サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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お金はないから ユザワヤ行って カタガミ 針糸 指きった 2014-01-31

テヘペロしてさ 指をなめてさ
縫う 縫ってく テヘペロしてさ
あなたに頭 なでられるまで
Baby, Baby, Shine Bright
一点ものになれますように
街のお店の一点ものは誰かのもの
あたしじゃなく
(一点もの / 特撮)

週末は特撮のライブなのです。
このタイミングでシングル出ちゃったのでずーっと聴いております。
っていうか今回のシングル、新曲3曲なんですけれどもすっごくよかったっっ。
まさか40すぎのおっさんがこんなかわいい曲を作るだけでなく歌うとは。
私ももう中年の仲間入りしかけてる歳なのですが、こういう乙女心ってなんでなくならないんでしょう?
私だけ?それちょっと痛くない?でもなくならないもんはなくならないから仕方がない。
ごきげんよう、たいこです。
1週間過ぎようとしていますが、26日は次男の誕生日でした。14歳。
14歳といえば思い出すのは楳図かずおのあの漫画で、ああ、あれは本当に面白い漫画だったなあとか思うのですがこの話とはあまり関係がない、気がする。

これが今年のバースデーケーキ。年末から呪いのように「お金がないお金がない」と呟いていた私の気持ちを察した次男が、「今年のケーキは手作りがいい。イチゴをいっぱい載せてくれ」と宣言したので手作りになりました。
材料を買って市販のスポンジに塗るだけ!のなんちゃって手作りですが、スポンジ以外はそれなりに美味しくいただける割にお値段が安い。
スポンジはやっぱり、どーしても市販のは残念風味であるよ。
お値段考えると不二家とかコージーコーナーのが安い気がしなくもないけれど、挟まってる果物が缶詰の桃!とかがどうしても嫌なのであった。
次男もそこが譲れないラインだったようで。
しきりに「いちご!いちご!」と主張しておりました。
道具あんまり揃えずに作るのでデコレーションが綺麗にできないのが難点ですが……今年は娘と一緒に楽しく作りました。
まんなかはスウィーティー。
周りのキラキラはアラザン。アラザンは私の好物です。プチプチしていて本当に美味しい。綺麗。
お誕生日を前にして、次男の自転車のタイヤが破裂しました。
その何日か前に私の自転車のタイヤが破裂して、あんな経験初めてだったのにお前もか……!とびっくりしたのですが、破裂したタイヤを給料日まで待ってくれ、と修理しないでいたところ、サドルが盗まれまして。
完全にスクラップと化した彼の自転車は、サドルが盗まれた日に駐輪場の一斉清掃的なものが行われて捨てられてしまったのでした。まあ、サドルもないしパンクもしている自転車、放置して捨ててあると思われてもしかたがないよね。。。というわけで、仕組まれたとしか思えないタイミングで彼の誕生日プレゼントは自転車。
何年か前にも彼の誕生日に自転車を買いまして。その時は楽天で買ったのだけれど、自転車も梱包されて来るのですよね。梱包をほどくのがすごく大変だった事が頭のなかに残っていて、通販で自転車買うのは躊躇していたのです。
が、ヤフーショッピングには魅惑のお値段のかわいい自転車がいっぱい。
梱包の手間はまあ、子供も中学生だしなんとかなるだろう!と目をつぶってポチっとしたのです。
月曜日にやってきた自転車、カゴとか自分で取り付けるタイプだった!
月曜日に自宅に帰ってきたら、自宅前で必死こいて工具と戦う長男&次男。
見かねて残っていた工程を手伝い、やっぱり梱包されていた大きなダンボールを解体して、、、と、
気づいたら家に入る前に1時間が経過。
思いがけぬ肉体労働に月曜日からへろへろになったのでした。
しかし自転車、本人はお気に入りなようで何より。
1月の最後の週もあっという間に過ぎてしまって、今日は31日。
あっという間という割には振り返ると年末年始が結構遠い出来事に思える。
ということは1月、なんだかんだで密度が濃かったんだなあ。
あまりよろしくない精神状態でスタートした2014年。こっから少し上向きになるといいなあ。
今日は長男の入試結果の発表です。
受かってるのかしらあの子。。。。
彼も進路が決まると4月からのあれこれに向けて色々慌ただしくなるのです。
15歳で、ちょっと早く離れて暮らすことになりそうです。
そうなると色々変わることも出てくるのであって、まあなんだ、いいようになるといいなあ。
本当の1年の始まりは桜が咲く頃からです。
もうすぐ立春。こっからが始まりの準備なのですよねー。
さて1月最後の日は金曜日。
あと1日頑張って働いてきます。明日はらいぶだー。

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カテゴリー: 日記

彼女にはもうこうするしかないのだ 2014-01-27

信頼出来る人なんて
もうこの世にはいない
彼女にはもうこうするしかないのだ
13階の屋上から身を投げること
でも彼女はとびおりずにすんだ
みんなのうまい口車
死ぬなんておよしなさい
とにかく今はとにかく
(13階の女 / 特撮)

特撮といっても特撮が作った曲ではないです。
よい曲です。
飛び降りるしかない彼女は、飛び降りることすらできないっていうこの絶望。
みんながみんな自分勝手っていう感覚がひしひしと伝わってくる歌でありますが、
この飛び降りるしかない彼女もきっと自分勝手なのです。
その辺はみんな平等。
ごきげんよう、たいこです。
自分勝手とかエゴイストとか、突き詰めて考えるとみんな自己中だし自分勝手だしエゴイストです。
そんなのは当然で、だって自分の身は自分でしか守れない。
自分のことを守った時に出来る余裕なんて、ほんの些細なものでしかない。
自分の感じをより良くするために、人は誰かのために尽くしたり自分の欲を抑えたりするんだと思うのです。
自分のことを抑えるのは、その先の自分のため。
「その先」を考えて行動しているのか、そういう事が考えられないのか、「その先」に対する見通しが甘いのか、そもそもそういう事を考えることをよしとしないのか、なんかそういうところでそれぞれの行動の基準が分かれてくる気がします。
あの人超自己中!と、巷で噂されていても自分にとっての大切な人たちだけが自分を受け入れてくれるならそれでいいとかんがえる人ならば、それ以外の人たちには結構非情なこともできてしまう気がする。
しかし、人は誰かにひどいことをされたら案外覚えているもので。
そういうふうにしてできた恨みみたいなものを受け止める覚悟だとか、受け流す自信だとか、なんかそういう所も考慮しないと、非情なことってなかなかできないものです。
話が盛大にそれているけれど、私達が考えて決めて取る行動は、すべて自分自身のためっていう事が言いたかった。
私は私の勝手で、優しくしたい人に優しくするし優しくしたくない人には優しくしない。
世の中の全員に好かれることなんて不可能ならば、自分の手の届く範囲の人たちには好かれていたい。
クセが強ければ好かれる度合いも増すし、嫌われる度合いも増す。
それはもう仕方のないことで、だから常にある程度嫌われることを覚悟してもいる。
覚悟はしていても嫌なものは嫌で、できれば自分の嫌われているさまなんて見たくはないわけで。
だけど目に入っちゃった時はしょうがないよなあ。って自分で自分を慰めたりするわけです。
幸いにも私のことをとりあえず肯定してくれる人たちが私の周りにはいます。
本当にありがたいことだと思って、たまにそういう人たちに甘えたりもします。
甘える度合いを間違えて、相手に負担をかけ過ぎたりすることもままあるのですけれどもね。。。
反省しつつ、やっぱり寂しくなったり、不安やら恐怖やらとぐるぐる追っかけっこして疲れちゃったり。
うーん。冬はやっぱりだめですね。どうも心のバランスがうまくとれない。
ここのところ私を不安にさせている原因。自分でもわかりすぎるほどわかっているのですが、
さすがにめちゃくちゃ不安になるようなモノなだけに解決方法も難解です。
ああもう霞だけ食べて生きていけたらいいのに!
自分の手では抱えきれないよ!と思ってしまうときにものすごい甘えが自分のなかから沸き上がる。
同情するなら金をくれみたいな甘えです。
そういう事を吐き出しても結局現状は変わらないのだけれどね。
自分の今ある現状と他の誰かの現状、見比べるってことを私はあまりしません。
自分にとって一番苦しいこと、一番嬉しいこと、一番幸せなことは、
他の誰かにとっても一番なのかというとそれは違うからです。
みんなそれぞれ悩みもあれば苦しいこともある。悲しいこともある。
だから安易に隣の芝を見て「青くていいなあ」なんて思っても意味がないのです。
ないんだけれどね……。
年齢的にも先のことを考えねばならぬよなあ、という感じになってまいりました。
うーむ。
もうちょっとちゃんとしよう。というのが今年の目標で、なんかこれ毎年思っている気がする。
毎年思っている気がするのだけれど、なんだか今年は後がないぞ、とも思っている。
なんだか去年の秋ごろからずーっとずーっと心の底のほうにもやもやっとある感じのものが
ちょっと無視できない勢いになっている感じ。
さておき。
お金とかそういうものに私はとても疎いです。
好きですけれど、お金。
なんで好きなのかって欲しい物を手に入れる手段だからです。
お金はどんなものにも化ける無限の何か、、、すごいもの。
で、私はお金を使う前提としてしか見ることができません。
お金が沢山あったら色々と楽だろうなと思う反面、あんまりまじめにお金を稼ぐ気になれないわけです。
私にとって一番大切なのは、心のやりとりみたいなものだったりして。
自分の存在意義を、人から求められることで確認したいみたいなので、
たぶん世の中に私以外の人間がいなくなったら、私は寂しすぎて死ぬ。
自分が透明人間になって誰にも干渉したりされたりしなくなったら、やっぱり絶望して死んじゃう。
気持ちや心のなかのことを、幻想でもいい、誰かと共有したり通じたと感じたりすることが、
おそらくいちばん重要なのです。
そういう事柄の些細なひとつひとつでわりと簡単に元気になったりしてしまいます。
私にとって、必要とされること、求められることは何にもまして大切なこと。
そういう事をたびたび感じられる暮らしをしている自分は、おそらくそんなに不幸ではない。
今、私に関わってくれている私のことを認めていてくれる人たちは、私にとってかけがえのない宝物。
それゆえ、相手が私のことをきちんと見ようとしてくれるのかどうかって事は、
私にとってはすごくすごく大切で、無意識に一番にチェックする項目のような気がします。
なんでだかわからないけどこの人は……と一歩引いてしまう人たち。
共通するのは、(あくまで私が)ああ、私の事を見ようとしていないなと感じることだったり。
ということに気づいたのも、実はつい最近なんですけれどもね。
とりあえず、もし私がガンになって二度と病院から出られないという状況になった時に、
手を差し伸べる余裕はなくても、すごくすごっく心配してくれる私以外の誰か。
そういう人たちには心から感謝したい。
しかし私には、それだけで頑張って生きていける自信が今のところないのです。
やっぱり差し伸べてくれる手を、欲してしまうのですね。
修行が足りない。困ったもんです。

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カテゴリー: 日記

触り方を訊こうか 触られ方を聞こうか 2014-01-19

だってもう忘れた
あまりに遠くて 遺影
ホレたハレたで
腹は満たぬ
(ドロリーナ・ジルゼ / Cocco)

1ヶ月って早い!
いつの頃からかこの時間の流れの早さを超実感しています。
中の人、まだまだ正月気分抜けきってないんですけれども、もう明日は20日なんですって。
そろそろバレンタインの事とか考えないといけないんじゃないの……?
寒いのは嫌ですが春がくると歳をひとつ取ることになります。それもまた微妙な気分でございます。
ごきげんよう、たいこです。
誕生日が来るのは純粋に嬉しいのですけれどね。
歳は取りたくない気持ちがこの歳になってわかるようになりました。
気持ちは30歳の頃から全然変わってないだけに。大丈夫なのか私?と。
さておき。
土曜日はお芝居を観に行ってきました。
鹿殺し×Coccoという、Coccoがお芝居初主演で鹿殺しがプロデュースしちゃうよーっていう舞台です。
歌いっぱいだろうなあとわくわくしながら観劇。
鹿殺しは脚本と演出が別の劇団です。
演出家は今、海外留学中なので今回は演出が脚本の丸尾丸一郎。
演出家が違うとやっぱり雰囲気って変わるなあ、という印象。
ぱぁっとした派手さが抑え気味な雰囲気でございました。
生演奏がなかったからかもしれない。
Coccoはコレが初舞台のようでしたが、なんだかすごく不思議な雰囲気の演技でございました。
お話はバレエのジゼルを下敷きにしたお話。
大まかなストーリーはジゼルそのままですが、
この作品にはそこに妹、父、母といった主人公の家族が深く関わってきます。
不慮の事故で亡くなった父と妹、仲の良くなかった姉妹、ファザコンとも取れるジルゼの父への愛。
父も母も愛ゆえに主人公を縛ります。
母も父も、主人公のことを案じて、想像して、結論付けて縛るのです。
そして主人公は逃げ場がなくなる。
自分の意思、望みを叶えることができなくなる。
ちょうど、いとうせいこうの想像ラジオを読んでいるところだったのですが、
この作品と想像ラジオはかぶるところが多かったな。
生きている私達は、死んだ人が死んだ時に何を思い、考えたのかは永遠にわからない。
本当は生きていたって死んでいたって、自分以外の人間がある瞬間に何を考えたのかなんて絶対に分からない。
だから私達はどう思ったのだろうと想像をする。
でもその想像は、やっぱり実際とはずれるのです。たぶん。
だからそんな事をしても無駄だよと死者を自分から切り離すのか、
だからこそ考え続けるんだよと死者を自分の一部とするのか。
大切な人が死ぬと悲しい。
それはもう二度と姿を見て、声を聞いて、触れられないから。
本当はもう二度と会うことのない人なんて沢山沢山いるのだけれど、
そういう疎遠になってしまった人たちの誰かが亡くなったと聞いても、私達はそれなりのショックを受ける。
もう二度と見ることが出来ないという事実に、関係の深さの分だけ打ちのめされる。
死者の側からすれば、触れられなくなるのは世界のすべてであって、
今まで自分が当たり前に干渉してきた世界に一切干渉できなくなるわけで。
死者というものの存在があれば、の話です。当然。
そしてジルゼの事情には、死者の世界(厳密に言うとあの世とこの世のはざま)がある。
行くべきところに行かず、無理にその場にとどまる理由はあまりに生きているうちにやり残したことが多いから。
なんというか、それは圧倒的な孤独だと思うのです。
生きている人は大切な人を亡くせば、自分にとってのその人の大きさだけの空白が出来る。
その大きさだけ孤独を抱える。
長く生きれば生きるだけ、その空白は大きくなっていくのです。
孤独だねえ。。
これは、もう二度と会わないと決心した別れでも同じだと思う。
では、こうしてネットの世界だけで心を通わせた相手だとどうなるのだろう。
この世界での関わりは、真実でもありフェイクでもある。
ほんとうのすがた、その人となりを把握するには生身での関わりが必要だと私は思っている。
なんだかそんな事を考えてたら、孤独の穴の中にするりと落ちてしまったのでした。
いかんなあ。


冒頭の曲は芝居の中で最後にCoccoが歌っていたもの。
聞いていてぼろぼろ泣いてしまった曲であり、音楽ってのはやっぱすげえなと思ったのでした。


想像ラジオ、ちょこっと上の方で書いたけれどすごく良い小説でした。
東北の大震災で亡くなった人がDJアークとして放送するラジオ。死者にしか届かないラジオ。
でもどうしても、生きている自分の大切な人に届けたい言葉たち。
生者と死者の間に横たわる、深くて長い三途の川の断絶がかなしくてかなしくて仕方がない。
しかし、悲しみは間違いなく生きている私達を前に歩ませる力を持っている。
その、悲しみパワーを後ろ向きに使うのか、前向きに使うのかは使う人次第でもある。
そういえば私達は、ポジティブになれ、前向きになれ、ネガティブな事は考えるなと言われがちです。
けれど、本当にネガティブな事は不要なのだろうかね。
光が当たれば影が生まれて、めいっぱいの希望を持てばその分だけ不安がつきまとう。
それはどうしたって打ち消せないものだし、だとしたら本当はあるものをなかったことにして振る舞ってるっていうことになる。
なかったことにされた影の部分は一体どうなるの?
なかったことになんてならないのなら、きちんと影と向き合ってそれを慰めるような事があってよくないはずがない。
もう今はない、触れることも出来ない、そういうものを惜しんで惜しんで悲しむ気持ちは、
絶対に必要がないものではないと思うのです。
小説の中に、想像ラジオを聞きたくて聞きたくてなかなか聞けなかったSさんという人物が出てくるのですが、
この人が恋人と交わしている会話。

「会いたいね」
「いつ会えるかな」
「今はまだちょっとわからないな」
「会いたい?」
「うん、会いたい」
「じゃあね」
「うん、またね」

あちらとこちらで交わす、このなんとも切ない会話におもいっきりやられたのでした。

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