サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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もうそれ以上もうそれ以上 やさしくなんて しなくていいのよ 2013-09-22

青いとばりが道の果てに続いてる
悲しい夜は私をとなりに乗せて
街の灯りは遠くなびくほうき星
何もいわずに私のそばにいて
(埠頭を渡る風 / 松任谷由実)


この曲、いつ頃から好きだったのかと問われると物心ついた頃から。と答えざるを得ない。
当然子供の頃はこの曲の意味なんて全然わからなかったわけですが。
わからないなりに、このサビの部分はものすごく想像しやすかったのですね。
ちなみにタイトルに使った部分の続きは、「いつでも強がる姿 嘘になる」だったり、
「いつでも強がる姿 好きだから」だったりします。
大人になっていい歳になって、歌詞の意味も理解することが出来るようになって、
幼いころとは違った角度でこの曲が好きだなあと思うのです。
でも、聞いている時に心の中で流れる風景は子供の頃のままだったり。
ごきげんよう、たいこです。
3連休のあとにまた3連休っていう、地味にダメ人間になりそうな休み構成でございます。
連休明けの火曜日は締め日明けでもありまして。火曜日いきなり超忙しい予定なのですが私は午前休です。
まだ会社には言ってない。っていうか住んでるところの更新手続き忘れてたんです。
火曜日しか事務所が開いてないので致し方なし。ごめんなさい会社の人。
というわけで三連休真ん中の今日、映画を観てまいりました。
許されざる者。夏からあちこちで予告編を見ていて興味津々だった映画。
クリント・イーストウッドのオリジナルは未見。
なんかキャストがすごく美味しそうだったんですよね。
これは内容云々より俳優の演技を観に行こう!みたいな。
若干冗長的な感じはありましたし、内容を詰め込みすぎて消化しきれないという感じは否めませんでしたがテーマはきちんと届いて来た気がします。
まったく毛色は違うのですが、どうしても壬生義士伝を思い出してしまう映画。
壬生義士伝の主人公、吉村貫一郎とすごくかぶるところがあるのですよね。この映画の十兵衛。
あれだけの戦乱の世の中で、強い強いと恐れられ、それだけに敵も少なくなかった状況で生き残るのに必要なのは何か。生への執着に他ならない。
どちらの映画の主人公も死ぬことをものすごく恐れているのです。
そして、どちらの主人公も死ぬことをそれこそ死ぬほど恐れたうえで、自害したり自殺行為と思える行動をとったりする。(正確には壬生義士伝の吉村貫一郎は、最後の最後まで助けを求めてはいるのですが)
さて、この許されざる者。
映画の中には正義も悪もありません。ただただ、人が傷つけられたり死んだりするだけです。
そして行動を起こしているそれぞれの人達には、それぞれの考えと正義があって、その自分の「筋」に従っている。
映画を観ている上では、事の発端であるとある事件のきっかけとしての力がとても弱くて、そこが残念なのですけれども、おそらくここで行動する女郎たちの意志はとても堅くて重たい。(その割に実際にコトが進むと顔面蒼白でちょっとびびってる風も見えるのがアレなんですが……)
幕末、明治、そして日本人とアイヌ人。
混沌とした時代の混沌とした場所で、いくつもの正義がぶつかり合って折り合わない。
誰が悪いわけでもなく、誰がいいわけでもない。
亡くなった妻との約束を反故にして再び剣をとる十兵衛ですが、それは、自分の軸となっている自分自身の筋を通したにすぎない。
自分自身のなかでさえ、正しいことは相反していくつもあるわけで。
なんだかそのあたりの葛藤をさらりと描いている印象でした。
さらりと、でもきちんと描かれていました。
そう、殺陣のシーンが何箇所かあるのだけれど、「殺陣」という見せ場では全くなく描かれ方がリアルより。
生々しかったです。実際の斬り合いや殺し合いがどういうものか、私は知りませんが。
人が死ぬ、人を殺す、ということを実感を持って見せるような演出だったのじゃないかなー。
なのでとっても痛そうです。この辺りがPG指定なのだと思います。が、これがまたよかった。
人を殺すことの重みがとてもよく伝わるシーンでありました。
目当ての俳優さんたちも素敵に演技していて、きちんと満足出来たのでよかったです。


ごめんなさい。という言葉はどういう時に使うのでしょう。
相手に対して悪かったな、申し訳ないことをしたな、という時に使うのでしょうか。
それは改善する意志があるというふうに私は受け止めるのだけれど。
期待なんて出来ない状況で期待をしていて欲しいと思うのは簡単です。
が、期待する側はその期待を裏切られ続けるわけで、
致し方ないコトと解っていたって消耗するのです。間違いなく。
そしていくら期待しないように振る舞っていたって、やっぱりまるで期待しないなんて出来ない。
気持ちがあってもそれが目に見えなければ意味がない。
私は他の誰かと気持ちを同調することは出来ないし、他の誰かもそんなことが出来る人はいない。
だから私達は一生懸命想像しようとするのではないでしょうか。
想像することは思いやりにつながるのではないのかなと思います。
自分に都合のいいようにものごとを見るのはだれだって一緒なのだけれど、
それでも実際、都合よく目をつむった部分がなくなるのかというとそうではない。


虚無感みたいなものに浸ってしまうのは秋がやってくるとデフォなのですが。
ここのところの1ヶ月弱、全てに於いてのやる気が著しく減退していて自分でもおののいている始末。
どうしても頑張るってことが出来ない踏ん張りの効かない感じに打ちのめされそうでございます。
こんな現状でも、その原因の大きな一つとなっている仕事にきちんと行っている自分を褒めたい。
疲れちゃってるんだよなあ。ほんとに。
こういうの私だけじゃないと思うし、みんなそれなりに色々抱えてると思うのですが、
やっぱりさ、きちんと暮らしている人ってすごく偉いなってしみじみ感じたりするのはこういう時なのでした。
もーひとりでなんでもかんでもやるのやだー!
と、絶対に声に出しては言えないことをここで叫んでおこう。

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