サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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君を許してあげるよ 僕のために 2012-08-31

今になってあのときのあの人の気持ちがわかるから
後になって今の君の気持をわかることにするよ
いつまでもずーっと生きてても死んじゃってからも
僕にはわかんないことまだまだまだまだある気がするよ
(学習/たま)

こうやって学習して丸くなっていく過程で、大人になったり優しくなったりずるくなったりする。
大人も優しいのもずるいのも同じこと。
ゼブラーマンは「白黒はっきりつけてやるぜ」って言うけれど、
白黒はっきりつけられる世界だったら息苦しくて窒息してしまう。
この世の中には白と黒が微に入り細に入り入り交じってしまっていて、
それぞれが玉虫色に光るものだから、
どれが黒でどれが白やらわからないというのが本当のところでございます。
あなたと私の立場が違えば、見えている白が黒に逆転することだってある。
グレーは優しさで、グレーはずるさ。
観たこと感じたことをその場で結論づけないで、保留して置いておいてみるって事は大事だと思う。
ごきげんよう、たいこです。
まあ、玉虫色に光っているとなかなかそれの本質が見えなくて判断しかねたりします。
人は機械ではないので何度だって失敗するし、失敗した時の学習能力だってその都度その都度で違うのです。
昨日「大嫌いだ」と思った人を明日「好きだ」と思うこともあるのです。
昨日まで風景の一部だった人がいきなり私の人生の準主役に踊り出る事だってあるのです。
今日の本心が明日の嘘になることもあるのです。
それは嘘をついたことになるんだろうか?
口ばっかりで行動が伴わないことは、やる気がないからなの?
やろうと思ってもどうしても心や体が動かないってことはないの?
ま、結果的に口ばっかりなんだけれども。そしてこれって甘えだとも思うけれど。
甘えっていけないことなんだろうか。
甘ったれる事はダメなことなんだろうか。
ストイックに生きていればいいんだろうか。
自分にはどんどん厳しくするべきなの?
甘ったれて甘やかされてお鼻が天狗さんのように伸びる経験がなければ、
お鼻が天狗さんのようになった時の気持ちはわからない。
天狗さんみたいになってるのはお鼻だけで実がないことと、
その鼻に合わせて自分の身の丈を伸ばそうとすることと、
そんなことは自分以外の人が見ていたらわからないかもしれない。
きちんと甘えられなければ甘えんぼがこじれて甘ったれになる。
きちんと甘えることを知っていても、井戸の外に出たがらずに甘ったれに甘んじることもある。
世の中にある無数の悲しい出来事、辛い出来事。
それがなくなったら私たちはバカになる。
しかしバカであることは悪いことなのかと問われると、それもわからない。
無垢であることは時に強烈に人を傷つけるし、
薄汚れてしまったからこそ滲み出る優しさもある。
逆もある。
白と黒なんてない。
きっちりはっきり分けられるのは、自分自身がそういう基準を持っているからだ。
そしてその基準は、他の誰の基準ともぴったり合わない。
よかれと思ってしたことが、相手を追い詰めるだけだったり。
自分の思い込みでしかなかったり。
そういうことを考えると、何もできなくなります。
私のしてほしいことを相手にさし上げて「私はこういうものが好きですが貴方のお気に召しますか?」
って言うことを繰り返してやっと相手の事がわかってくるのだと思う。
とっても時間が掛かる。
そういうふうに人と繋がりたいなと思う。
そしてそういうふうに繋がれるように振舞っていると思う。
時々その行動が奇特に見られてしまう。
けれどそうするしかないから仕方がない。
人のよい面を見ようとする事は悪いことじゃない。
頭から人を信じてしまう事は良いことじゃない。
なぜ頭から人を信じてしまうことがよくないのか。
人は裏切ることもあるからだ。
でもそんなことを言ったら、信じられる人なんてひとりもいなくなってしまう。
信じて裏切られた責任は自分にある。裏切った相手にあるものではない。
自分が傷つくのは自分の責任である。だって相手は傷つかない。
痛い思いをするのが嫌なら、それなりの方法を考えて自分を守るしかない。
だから私だって頭から人を信じているわけじゃない。
だいたい私は「信じよう」と思ったって絶対に人のことなんて信じられないのだから。
それは私の意識できる範囲の外の話なのだから。どうにもできない。
人を信じることと、その人のよい面を見つけることは別なのだけれど。
誰にだっていい面はある。
そういうものを拾って集めることは、きっとずっとやめられない。
綺麗事を言っているように見えるだろうなと思う。
私の中ではそんなに綺麗なことでもないのだけれど、そこが伝わらないのはきっと当然だ。
すべて肯定するのは、そうしないとその先を知ることが出来ないから。
肯定することと受け入れることは全然違う。
嫌いな人にだっていいところはたくさんあるのです。


何があったわけではないのだけれど、久しぶりに勝手に指が動く感じで文章を書いてしまった。
本当に何もない。ただ若干バカになっていますが、それはまるで関係のない出来事。
上に書いたような物事は、ここ数カ月の私のテーマなんじゃなかろうか。
ちょっと昔からすると考え方が少し変わったなあ、、、と、書きながら納得してみたりしました。

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カテゴリー: 日記

砂上の 楼閣を大事に壊さぬよう 見破ろう僕らは 巻きこまれぬ力を 2012-08-29

うつろな この世界に だけども 生きるなら
かいつまもう 僕らは 傀儡に ならぬよう
天秤にかけあって 出会いを許されて
いい方へころがれ ころがって 抱きあって
(ルーズ ザ ウェイ/特撮)

学校がはじまりまして、休みボケ満載な子供たちは毎日のように寝坊して遅刻して学校へ通っています。
休み中の夜更かしグセが抜けないようで。
毎朝毎朝足りない何かを探して家の中を引っ掻き回して出かけます。おそろしい。
更に恐るべきことに、いまだに夏休みの宿題が終わっていません。
困ったもんだよ本当に。。。
という母親らしい出だし。
ごきげんよう、たいこです。
最低限の自覚は持っていようと思うのですが、普段はあまり母親の自覚とかがないみたいです。
36歳の自覚もあまりありません。
年齢を感じるのは、体力の衰えを感じた時くらい。
5歳児にかけっこで負ける、とか。
10歳の娘の肌の綺麗さを実感した時とか。
ついこの間、年下の友人に「たいこは幼いからなあ」って言われました。
私のある一部分はどうしようもなく幼い。
自覚もしているし時折情けなく思うこともあるけれど、
今のところどうしようもない部分だったりする。
自分でも呆れるくらいに子供なのでありまして、
そういう感情を満載に抱きながら、オトナな自分が自分に突っ込んでいるという。
しかしこの、子供の気持ちって止められないものなのでしょうか。ね。


どう考えても私はひとりでは生きていけない気がする。
日々のなんでもないことを報告したり話したりする人がいなくなったら、
私は自分がどうして生きているのかわからなくなってしまいそうだ。
私の生きている喜びは、自分に起きた楽しい出来事・楽しくない出来事・悲しい事・辛い事・
面白かった事・腹が立った事・感動した事、
そういうすべての事を誰かと共有することだと感じているから。
そういうことが出来ないと、あっという間に私の心は砂漠化するのです。
自分のどうしようもなさ、幼さ、嫉妬深さ、溶けてしまいたい欲求。
そういう、わかっているけど押しとどめられない困った部分は、できるだけ理解しておこうと思う。
外に出せば迷惑がかかり、押し留めれば破裂する。
ならば、自分だけが認めて慰めてあげるしかないのかもしれないなあ。
まま、それでも。
そういう気持ちをわかってくれる人のことを、きっと心の奥のほうでは求めているのでしょうけれど。
アダルトチルドレンなんだと思うのですよね。
甘ったれをこじらせた感じ。
これっていつか治るんだろうかね。。。

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カテゴリー: 日記

まだぼくは君を 恋してるのかもしれないなんて 思いちがいをして 2012-08-27

サーカスが来ると 二人ドキドキして
「まだぼくは君を」なんて
「きっとうまくいくわ」なんて
つなわたりみたいに
(サンフランシスコ/筋肉少女帯)

思い違いか思い違いじゃないかなんて誰にわかるというのでしょう。
思い込みと勘違いと性欲がぐっちゃぐっちゃになったものが恋だろう。
とか言っちゃうと身も蓋もありません。でもきっとそんなに間違ってない。
メジャーすぎるくらいメジャーな曲ですが、やっぱりいいものはよい!!!!
というわけで、とっても好きな曲です。
オセロで一発大逆転みたいな、1つの駒を置いたらぱたぱたぱたっと色が一気に変わっていくような、
ここ数日はそういう気分を味わっています。
周りに心配をかけつつ、若干の迷惑をかけつつ、それでも楽しく過ごしています。
心配をかけること自体はいいことではなかろうと思うのですが、それでも心配をしてくれるってすごく嬉しい。
そういう心配を感じて、それを自分の安心材料にしているところは、ある。
心配や迷惑をかけないようにしよう、というのも大事な心がけですが、
そういう心がけのうえで、あえて心配かけたり迷惑かけたりするのが本当なのじゃないかなと思う。
人って強いところではなくて弱いところでつながるものなんだなぁっていうのも最近感じること。
「あなたが落ち着いて楽しそうにできている事だけが大事なんだよ」と言われる事が度々あって、
素敵な言葉だなあなんて思ったりもしています。
そんなこんなでかろうじて片足だけは地面に足がついてるよ、といった風情の昨今。
それを一般的には浮き足立ってるっていうんじゃなかろうかと思ったりもするけれど気にしたら負け。
つま先立ちくらいで日々暮らしているのがデフォなので、片足までならセーフだと思う。
そんな感じでギリギリセーフ(だと信じたい)な勢いで今日も元気に綱を渡っています。
ごきげんよう、たいこです。
SLでは大小織り交ぜて結構な数のイベントをこなしています。
そして最大のイベント(自分の中で)が本店のお引越し。
やりたいことはあれこれあるのだけれど、なかなか頭が働きません。
オススメされてる映画も観たいんだけれど、なかなかそこまで手が回りません。
ああ、映画観たい。。。
それと並行して、浅田次郎のプリズンホテルを読み返したり。何度読み返したかわからないし、
本もシミだらけなんですけれどもやっぱり面白い。
乳飲み子抱えつつ家で読んでいた頃はもう10年近く前なのでして。
そろそろ昔の本を色々読み返すタイミングなのかもしれません。
一度読んだ本を読み返すと、不意に自分が成長したこととか変わったところとかがわかるから。
お勉強もしないといけません。
今のままの漠然としたやり方だと全然だめなんじゃないかと思えてきた。
とりあえず暗記すべきところは暗記してしまったほうがいいのか(いやそれも莫大な量なんですけれどもね。。)
何度も何度も繰り返してふんわりと頭の中に入れるべきなのか。
しかし占いなんていう一見ヤクザなお仕事に向かっているわりに、周囲の人たちや家族の見る目が温かいのが救い。
母もびっくりはしたようですが前向きに見守っているようです。
この先なりたいもののために今やるべきこと、今やりたいこと。
全部は出来ないから少しずつシェイプしていくべきなんだなと。
趣味の部分では新しいものに手を出すのを控えようという心の動きが。
情報を仕入れるから欲しくなるのです。
情報を遮断すれば物欲は収まるのです。
初夏から今まで、色々な事が変わりました。
結構長い時期でしたが転換期だったんだと思う。
この期間、なんだか試されてるなあと感じることが多々あって、それが終わったのか、まだ続くのかはイマイチよくわからないのだけれど、いずれにしてももう少しすると少し見晴らしのいい場所にたどり着く気がする。
やっていたのは地盤がため。
巣作り。
自分が依って立つ場所の確保。
そんなような事のように思います。
地盤が固まるまであと少しかかりそうですが。
まだまだ色々な人の声に耳を傾け、咀嚼して飲み込む余地はありそう。
けれど、5年前に感じていた拠り所のない、正解も不正解もわからないあの不安な感じはもうない。
正解も不正解も、決めてきたのは自分自身なんだけどね。
早くおうちに帰りたくて仕方がない月曜日。
まだあと半分のこってるよ。。

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カテゴリー: 日記