サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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あーどれも未完なのに守る義務は一人のものか? 2013-07-18

一つ二つすりかえるだけで 全て元に戻るはずはない
人の世も事象よ情も風よ 抗う事川のよう
あー灰の雲に浮かび愛すものに恐れ抱いてた
あー常に許す事が無だと判り息を殺す
(痛まない雲 / GUNIW TOOLS)


暗いんですけれども。
定期的に聞きたくなる人たちです。
詞のなんかこう、ちょっとなかったことにしたいようなとこを抉る感じがなかなか。
ごきげんよう、たいこです。
今日は長男の三者面談でございました。
今年の最大のイベントは彼の高校受験なのですけれども、当の本人にその自覚が非常に薄くて現実逃避モード満載でございまして、ここのところの私の最大の懸念であります。
救いは担任の先生がきちんと生徒を観てくれるところ。
そして、長男自身がこの担任の先生をとても好いているところ。
叩いて伸びる子と褒めて伸びる子と、人によって最適な育てられ方は様々だと思うのだけれど
打たれ弱い長男はこの塩梅がとてもむずかしいのです。加えて超マイペース。
マイペースって本当に大変!
これはこの子が小学校に上がった時から身にしみて感じているところではあります。
今日は1時間半かけて話し合い、少し将来に向けてのとっかかりの頭くらいは出てきたかな、といったところ。
遅すぎるんだけれども……!
勉強に興味が持てないならば、興味を持った事を達成する手段として勉強が重要だという認識をしてほしい。切に。
今からでも間に合わないことはないと思うのは、長男のもともと持っている賢さを知っているから。
本当にね、いくら賢くても使わなきゃ意味がないのよーーーー!と声を大にして言ってもマイペースな本人はどこ吹く風なのだよなあ。成功体験がないから自信もない。そもそも君、成功するように動いてないじゃないか。なんでそれで自信をなくすのだ。と、私などは思うのですが。
高校に合格すること・入学することがゴールではないので、その先を見据えて学校を選んでほしいなと切に思っております。


私は自分自身、いわゆる「お母さん」というものとは程遠い感じなのを自覚しています。
この「お母さん」の理想像ってきっとひとそれぞれだとは思うのですけれど。
サザエさんのような、ちびまるこちゃんのような、ああいう家族や家庭とはうちは無縁だなと。
そもそも自分の母親が母親らしいところからまるでかけ離れた人であったので、仕方ないといえば仕方ないのかもしれません。
「若く見えるねー」と言われ続けてきた母でした。
一緒に歩いていると姉妹に間違われたこともあります。
母である前にしっかりと女だったので物足りない思いも多々しているし、またその女の部分がお姫様な気質だったためにある程度立ててある程度見上げていないと成り立たない感じでもありました。
要するにワガママだったのですね。
母は自分のそういう部分には無自覚な気もします。きちんと聞いたことがないのでわかりませんが。
本当の本当に困ったときには母のところに相談に行く気がしますが、それでも手助けしてくれるかどうかはいまいち自信がありません。
彼女にとって何よりも大事なのは彼女自身の気分だから。
けれど、私はそういう部分が嫌いではありません。
それってすごく正直な気がするから。
子供は大切だしかけがえがない。それは本当だけれど。
けれど子供は巣立つもので、彼らは親自身とは全く違う価値観を持ち、全く違う人生を歩んでいく。
母と子が一心同体の勢いでべったりしているのは、歩き始めるくらいまででいい。
それから少しずつ、子供は子供だけの世界を作っていって彼らの世界の主役は生まれ育った家庭からどんどん変わっていく。
けれどこういうことは自分がおとなになってから気づくこと。
なので今現在、私の子どもたちが私に対して物足りない思いを抱えているのに気づいてはいても、
私はそれにこたえることが出来ない。
ここのところ次男の様子がおかしくて、そのおかしい原因に心当たりもあって。
今日、その心当たりを少しアレしてきました。
距離をおいているからといって心配しないわけじゃないし、出来ることはしてあげたいと思っているわけで。
彼がその私の気持ちを推し計りきれないことも理解した上で。
きちんと解決しそうで一安心ですけれども。
普段は頼れない…と思ってるくらいがちょうどいいのです。
本当に本当に困った時に頼ってくれればそれでいい。
そうじゃないと本当に一人になった時に困ってしまうから。
思春期になって、一気に世界が広がった彼らと接するのは、なかなか気合のいる作業でございます。
まして彼らは男の子。私の分からない、踏み込めない部分もたくさんたくさんあるのです。
このところ本当に、母親に似てきた自分を実感したりしていまして。
自分の10代の頃のことをよく思い出すのでした。


あ。親も自分と同じ人間だ。と私が気づいたのは14歳の頃でした。
中学3年の夏。ちょうど今の長男と同じくらいの頃。
次男は早々にそのことには気づいているようですが、他の2人はまだまだ…といったところ。
この時期に親離れするのが早いのか遅いのかは置いておいて、そこに気づくと親子の関係は一段階先に進みます。
そしてこれが過ぎると、おそらく子育ては一段落するのです。
なかなか手が抜けなくなってまいりました(苦笑)。


先月行ってきた占星術講座。
自分の性格をひとつ挙げて、その性格がどの星のどの配置に起因しているのかを自己分析するという課題がありました。
自己分析の結果を添削してお手紙で返送してくれるというものなのですが、そのお手紙が届きました。
今までぼんやりと把握していた事がはっきりとクリアになった感じ。
なるほどなあと実感して納得してしまいました。
自分の生まれてきた意味とか、目的とか、目指すべき方向とか。
そういう事をまた考えちゃったりした夜でございました。

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カテゴリー: 日記

君が想うよりも 僕は君が好き 2013-07-16

君を描くことが SOULの渇きを潤す
心落ち着くのは 君へのLove song
抱き合う度にほら -secret river side-
欲張りになって行く -We can’t go back-

(LOVE SONG / CHAGE & ASKA)

昼間、なんとなく昔の曲の話になって、不意に流れたYoutubeの曲がコレ。
一気に自分の10代の頃の空気感が蘇ってしまいました。
世の中には様々なエンタテイメントがありますが、
時代の空気や気持ちを瞬時によみがえらせるのはやっぱり音楽が最強だなあと思う次第。
言葉ではどうしても出来ない部分、するのがとっても大変な部分を音楽はいとも簡単にやってしまう。
こういう感じを言葉でやりたかったんだな、10代の私は。
そんなことまで思い出してしまいました。
ちなみにこの曲は、初めて聞いたチャゲアスのアルバムに入っていたんだと思う。
未だに曲が流れればそらで歌えることにも驚きが隠せないわけで。。。
ごきげんよう、たいこです。
三連休でございました。
大方家の中でぐだぐだと過ごして終わりました。
暑いしね。外。
日曜日には朝の9時から映画館に行くという、なんで休みの日にわざわざ早起き。。。みたいなことをして来まして、なんでそんなことをしたのかというと観たかった映画がその時間しかやってなかったから。
「俺はまだ本気出してないだけ」を観て来ました。
朝9時半からだったのですが(子供が見たがった銀魂が9時からだった)、さすがにところどころ睡魔に負けたのは時間のせいだと思う。。。でもそれなりに面白く観て来ました。
朝早かったので、映画観たら気力とか体力とか使い果たしまして。
そのまま帰宅したのだけれど、帰宅時間がちょうどお昼ごろ。
炎天下の真昼間に自転車ってなかなかヘビーですね。。。というわけで、
帰ってきたらシャワーでも浴びたの君?っていうくらい汗かいたよ!
あとはもう、漫画を読んだり小説を読んだりアニメを見たり。
程よく自堕落に連休を消化いたしました。
アニメは森見センセの「有頂天家族」が始まったので。
なんかもうワクワクしながら見ています。
夏になるとどうしても見たくなる「夏目友人帳」とか。
huluでは1、2が公開終わっちゃったのかな。。。見つけられずに3から見たよ。
相変わらずよいアニメでございます。
総括してよく休んだ連休でございました。


私は大抵適当でだらしないのですけれど、変なところで真面目になってしまいます。
真面目って不器用ってことじゃないのかなと最近良く思う。
真面目にこつこつとか言うけれど、こつこつやらなくてもいいような場面って実は結構あるわけで。
そういう部分を軽く飛び越えたりショートカットしてしまったほうが効率もよいし物事はシンプルになる。
これだけは押さえておかねばならないポイントを飛ばさないっていうのが、いわゆる要領が良いってことなのでしょう。
要領の良さに憧れを感じることも多いけれど、どうしても不器用になってしまう自分のことはそんなに嫌いじゃない。
で、私は自分が不器用だからなのかどうか知らないけれど、不器用な人が好きです。
不器用になってしまう感じをすごく重要視しているって感じかもしれない。
器用に振る舞えるのは余裕があるからで、そういう余裕は必要だとも思う。
けれど人が感動するときってもっともっと必死な何かじゃないかなと。
器用さ、不器用さに必死さを見出すことが悪いことなのか良い事なのかはわかりませんが、
どうもそういう基準で私は物事を眺めている。
全部が全部不器用だとこれまた困るんですけれども。
真面目であることは苦笑いしつつ愛しいなあと思う場面でもあります。


来週は中学校の三者面談。
何を言われるんだかもう今からひやひやなのでございます。
なんせ上の子は受験生なのでございます。
全然受験生らしくない受験生で涙が出そう!
なんだかんだで子どもたちが手から離れるカウントダウンが始まっている気がしています。
あっという間に数年なんて経ってしまって、彼らは巣立っていくのだなあ。
巣立ってくれないと困るのだけれども。
全然想像つかないし、心の準備も出来ない感じなんですけれどもね(苦笑)

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カテゴリー: 日記

世界は遊びとはいえない、殺し合いのようなャッチボールなんだ 2013-07-09

双子の姉の女の子と植物園に行った
やるせない娘で、やさしく美しかったが、誰もそれに気づいてはいない
気づくものか、わかるものか、わかってたまるか
だが、お前だけはわかってあげなさい
お前がかなしみにある時、彼女は喜びにある
春の夜の人のいない伽藍の底に、シンメトリに双子の少女がいて
遊びとはいえない、殺し合いのようなキャッチボールをしている
ぶつけ合っては血の色の、泣き笑いの双子の野球だ
その姉のギリギリの思いを、怒りを、やるせなさを
お前がなぜ人に伝えないというのか、このバカ野郎
俗世間にのまれたか
伝えろ! 伝えろ! 伝えろ! 伝えろ! 伝えろ! 
お前が人に本当に伝えたいことだけを、お前は今から
彼女の綺麗な魂のみを伝えたらいいじゃないか
大丈夫だ、君ならできるよ
伝道師よ
世界は遊びとはいえない、殺し合いのようなャッチボールなんだ
(GURU / UNDERGROUND SERCHLIE)

気分的なもので。
なんか色々すっ飛ばしてるんじゃないのかと空にむかって悪態をつきたくなるほど暑かったです。
通勤時はまだ朝夕なのでよいのだけれど、お昼休みに出た外の気温が殺人的すぎた。
同行していた人たちの口からも「暑い」以外の言葉が出てこない始末。
節電も大切なのでしょうけれど、エアコンがないと今年は死んじゃいそうだなあ。。
ごきげんよう、たいこです。
週末に映画を観に行こうと思い立って映画館まで行ったら満席で入れなかったでござる。
「俺はまだ本気出してないだけ」が観たかった。。。
予約して行ったほうがいいなと心に誓った土曜日。
そのまま本屋に行って子どもたちに本を買い与え、次男が所望した帽子を探してモール内をうろうろし、
うろうろし続けても一向に見つからないメッシュのキャップにしびれを切らした私は
次男をおだてまくって半額くらいになっていたパナマ帽を買い与えたのでした。
そういう帽子はまだちょっと…と躊躇していたらしき次男ですが、まんざらでもないようで。
帰宅後、
「お母さん、この帽子流行ってるの?帰りに同じ形のかぶってる人いっぱいいたね」
と、可愛らしいことを言うのでした。
それは君がその帽子に意識がいっぱい傾いているから目立つのだよ。次男くん。
彼も中学2年なので、そろそろTシャツ短パンキャップだけでなく、
ちょっとオサレなポロシャツなんかを着て出かけるようになったらいいと思う。
ただでさえ背が小さいのだから、そういう所で少し背伸びをするとよいのだ。
気づけば彼らの服を子供サイズで買うことがなくなりました。
メンズコーナーで一番小さいものを探して回るようになって思う。
「子供服ってなんてお買い得だったのでしょう。」
そうはいっても成長することは喜ばしいことで、そろそろオシャレに目覚めてもいい頃合いで、
一向にそういうものにむとんちゃくな長男に少々キケンを感じつつ。


日曜日は七夕。
子どもたちも大きいので、家で七夕飾りでわぁわぁと言うことはなくなりました。
今年は短冊見学ツアーみたいな遊びができなかったなあ。
短冊の願い事を読んで回るのが好きです。
本当に色々なことが書いてある。
SLでは七夕を多少意識した笹のアクセサリを作りました。
笹の小枝に短冊と輪飾りがついているようなもの。
短冊にはお願いごとを書くものですが、アクセサリに私のお願いごとを書いて売っても仕方がない。
色々と頭をひねっていくつかの言葉と絵をかきました。
いくつかは元ネタありきで。
「これでいいのだ」だとか「痴漢は死ね」だとか。
死ねという言葉が強いので、一瞬躊躇したのですけれど元ネタであるところのゴールデンスランバーでは、
この言葉がすごく素敵な役割をするのです。
本当に素敵で、私はこのフレーズが大好きです。
それは、この言葉を作り上げた小説の中の主人公のお父さんのキャラクターを如実に表したものでもあり、
その姿勢は本当に、感動するものなのです。


人は誰でも幸せになる事ができる。
幸せになることに権利など必要がない。
そして、幸せのかたちは千差万別だ。
「資格がない」と言ってしまうことは、そこで自分の人生を投げ出していることになる気がする。
幸せであるということは、とりあえず今までの今の自分の生きてきた道と今の自分の現状に納得しているということ。これでいいのだ。と思えるということ。
そう思えないのならば、すぐさまそう思えるように行動するべきだと思う。
幸せになりたくない人はいないと私は思う。
だからそれを「資格がない」と投げ出すことは自分に嘘をつくということだ。
幸せになるということは、それまでのすべての自分にきちんと落とし前がついているということだ。
終わったことは終わったことで、そこに確かに罪があろうとなかろうと人は明るい方向へ行きたがるものだと思う。
そこに乗っかっている重石が大きいか小さいかというほどのものだ。
人は反省することのできる生き物で、反省したらすべてがチャラになるわけではないけれど
反省しなければ過去のあんなことやこんなことは昇華することができない。
誰からも好かれようとか誰からも恨まれないとか、そういう生き方は絶対にできない。
生きていれば誰かとかかわらざるを得ず、関わってしまったら事の大小に関わらず、
どうしたって影響を与え合ってしまうものだ。
そこには嬉しい影響もあればありがたくない影響もある。
そしてその影響は、どんなものでも自分にフィードバックされる。
私は自分の近しい人が、自分の幸せを諦めるなんてことは絶対に嫌だ。
自分の幸せって自分だけにしか見えないものだし、その望みで誰かを決定的に傷つけてしまうこともある。
かくいう私だって、子どもたちからしたらとんでもないことをしでかした母に違いない。
彼らは父親のことだって愛していたのだから。
まだまだ親という存在が必要不可欠である年代に、子どもたちから父親を取り上げてしまったのだから。
私側にどういう理由があるにせよ、子どもたちにとって「父親がいない」という事実に変わりはない。
離婚したときはすごく反省したし、ダメになった原因だって考えてみた。
そうして少しずつ自分を修正して、今がある。
物事は捉えようでいかようにもなる。
色々あったけど満足だ。と、死ぬ直前に言えるような感じになりたいなあ。

世界は遊びとはいえない、殺し合いのようなャッチボールなんだ はコメントを受け付けていません
カテゴリー: 日記