サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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だからなるだけ上を向いてお歩きなさい それから あまり甘いものばかり食べ過ぎぬように 2012-11-12

彼女の恋するやさ男は
理由あってすでに天国にいた
ひねもす男は下界の少女を見守っていたのだ
空の上からは少女の頭しか見えない
いいお天気だからもう少し生きてみようと
彼女が天をあおぐその時だけ
瞳を見ることができるのだ
(生きてあげようかな/筋肉少女帯)

天国から見守るっていう感じ、実は自分にはこの見守られた経験があります。
こういう話をするときは少し相手の見えないものに対するスタンスを理解する必要がある。
のですが、ここは自分で好き勝手書いていいって自分で決めているので誤解とかを恐れずに書いてみよう。
その昔、人生の波がまるでFUJIYAMAのようなハードな山とか谷とかをぐるんぐるんしていた頃。
自分でも明日が一体どうなるのかすら分からない日々を過ごしておりました。
一寸先は闇っていう言葉を体現していたと思うあの頃。
ちょっとした出来事があって、当時の友人のちからを借りつつ一仕事終えてほっとした時のこと。
部屋の一角がゆがんで見えたのです。やかんを火にかけていると熱でゆがんで見えるあの感じのもやもやが。
ん?と思って二度見したらもうない。
その様子を見ていた友人が「なんか見えた?」と聞くので、もやが見えたよ。と言ったところ
「うん。今そこに弟さんがいたよ。姿あえて見せたんだと思う」
というびっくり回答が返ってきたのでした。
色々な面で不安定極まりない私のことを心配して、たびたび様子を見に来ていたようです。
それを知った私は、いつまでもこんなことではいかん。と色々反省したのでした。
そういうものはまるで見えない感じない私ですが、そうやって存在をアピールしてくれたことは素直に嬉しかったです。
ちなみにそのもやもやの場所を触ったら、暖かかったことも覚えています。
こういうものは信じた人の勝ち、という気がします。
見える人、感じる人には確かにある物で、見えない人にはないもの。
見える人には影響するし、見えない人には影響しない。
こういう物を突き詰めて行くと、どうしても信仰だとか宗教だとかに行き着いてしまうのだけれど
よくよく考えれば信仰や宗教だって、見えないものを解釈して説明するものなのですよね。
神様も幽霊も悪霊も、場合によっては宇宙人も、あると思えばあり、ないと思えばないものなのかもしれません。
もちろんどんな事にも例外はあって、信じる信じないにかかわらず、
そういう体験をしてしまう事・人っていうのはいるんですけれどもね。
そしてこれは見えない人の考え方なのかもしれない。
私はそんな経緯があって、実際に見たり不思議な出来事に遭遇したりしたことがあるので
自分の感じたこと・見たものについては、やっぱりある事なのだと考えています。
ごきげんよう、たいこです。
この週末は、今年一番密度の濃いものでした。
私、先週の半ばに風邪を引きまして、木曜金曜と仕事をおやすみしたのですけれど。
なんだか今となっては休むべくして休んだ気がする。すごくする。
金曜日に無理して仕事に行っていたら、今週末のこの密度の濃い感じはなかった。間違いない。
人の人生にはいくつかのでっかいターニングポイントがあります。
ヘビーな選択をした人ほど、このターニングポイントって感じやすい気がします。
私は今まで、そういうポイントに来ると助けてくれる人に出会って来ました。
彼らは「こっちだよ」って手を引いてくれるわけではありません。
「ここには選択肢がいくつかあるよ。そのいくつかっていうのは、これとこれとこれだよ。」
と、私の可能性について分かりやすく説明してくれる。
その選択肢を選ぶのは私自身であって、彼らはただ説明をしてくれるだけ。
私はすごくすごく大きなそういう節目を、ちょうど30歳になるかならないかの時に踏み切っています。
踏み切ったことでやっと、FUJIYAMAから降りることが出来ました。
元を正せばこの選択の一番の大元は、27歳の時にした離婚なのですが。
そこから先は、ディズニーランドのスペースシャトルくらいの緩やかなジェットコースターに乗っております。
緩やかなりに、その後も2回くらい小さな分岐点があった気がします。
もしかしたら、それも含めて大きな大きなカーブを曲がっているのかもしれない、と思っていたりもします。
実はそろそろ、この大きなカーブの終着点が見えるんじゃないかと思っていたりして。
今回は分岐点というより、30歳の時に踏み切ったその道の先の大まかな全容がおぼろげながら見えてくるっていう感じがする。
ああ、この道はこういう場所に繋がっていたのか、と納得するというか。
私のことはどうでもよかった。
私は自分の分岐点に立ち会ってもらうことはあっても自分が誰かの分岐点に立ち会った経験ってなかったのです。
そしてこの週末、そういうものに立ち会った気がしてならないのです。
めぐり合わせ。縁。運命。
そういうものは確かにあると思う。
そしてそれを掴むのも見送るのも自分自身だと思う。
ここ最近起きていた私の身の回りの出来事が、この週末に一つの意味を持ったのです。私の中で。
ああ、そういうことだったのか。って合点が行ったのです。
そしてそれを観ていて、6年前に自分に起きた出来事をもう一度外側から見た気がしたのでした。
本当に、示し合わせたように必要なものやひとが必要なタイミングで必要に応じて働くというか。
小さな偶然がたくさん積み重なって一つの結果が出た時、そのひとつひとつは些細なことでも振り返ってみると、
まるでこの一つの事実のためにすべてが動いたように感じられる感じ。
ともあれ、そういうタイミングに立ち会えたことはとても光栄だったなと思うのでした。
あと、私もできることなら烏天狗が見てみたい。


この出来事、少なからず私にも影響しています。
私は私でひとつ、大きな経験をしてきました。
自分の進むべき道について、少しじっくり考えなければいけないなと。
それは、今自分の思っている進路を変えるというのではないのです。
ははあ、そういう感じかあ。って感じたっていうほうが正しいのかもしれない。
しかし、今日あった出来事は私にとってとってもお勉強になったのでした。
私にも少しきっかけが必要なのかもしれないなと。
自分の感覚を研ぎ澄ます訓練っていうのをしたほうがいいんじゃないの?みたいなことを考えたのです。
歳を取るにつれてどうしても鈍感になっていってしまう部分っていうのがあって。
失われてしまったその感覚は、おとなになった代償っていう形で消えていっている気がします。
その、失われた部分を失うことなくおとなになることはできないのだろうか、と
まあ、ごくごく一般的な36歳から比べると私の中の大人要素ってものすごく幼いのですけれども。
この道を進んでいくならば、手放してはいけない部分は絶対にある。と思ったのでした。
ある気がするけれど、それを今ひとつ自分で信じ切れないっていう問題。
自分で無意識にやっていることが一体なんなのか。
でもこれはきっと頭で考えてもわからないんだよなあ。
ともあれ、非常に自分にとっては収穫の多い週末であったのです。
これをきちんと活かしていかないといけないなと痛切に感じた次第。
いい勉強させてもらいました。
そして、人とのめぐり合わせの不思議や尊さに感動したりもしたのでした。
この世は無駄なことだらけだけれど、その無駄を謳歌するのがきっと人間の特権なのです。
たとえその無駄のせいで大変つらい思いをしたとしても。
死なないように頑張らないと生きていけない野生の王国みたいじゃない暮らしができることを、
生きている時間に余暇のある感じを本当に尊いと感じたのでした。

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