サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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誰も同じ気持ちでいられない 会えることが真実 2014-04-27

あなたから私へと
さしのべられた 腕に身を委ねて
こみあげる哀しみに
この魂を激しくゆさぶるの
Going on 今を生きよう 離れてゆく明日でも
Now is on 今を愛そう 求め合える瞬間を
(Now Is On / 松任谷由実)

諸行無常、みたいなお話。
何一つとして私達は手に入れることが出来ず、永遠なんてものはなく、
一つのところにとどまることは絶対にできない。
時間というものに私達は逆らえないから、これ以上ないくらいパーフェクトな幸せの瞬間のそのすぐ後に、
深い深い井戸の底に突き落とされるような寂しさや苦しさを味わうこともある。
どちらも、永遠には続かない。
だからそれを嘆くのか、だから今を大切にするのか、それは考え方ひとつ。
それなら今を大切にしよう、嘆いていてもしょうがないというのが、耳障りの良い回答なんだろうけれど
そういうどうしようもない事を嘆くことがあったっていいじゃないか。
きちんとしよう、ちゃんとしよう、自分のなりたい自分になるために、自分が良いと思っている事をしよう、
そういう考え方のクセをつけよう、とすることはとても素晴らしいことです。そして大切なことです。
けれど、光が当たれば必ず影が出るように、私達の心のなかにだってだめだめな部分は少なからずある。
それはきっと、キラキラしてるところと同じだけある。
あっちこっちから光を当てて、影の出ないようにしたって、やっぱりなくなることはない。
そういうところを見ないでいると、ある時に自分の影にめっためたにやられたりすることもあると思う。
だからといって自分を甘やかしまくっていいのかというと、それもまた違うのですけれど。
些細なことで強くなれた気がしたって、やっぱり些細な事でその自信は粉々に打ち砕かれたりする。
自分の心のなかで頭のなかで自分会議や反省会をいくらしたところで、
本当はその外に出て問いかけなければ答えなんて出ないようなたぐいのこともある。
自分会議や自分反省会は私のとても得意なものですが、
コンディションのよい時にやらないと深い深い井戸の底にはまってしまったりするわけです。
少し修行が必要です。
ごきげんよう、たいこです。
ここのところ、全然マリー開いてないじゃん!みたいなことをちらほらと聞きます。
実際開けてないんです。待ってくれている数少ない人たちには、ごめんなさい。
彼氏が出来たから開けないんだろうみたいなことも一緒に言われます。
それも否定はしませんが、実は製作に追われています。
5月は1日からファンタジーフェア、4日あたりからファンタジーガチャカーニバルが始まります。
ジャパンフェアは盛況のうちに終わって、沢山の募金も出来たようで一安心ですが、
5月にはイベントがもう一つあって、すっかり忘れかけていたのだけれどハントにも出るのですね。
ハントとファンタジーガチャカーニバルの商品は揃っているのですが、
それ以外のものが結構手付かずで残っていて。
思えば去年の夏から、私は毎月のように締め切りに追われています。
もうだめだーむりだーっていうところまで追い詰められたのが去年の夏でした。
そういえばもうすぐに夏が来てしまうんだな。                               
そんなわけで、泣きながらものを作ったりなんだりしておりました。


偉大なる、しゅららぼんを読みました。
万城目学は大好きな作家さんです。
いまさらかよ。と自分でも思うが、文庫化したの知らなかったんだ。
といってもキンドル読書ですが。
同じデジタルデータなのに、ハードカバーは紙の本と同じくらいのお値段で売っていたりする。
納得行かない。
さて、この小説の舞台は滋賀県。
琵琶湖から力を授かった2つの一族が出てきます。戦います。
万城目学の小説のよい所は、まあ沢山あるのですが、キャラの立ちっぷり。
グレート清子なんて凄まじすぎる強烈なキャラである。
それ以外にも一筋縄ではいかない。
あのキャラをあれだけいきいきと描けるって素晴らしいと思う。
小説自体にもくせがあるので、苦手な人はとことん苦手かもしれないけれど、
そうでもない人にはおすすめです。


この先のことを考えても状況が関わるわけでもなく、
けれど考えざるをえないこの状況。
早いとこ落ち着いてくれるといいんだけどなあ。。。リアルめ。。。

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カテゴリー: 日記

ほかには何ひとつできなくてもいい 2014-04-23

So you don’t have to worry worry
守ってあげたい
あなたを苦しめるすべてのことから
Cause I love you
(守ってあげたい / 松任谷由実)

もやもやしてる時に料理みたいなことをすると、モヤモヤが倍増するのでよくないです。
洗い物も然り。
ちょっとした事がきっかけで、がっつり負のループにやられちゃったそのタイミングで夕飯なんて作っちゃったもんで、今日の夕飯はなんだか微妙な味でした。
そういう日もある。
どうにもこうにも困ったなこりゃ、となって、占いの本の書き起こしをしたりして少し落ち着いたのでした。
文字を読みながら打ち込んでいく作業は、料理と違って頭のなかが文章でいっぱいになるので、
余計なことを考えないですみます。
自分でも惚れ惚れするタイピングスピードで文章を打ち込んでいったわけで。。。すごく気持ちよかった。
ごきげんよう、たいこです。
今日の1曲、私はこの守ってあげたい立場に立つのは得意、、、なんか言葉がちがう。
守ってあげたい立場に立ちがちで、そういう気持ちが自分でも強いわけですが、
そういう気持ちが強い人ほど反対の立場をそれ以上に求めてるもんだと思うわけです。
守られたい。もういい大人なので、そういう事はきちんと自覚できます。
人は自分がして欲しいことを誰かにするもんだと思っています。
なので、めちゃくちゃ守られたいんだと思う。私。
自分全然強くないししっかりもしてないんでだめだめなんですが、
取り繕うのだけは上手なもので、結構しっかりした人に思われがちです。
昔はその感じにすがっていた時期もありますが、(無理やりしっかりした人になろうとしてた、くらいの)
そうやって自分をつくっても大変なことばかりだよね、と思った頃からあまりしなくなりました。
強くなんてなりたくはないけれど、シングルマザーで子供が3人なんて、どうしたって強くなるわけで。
あーなんか違う方向に行ってませんかとか思いながら、流されてこの歳になってしまいました。
元々甘えたりするのすごく下手なんですけれども。
長子に多い傾向があると思う、この「一見しっかりしてるんだけど実はだめだめ」っていう感じ。
一番上の子は、頼られることで自分の家庭のなかでの居場所をつくろうとするからこうなってしまうのですね。
もうこれは仕方がない。母親はひとりだ。手も回らなくなる。
父親不在で子供が3人という、自分の育った環境そのまま我が子に反映しちゃったような今現在の私の家庭ですが、
私の家庭は本当に父親がいないので、自分の育った環境よりは複雑ではない気がします。
家族ってのは本当に、人間関係の基本を学ぶ場所だよなあ。なんて思ったりもしつつ。
色々と脈絡のない話を思いつくままに語りつつ、お話を聞きつつ、少しもやが晴れたような、そんな日でした。
思いつくままにお話するので、聞いてくれた人には何のことやらさっぱりっていう話も多かったはずなのに、
ずっとひたすら聴き続けてくれた事がすごくすごく嬉しかった。
話したって仕方がないことは沢山あるのだけれど、話す事で少し楽になることもある。
ああなんだか私すごく月並みな事を書いてますね。
話したって仕方がないとわかっていることを、それでも話すのは少し勇気がいります。
ちょっと間違えると余計に凹んだり辛くなったりしてしまうし、
そもそもそんなに楽しくない話を聞かせても相手だって困るだろうみたいな気持ちが働くから。
そういう時はさらっと言ってそれで終わらせることが多いのだけれど、
ちょっと今日の感じは、さらっとではどうにもなりそうになくて。
本当におもいっきり甘えちゃった気がするのです。が、
きちんと受け止めてくれてとても嬉しかったのでした。
私もだいぶ臆病なもので、さらりと弱音を吐いたりどうしようもない重たい話をぶちまけたり、
そんなことを何の躊躇もなく出来るようになるまでにはやっぱり少し時間が必要です。
積み上げた時間の中で育つ信頼感みたいなもの。
なんだか自分の思い込みとか何かでグズグズになっていた私のことを、
きちんと心配してくれる人がいる、なんだかそういう感じに改めて気づいてちょっと幸せなのでした。
私の脳みそも心もすごく単純。
だけど、その単純さが私には愛しくて仕方がない。
まとめようと思ったけど結局この文章もとっちらかっててまとまりがない。
言いたかったことはただひとつ。
ありがとう。だいすき!
みたいなことです。

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カテゴリー: 日記

傷つけず 嘘つかず そんな人でありたい 2014-04-09

あるがまま なすがまま
人として生きたい
曲がらず 真っ直ぐに
そんな人でありたい

(あるがまま なすがまま / 楽団鹿殺し)

というわけで、土曜日に楽団鹿殺しのお芝居を見てまいりました。
劇団ではなく楽団な今回。
鹿殺しの演出家さんが海外留学中のため、脚本家の丸尾さんが演出もやって、
若手の団員をメインに作ったお芝居です。
鹿殺しは金管楽器が出来る俳優ばかりがメンバーになってたりします。
劇中で金管を生演奏したりするからなのですが、(そしてそれがすごくよい)
今回はそれがメイン。そりゃもう、らっぱ鳴らしっぱなしのお芝居でございました。
ゲストがヨタロウさんだったのですね。今回。
私はこれが嬉しくて仕方なく。
伊藤ヨタロウは、色々なお芝居の音楽なんかをやっている人です。
俳優でも出てきたりします。
私はこの人が大好きなのです。
時代は1970年台、新宿にあるジャズ喫茶マロングラッセ。
そこに入り浸っているいわゆる色々乗り遅れちゃった人たち。
常連みんなから敬愛されていたけれど、実家に帰ったきり姿を見せなくなった「教授」からの、
長い長い手紙が届いた事がきっかけで、お金のないこの人達が歩いて教授のいる伊勢まで行く!
というこのお話。
彼らの珍道中と平行して、教授の身に何が起きたのか、その長い長い手紙の内容を観客に見せていきます。
こちらの重たい教授パートがうまい具合に珍道中パートを締めていて観ていて心地よかった。
こういう人になりたい と願う教授のなりたい人像は私にもすごくすごく覚えがある感覚で。
執着を捨ててしまいたいとかっていうことは、私も昔よく考えたりしたことでした。
執着って持ってしまうとつらくてきつい。
けれど人ならば、執着を持ってこそだよなあと今の私は思うのです。
人を好きになってしまうのは、なんかもうどうしようもないこと。
好きになっちゃいけない相手ってのはいるわけですが、恋心はそんな倫理観とは全然違うルールで動いてる。
恋ってのはきっと性欲の源です。
好きで欲しくてたまらなくて、大人の言い分が通用しない感じが恋。
わかりやすく本能に根ざしているだけに、理性でどうにかするのが大変なんだと思う。
愛はまた別のところから来ていて、愛は恋愛における愛も、親が子に向ける愛も、その逆も、
友人間における愛も、全部一緒のような気がします。
愛は純度が高まると執着すら乗り越える気がしますけれど、人から執着を取り払うことなんて不可能なので
そういう純度の高い愛っていうのは人間のものではないような気がします。
やむにやまれずそういうものに変化してしまうことは、ある気がするけれど、
それでも好きな人や大切な人が失われたら、私達はその別れを目一杯惜しむわけで。
それって執着だよね。と思うと、やっぱりそういうのはないのかもしれない。
宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」は、そういう人の先にあるものに憧れた彼の気持ちのような気がします、が
やっぱり生身のあるうちはそういうものにはなれない。
なれないよね。だからまあしょうがないか。と、開き直ると大人の階段を一歩登るのではないかな。
今回の鹿殺しは、なんだかそんなお話でした。


ミキさんに勧められてポチっていた小説を読み終えました。
ちょっとびっくりしちゃったのでメモ。
私はよく泣きます。
実生活で、自分の身に起きた事で泣くことはめったにないのですけれど、
映画や小説では本当によく泣きます。
けれど、一応TPOはわきまえているつもりで、例えば電車の中で小説を読んでいて、
涙がそこまでやってきていても、それはなんとかこらえられたりするのです。
ちょっとうるうるっとするくらいで、たいていは収まるのです。
読んだ本は、スロウハイツの神様なのですけれど。
月曜日にお昼休憩中に読了したのですね。
その時点で残っているページ数は本当にわずかで、その休憩中に読み終わっちゃうことは分かってた。
その、残ってた分全部に泣かされました。
蕎麦屋でキンドル片手にぼろぼろ泣いている38歳。
側にいたおじさん(知らない人)にすごい目で見られたよ。
わかるよ。私だってなんだろうと思うよ。そんな人がいたら。
なんだかこれもどうしようもなく愛のお話でした。
上下巻で長い小説なのですけれど、丁寧に丁寧に散りばめられた伏線が、ラストで綺麗に繋がります。
その伏線はとてもとてもわかりやすいので、物語においての意外性とかはあまりないのだけれど、
明かされたその最終章あたりの登場人物の心の動きが、行動が、いやあ……よかったです。
クリエイターと呼ばれる人たちが沢山出てくるこの物語ですが、
そういうものを目指したことがある人にとっては
懐かしくもちくちくと胸が痛むようなお話なのではないでしょうか。
私は狩野の気持ちが痛いほどよくわかりました。
あそこまで器用でも才能があるわけでもないのですけれども。
クリエイターとは0から何かを生み出す人のことだと私は思っていて、
私にはどうしてもその部分が足りない。
昔、キャラメルボックスの成井氏が「僕はアレンジャー」と言っていたのと同じ事で、
(キャラメルボックスの上演演目は大抵原作がある。)
アレンジャーはクリエイター足りうるのか、みたいなところで。
それはどちらかというと職人ではないのか、とか。
原作があっても原案があっても、それを原作や原案に忠実にアレンジするのと、
そこに独自の解釈を入れて、それはそれ、これはこれで別の作品にしてしまうのと。
原作やら原案みたいなものがあっても、出来上がるものは様々です。
私はその種を生み出す事が本当に苦手なのですが、種を元にふくらませていくのはとても好きなのです。
当然そこに、私の気持ちや何かも乗ってくるわけで、出来上がったものは私の作品になる。
けれどもやっぱり、それは生み出すのとはまたちょっと違うものだろうと思っています。今でも。
話がそれた。
この小説は、このようなものについてもきちんとしっかり描かれていますが、
やっぱり話しの中心になるのは愛なのだと思うのですよね。
小説によって救われた少女と、その少女によって救われた作家と。
こういうふうにつながる事は、奇跡です。
綺麗に奇跡を描いたところで終わる、本当に素敵な小説でした。


火曜日は長男の高校の入学式でした。
ちょっと特殊な高校へ通う事になった長男。
その特殊さから、入学式の校長先生の式辞にも挨拶にも、
しつこいくらいに「自己責任」という言葉が登場しました。
自己責任というのは、自分で決めて行動したことに対して
きっちりと自分自身で落とし前をつけるということだと思います。
おとなになったら必要不可欠な要素です。
10代の思春期の頃は、色々なことを思って考えて吸収していく時期ですが、
総じてこの自己責任という概念が抜けているものです。
先生がうざい、親がうざいというのは、甘え以外の何者でもない。
今の自分に不満があることを家や親や学校、環境、様々な外的要因のせいにして
自分の不幸を嘆いたり反発したりすることも、甘え以外の何者でもない。
それは、管理されて強制されることに甘んじているから出てくる感情だと思う。
自由とは素敵なものですが、同時に孤独で厳しいものでもあります。
良い学校だなと思いました。
願わくば、長男があの学校で大人になるための第一歩である、
自己責任という言葉をきちんと理解してくれるといいなと。

傷つけず 嘘つかず そんな人でありたい はコメントを受け付けていません
カテゴリー: 日記