サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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いつまでも見てるだけ 素直の無力も形にしろよ さらされただけ 殻を破れる 2013-02-13

噛み切れないお肉を まだまだ口移しでせがむ
からかわれても すねて あーあ
(FANCY PINK/GUNIW TOOLS)

1週間が4日!
連休終わったー(´・ω・`)というモードから一転して、4日行ったら休みだわーい!っていう頭のなかになってる自分のこの感じは好きです。
今日は珍しく、パソコンを使わない仕事をたくさんしました。
ボールペンを延々と10本ずつ輪ゴムで止めるというお仕事。
ボールペン、1万本以上あった気がする。。。
実はこういう単純作業は嫌いじゃないので、やっているうちにものすごい集中力を発揮して楽しく作業を進めておりました。
様子を見に来た上司がちょこっと手伝ってくれたのですが、
「ゴムどこ?あっ。ゴムとかこんなところで大声で言ったらセクハラになりますね」
と、とんでもない一言を放ってくれて作業が一時中断する事態に。笑っちゃって数えられないよ10本!
こんなセリフを吐けるこの上司が私は大好きです。
上司はもう一人の社員を巻き込み、さんざん漫才のような会話を繰り広げつつ1箱のボールペンを10本ずつまとめてから颯爽と去って行きました。本当によい上司である。
ごきげんよう、たいこです。
今日の魚座はなかなかよい日だよ!と、あちこちの星占いに書いてあったのでうっすらウキウキしながら1日を過ごしました。
うん。いい1日だった。
考え方や感じ方が似ている人と話すのは楽しいことで。
話していても思考がシンクロしているのがわかって面白かったです。
楽しい時間をありがとうございました。
ああいう話をじっくりするのもよいものです。


今の頭のなかの事をとりあえずメモ。
愛情と依存は、当事者でいると境目が難しい。
まるで依存のない関係ってのもあまりなかろうし、純度100%の愛情ってのもお伽話だと私は思っている。
そういう気持ちになる瞬間はあるけれど、こうして暮らしていて時間が流れて、色々な物や事が関わってくる状況では、そんなものがずっと存在することがありえないと思う。
愛ってのは愛する相手の事をまるっと信じることだと思っております。
寂しさだとか不安だとかそういうものから自分をちょっと遠ざける手段として、誰かとくっつくっていうのがある。
そういうものにやられちゃってる人は、「だれでもいいから誰か一緒にいてほしい。だれでもいいから自分のことをわかってほしい。誰か私のことを、私の傷を、私のつらさをわかって」っていう気持ちが一番まえに出てきてしまう。
本当は寂しくない人も不安じゃない人もいなくて、それでもそれを一人で消化出来る人はきちんと消化している。
自分の抱えているそういうものは、誰かとは決して共有できるものではないから。
自分の痛みは自分だけのもので、それを誰かと分かち合うことはできないのです。
けれど自分では消化しきれないなあ、と思った時、誰かを求めてしまう。
みんながみんな、自分に振りかかるすべての痛みや悲しみを一人でなんとか出来るなんて思っていません。
人にはそれぞれにキャパがあって、それを超える事は誰にでも起きる。誰だって何かに、誰かに依存した経験はあるだろうし、そういう経験をして得るものってとっても大切だと思う。
で。そういう時、自分の心をよくよく探ってみると、こんな気持になっている特別な自分っていう思考が絶対にある。これは自分だけの痛みだけれど、みんなそれぞれにそれぞれなりの痛みを抱えている。というところまで考える事が出来れば、この感じは乗り越えられるのだけれど、そうならない場合はこの痛み、ずーっと引きずって抱えることになる。それは、とってもしんどいことだと思う。
その自分の抱えている何かを紛らすため、他人にどうにかしてもらおうと思った時に生まれるのが依存なのじゃないかなあ。相手のことを思いやっているようで思いやっていない、大切だ、好きだ、というその気持の中に相手の心や存在を尊重する気持ちが含まれない。そういう感じのこと。
もし、依存している相手が愛だけでできているのなら。もしかしたらそれでうまくいくのかもしれない。
(私はあんまりそうは思わない。愛情とは相手によりよくなってほしいと、幸せになってほしいと、そしてそうなれると信じる気持ちだと思うから)
依存している側は依存されている側から、愛情のようなものを際限なく吸い上げて、それでもなお飢える。
人は学ぶいきものなので、本当に楽に生きようと思えば自ずとどうするべきかは見えてくると思うのです。
人によってその答えを見つけるためにかかる時間はそれぞれだとしても。
愛だけでできている人なんていないので、ただただ愛情を吸い上げられるだけの関係なんて絶対に続かない。
認めてくれる愛(のようなもの)は、麻薬みたいに気持ちがいいし、ずっと浸っていたいと思ってしまうものです。
けれどもそれは将来の自分を幸せにしない。
愛とは、その将来を見据えて今自分に必要なものはなんなのか、を、示してくれるものだと思う。
私は自分自身を出来るだけよりよい感じにしたいし、それは死ぬまで頑張ったって到底到達できるものではないと思っている。
けれども今出来ることを出来る範囲でやって、少しずつ少しずつこうありたい自分に向かって自分を磨き続けている。
人と人とが仲良くなる時、人との縁が生まれる時、その人同士はきっと同じくらいの目線に立っている。
そうじゃないと言葉は通じない。
同じペースで成長していければ問題ないのだけれど、片方が目線を一段高くしてしまえば、その人と深く関わることはもうできない。
きちんと歩調を合わせることも出来ると思うのです。
自分のことは自分で全力で頑張る。で、大切な人が何か大きなものを乗り越えて前より少し素敵な人になった時に、よかったねと言い合える、そういう感じが愛に近いのじゃないかなあ。
お友達でも、恋人でも、家族でも。
恋はしばしば依存と恋を取り違える。
自分が今思っているこの好きという気持ちは、愛情由来なのか依存由来なのか。
恋愛モードになると、いつも考えてしまうこういう事柄。
なんだかね、今日はそういうことがずっとぐるぐると頭を回り続けていました。
恋愛なんて長いことしていないので、あんまり説得力はないのだけれどもね。


人がだれかを、自分の望むように変える事は不可能である。
変わったとすれば、それは本人が変わりたいと望んだからにほかならない。
変わる事を拒む人、変わることを怖がる人、変わるために通らねばならない道のりを省く人。
個人的にはとってももったいないことだなあと思うのだけれど、私は私の人生をどう過ごすかで頭のなかいっぱいいっぱいなのです。
自分の手に余ったら、それはもうリリースするしかない。
誰にとっても一番大切なのは自分自身のことで、他に割く余裕なんてほとんどないのです。
依存とは、その余裕のない僅かな部分を根こそぎ奪って自分のものにしてしまう行為なのじゃないかなあ。
と、今日少し思いました。


なんだかいつにもましてとりとめのない事を書いてしまいましたが、ここまで読んでくれた人、ありがとう。
きちんと答えがつかめないまま、書き逃げしようと思います。(ノ´∀`*)

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