれているのを私は知っている。
だから、すごく嬉しかったしありがたかったし、なにより、
「私のかわいいたいこを泣かせるなんて!」
って怒ってくれるところが本当に好きだった。いや、今でも大好きですけれども。
でも最初はね、そのズレがどうしようもなく寂しかったりしたんです。
まるで自分の分身のように共感してくれる人が今、私にはいないってことが。
けれどそういう付き合い方をしたくないって決めたのも自分で、だからこの寂しさは私の甘い部分だなぁ。
なんて事までも考えつつ、その寂しさややりきれなさと戦って、気づけば35歳。
今現在の親友である彼女は、私の言動を理解できないまま、それでも私の行動を否定しない。
理解できない、とは、共感できないというほどの意味です。
「それでもたいちゃんが考えて行動してるんだから、めったなことにはならないだろう」
という、これは私に対する信頼。
一緒になって分身みたいに共感してくれるより、こちらのほうがずっとずっと心強いと気づいたのはつい最近のことです。
今、私にそういうふうに接してくれる人は、件の親友を含めて何人かいて、
実は私の中で、この人たちはものすごく大切な人でもあります。
今、自分で選んで仲良くしている人たちはですね、私にとっていろんな意味で大切な人たち。
得るべきものが沢山ある人たち。
私の人の関わり方は、本当に心配されるようなものだと分かっているのだけれど、
でも実は心配いらないんだよ、ってことをわかってくれている人は、少ない。
それは当然だと思う。
普通はそこまでしないよ、とか、常識的に考えてそれはないよ、とか、
それっていいように利用されてるよね、とか、
そういうレベルの話だったりするから、心配するのも訝しむのも当然だと思っている。
自分というものが、みんなそれぞれの入れ物に入っているとするならば。
私の入れ物は水のカーテンのようなものなのじゃないかなと思う。
入れ物の中も水。
入るのは簡単だし、出ていくのも簡単。
中も水だから、入ってきた人の要素が簡単に溶けでてしまう。混ざってしまう。
どんな色にでも染まるし、どんな形にもなる。
けれど、水は土になることはないし、金属になることもない。
水にどれだけ土を混ぜても、それは土にはならず、泥水になる。
私は、私という器のなかにどんなことが流れこんで来ても、どんなものが接触しようとも、
私であることは絶対に変わらないと思っている。
何があっても、誰が入ってきても、出て行っても、私は私。
私は私である、ということだけが変わらない。
この部分を説明するのはすごく難しいので、説明しません。っていうかできません。
私は言葉で何かを伝えたい、表現したいとつよくつよく思っているにも関わらず、
言葉を操るのが非常にへたで、感じていることがうまく言葉にならない。
敢えて言葉にしようとすると、とっても抽象的でなんだかわからない感じになってしまう。
日常、様々な人と関わって生きていて、常に色々なことを感じていて印象を持っているのだけれど、
それが本当に言葉にならない。だから、説明が出来ない。
これは自分のこともそうだし、誰かに対してもそう。
もどかしいことこの上ないし、確か私は20歳くらいの頃、
そういうものたちをどうにかこうにか言葉で表現してやろうと文章を真面目に書き始めたのです。
だのに、歳をとるにつれ、表現出来ないっぷりは加速していくばかり。
泣ける。
話がいつものようにとっ散らかりましたが。
私は自分を理解する誰かなんていないと思っています。
誰かを誰かが理解するなんてことはできないと思っています。
理解したと思っても、それはただの解釈のひとつだと。
沢山の誤解の中に、偶然正解が混ざってる程度のものだと思っています。
でもその正解すら、正解なのか不正解なのかは、本人にだって分からないんだと思う。
それでいいんじゃないかと思う。
理解したと思うのも幻想、理解されたと思うのも幻想。
そんななんだかわかんない中で、大事にされてるなって思う瞬間があれば、それでいいよねー。
私の数少ない人間関係の中には、そんな感じの大事にされてる感、結構あります。
そういう思い込みだけで、案外人って幸せになれるんじゃないのー?
ここまで理解されることについて考えているのはですね、
ここまで書いておきながら、それでも、心の中では、自分のすべてを理解されたいと望んでいるから。
その願望が人一倍強いから。
私の人に対する色々な行動や思いは、突き詰めていくと全てこの一点に集約される気がする。
ああ、なんだかオトメですね。乙女っぽいですねこれ。
秋らしく乙女っぽい感じが出たところで締めよう。そうしよう。

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