サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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とんび 2011-11-23

お休みは嬉しいけど、1日ってすごくあっという間に過ぎていく!
もう明日は仕事なのです。切ない。
私はどれだけ仕事が嫌いなのか。
仕事が嫌いなんじゃない。通勤が嫌いなんだ。
ここ数日、ゆっくり読み進めていた小説が佳境に入っていたので、
朝起き抜けに布団から出ないままに読了。
ここ1年くらい食手が動かず読まないでいた重松清。
一度読み始めると、「もっともっと」ってなっちゃう作家さんだったりします。
重松サークルが巡ってきたみたいで、こないだの「せんせい。」から続けて2冊目。
「とんび」とは、「とんびが鷹を産む」のとんびのこと。
昭和30年~40年代くらいに生まれた人たちの、お父さんお母さん世代が主人公の「とんび」。
家族に縁の薄かった「とんび」のヤスさんに子どもが出来るところから物語は始まります。
不器用な男の子育て奮闘記みたいな小説なのですが。
ヤスさんは不器用で、ものすごく不器用なのだけれど、そのぶん考えて出てきた答えがまっすぐ。
世の「既婚者だけど恋したい」みたいなうわっついた事を言ってる無責任既婚者はぜひ読むといいと思う。
既婚者は恋愛しちゃいけません。結婚っていうのはそういう契約です。
しちゃいけないことをするならば、精一杯コソコソしてて欲しいと思う。
そういう部分を開き直られてしまうと、「責任って一体なんなの?」という気持ちで胸がいっぱいになります。
さて、小説のお話に戻って。。。
「鷹」であるところの愛息子は、ヤスさんとヤスさんの周りの人達の愛情を一身に受けてすくすくと育ちます。
そりゃーもう、出来の良いいい子に育ちます。
ほんとうにもう、びっくりするくらいいい子に。(しつこい)
幼児だった息子が小学生になって、中学生になって反抗期がきて、親の元から巣立つ。
私の子育ては今、ちょうど反抗期くらい。
この反抗期が抜けると、オトナになるまであっという間だよなぁ。なんてことはですね、
常日頃考えている事です。
18歳で子どもが家を出ていくとしたら。
我が家の13歳はあと5年でその年齢になってしまうし、そうすると立て続けに下の子たちもそんな年齢になってしまう。そう考えると、私の子育てってもう折り返し地点過ぎているんだよなぁ。。
ただいま絶賛声変わり中で、身長も追い抜かされ気味なのですけれど、
私は女でその中でもことさら身長が低いのでね、男の子である息子たちが私の身長を追い抜かないわけがなく、
それを悲しむつもりも何もなかったんだけれど。
やっぱり身長抜かれるってちょっとしたショックなんだよなぁ。というのは、実際に追いぬかれはじめて気づいた事。
子どもが大人になることは喜ばしい一方で、とても寂しいことでもあります。
ましてやヤスさんの息子は、「鷹」なので。
とっても優秀なのです。
あっという間に色々な面で父を追いぬいてしまう。
ヤスさんはその一つ一つと、まじめに不器用に取っ組み合いをしながら、ヤスさん自身も成長させていく。
とんびと鷹の家族を中心に、様々な家族の姿も描かれています。
そのひとつひとつがいちいちグっと来てしまう。
現在子育て中の人が読むと、自分の親としての来し方ゆく方を早回しで見せられている気分になる小説なんじゃないかなぁ。
そして、色々な事情で親の愛情を受け止められず、受け止めきれずに育った人たちも、きちんと親になれるよーっていう、相変わらずの苦い希望が満ちているお話でした。
そして私は、子どもだけのためにはやっぱり生きられない!っていう結論に達するのです。
この13年間があっという間だったように、残りの10年間もきっとあっという間。
(我が家の末娘は9歳なので、彼女が独り立ちをするまできっとあと10年)
その時に自分が寂しさに打ちひしがれないために。
やっぱり、私はひとりでその残された長い時間を過ごすことって厳しいと思う。
ここのところ、本当に色々な事柄が頭の中を渦巻いておりまして、
このままじゃいかんのじゃないかと漠然と考えたりしておるのです。実は。
少しまじめに自分の日常を見つめなおさないとなぁ。
このままじゃ何もかわらない気がするし、それじゃだめなんだよねー。と、
重たい腰に「ほれあげろ、がんばれ」ってやっているところでございます。
大事なところをぼかして書いたらなんだかわかんない話になった気がしますが、
そこが自分でもまだはっきりしないのだから仕方がない。
しかし、漠然とした不安が年々強くなっているのは、これ、どうしようもない事実だったりするのだよなぁ。。

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カテゴリー: 日記

どっちを選べど 獣のように生きるしかない 2011-11-22

とぼけてばっかり人生を
猫見たり 犬見たり 善 悪
猫見たり 犬見たり 炎 水
猫見たり 犬見たり WHITE RED
猫見たり 犬見たり LOVE DEATH
(アベルカイン/特撮)

会社ってのはなんであんなに節目が好きなのでしょうね。。って別に好きなわけじゃないのはわかってる。
そんなわけで、1年の上と下。
私の会社はこの時期がその境目なのでございます。
大きな数字は苦手なんだよ。
だのになぜか毎日大きな数字とにらめっこして格闘しています。
明日はいいかんじに勝てるといいのですが。。。
びっくりするくらい眠たくて、日曜日は日付が月曜日に変わる頃に就寝。
だのに今朝は7時に起きられず、気づけば8時。気づけば頭痛。
痛む頭を薬でごまかしごまかし、1時間遅刻して出社したんですけれどもね、
出かける前にぼけっとした頭で、「スカート履こう」って思ったんですよ私。
「じゃあレギンスレギンス…」ってレギンス履いて、なぜかその上にパンツ履いたわけで。
スカートついてるパンツなんだけども。でもパンツじゃん。レギンスいらないじゃん。そういう服じゃん。
レギンス履きっぱなしじゃん!って気づいたのは出社後でした。
自分で自分にびっくりね。
ハイソックスまで履いてるし。真冬かよ!
このボケっぷりの尋常じゃない感じが静かに恐怖で、そして情けないです。
コート裏表で着て出かけてしまったり、シャツ後ろ前に着てしまったり、
なんだかこう、しょっちゅうそういうことがあると本当に怖いです。。。
大丈夫なんだろうか私。
ごきげんよう、たいこです。
日曜日に久しぶりに落ち着いてチャットなどを。
真面目な話をすることが嫌いだっていう事をいう人は結構多めですが、
真面目な話をすることが嫌いなのと、真面目な話ができないのとでは大きく意味が違ってくる。
真面目な話が嫌いな人は別に問題ないけれど、
真面目な話ができない人とは私はなんだかうまく仲良くなれないのです。
私が真面目だから?(投石禁止)
私は自分のとっている行動や人とのつきあいかたが、時々周囲の人の理解を超えることがあるってことを理解しています。
世話を焼きすぎるとか、無理をし過ぎているとか、面倒見がよすぎるとか。
要するに無用心に人を自分の内に入れすぎるってことなんだと思います。
俗に言うずるい人達にいいように使われているように見えている場面があることも、理解しています。
そして自分がその時に関わっている距離の近い人に影響されやすいこともわかってる。
この行動のせいで、幾人かの人に多大な心配をかけたり、やきもきさせたりしていることもうっすら理解しています。
私がいくら「心配しないでくれ」と言っても、それは意味のないこともわかっている。
危ないところにいる人は、みんなそんなことを言うから。
そして、危険な状態にいる人ほど、周囲の意見を聞き入れないから。
そういう人を何人も何度も見てきて、関わってきているからわかる。
実は、2,3年前までは、自分のことを深く理解してくれている人がいないことがとても寂しかったり、
ものすごく距離の近い人間関係が今現在の自分にないことが心細かったりしていました。
私は、30歳になるまでは、人が羨むような、一部の人からは気持ち悪がられるような、ベタっとくっついた人間関係を育んでいました。
あれが依存だったと気づくまでに、3年くらいかかった。
そういうのじゃない人付き合いをしようってリセットしたのが30歳なんですね。
そういうふうに決めた頃に知り合った、大切な友達がいます。
まだ続いています。私は彼女のことを勝手に親友だと思っています。
彼女は私と生きてきた道筋が似ている、けれど考え方や性格、行動はまるで違う人。
だから、彼女が私のことで感じる怒りや何かは、いつだって少し私の気持ちとズレている。
ズレていても、彼女が真剣に私のことを思って、私の代わりに怒ってくれているのを私は知っている。
だから、すごく嬉しかったしありがたかったし、なにより、
「私のかわいいたいこを泣かせるなんて!」
って怒ってくれるところが本当に好きだった。いや、今でも大好きですけれども。
でも最初はね、そのズレがどうしようもなく寂しかったりしたんです。
まるで自分の分身のように共感してくれる人が今、私にはいないってことが。
けれどそういう付き合い方をしたくないって決めたのも自分で、だからこの寂しさは私の甘い部分だなぁ。
なんて事までも考えつつ、その寂しさややりきれなさと戦って、気づけば35歳。
今現在の親友である彼女は、私の言動を理解できないまま、それでも私の行動を否定しない。
理解できない、とは、共感できないというほどの意味です。
「それでもたいちゃんが考えて行動してるんだから、めったなことにはならないだろう」
という、これは私に対する信頼。
一緒になって分身みたいに共感してくれるより、こちらのほうがずっとずっと心強いと気づいたのはつい最近のことです。
今、私にそういうふうに接してくれる人は、件の親友を含めて何人かいて、
実は私の中で、この人たちはものすごく大切な人でもあります。
今、自分で選んで仲良くしている人たちはですね、私にとっていろんな意味で大切な人たち。
得るべきものが沢山ある人たち。
私の人の関わり方は、本当に心配されるようなものだと分かっているのだけれど、
でも実は心配いらないんだよ、ってことをわかってくれている人は、少ない。
それは当然だと思う。
普通はそこまでしないよ、とか、常識的に考えてそれはないよ、とか、
それっていいように利用されてるよね、とか、
そういうレベルの話だったりするから、心配するのも訝しむのも当然だと思っている。
自分というものが、みんなそれぞれの入れ物に入っているとするならば。
私の入れ物は水のカーテンのようなものなのじゃないかなと思う。
入れ物の中も水。
入るのは簡単だし、出ていくのも簡単。
中も水だから、入ってきた人の要素が簡単に溶けでてしまう。混ざってしまう。
どんな色にでも染まるし、どんな形にもなる。
けれど、水は土になることはないし、金属になることもない。
水にどれだけ土を混ぜても、それは土にはならず、泥水になる。
私は、私という器のなかにどんなことが流れこんで来ても、どんなものが接触しようとも、
私であることは絶対に変わらないと思っている。
何があっても、誰が入ってきても、出て行っても、私は私。
私は私である、ということだけが変わらない。
この部分を説明するのはすごく難しいので、説明しません。っていうかできません。
私は言葉で何かを伝えたい、表現したいとつよくつよく思っているにも関わらず、
言葉を操るのが非常にへたで、感じていることがうまく言葉にならない。
敢えて言葉にしようとすると、とっても抽象的でなんだかわからない感じになってしまう。
日常、様々な人と関わって生きていて、常に色々なことを感じていて印象を持っているのだけれど、
それが本当に言葉にならない。だから、説明が出来ない。
これは自分のこともそうだし、誰かに対してもそう。
もどかしいことこの上ないし、確か私は20歳くらいの頃、
そういうものたちをどうにかこうにか言葉で表現してやろうと文章を真面目に書き始めたのです。
だのに、歳をとるにつれ、表現出来ないっぷりは加速していくばかり。
泣ける。
話がいつものようにとっ散らかりましたが。
私は自分を理解する誰かなんていないと思っています。
誰かを誰かが理解するなんてことはできないと思っています。
理解したと思っても、それはただの解釈のひとつだと。
沢山の誤解の中に、偶然正解が混ざってる程度のものだと思っています。
でもその正解すら、正解なのか不正解なのかは、本人にだって分からないんだと思う。
それでいいんじゃないかと思う。
理解したと思うのも幻想、理解されたと思うのも幻想。
そんななんだかわかんない中で、大事にされてるなって思う瞬間があれば、それでいいよねー。
私の数少ない人間関係の中には、そんな感じの大事にされてる感、結構あります。
そういう思い込みだけで、案外人って幸せになれるんじゃないのー?
ここまで理解されることについて考えているのはですね、
ここまで書いておきながら、それでも、心の中では、自分のすべてを理解されたいと望んでいるから。
その願望が人一倍強いから。
私の人に対する色々な行動や思いは、突き詰めていくと全てこの一点に集約される気がする。
ああ、なんだかオトメですね。乙女っぽいですねこれ。
秋らしく乙女っぽい感じが出たところで締めよう。そうしよう。

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カテゴリー: 日記

彼女にはもうこうするしかないのだ 13階の屋上から身を投げること 2011-11-17

でも彼女はとびおりずにすんだ
みんなのうまい口車
死ぬなんておよしなさい
とにかく今はとにかく
(13階の女/長沢博行)

月曜日まであんなに眠たい病気だったのに、火曜日にものすごい夜更かしをしました私です。
楽しくてついつい夜更かしみたいな話で。ええ。
もう35歳にもなるのにこんなことでよいのでしょうか。ね。
こんなこと書きながら、全然悪いと思っていないんですが。
楽しいことはよいことだー!
いっぱい寝たってちょっとしか寝なくたって、お昼ごはんを食べたあとは強烈な眠気に襲われるのです。
昨日も意識吹き飛ばしてた時間が1,2時間ある。エクセルは眠くなるんだ仕方ない。
昨日の午後はうちのボスも集中が切れたらしく、大暴れをしておりました。
仕事中にマジックアワーのデラ富樫の真似をし続ける大人ってあんまり出会えないと思う。
ずっとこの、おてて拳銃してたよ。。。会社の人間を撃ちまくっていました。
さらに「僕のことは今後、「デラ」って呼んでください」って宣言する始末。
なんてカワイイ上司なんだ。
こういう面白い事をする人間っていうのは、芝居やコメディを見ているとよく出てくるわけで、
むしろそういうものの中ではありきたりの人なわけですよ。
芝居の中にこういう人物が出てきたとしても、ものすごく面白い事態にはならない。
けれど実際の暮らしの中でこういう人物に出くわすと、それは、強烈に面白い出来事なんだよねえ。
何が言いたいかっていうと、日常の面白いことって後で話にしたときには面白さが伝えきれないっていう事。
残念でござる残念でござる。
ごきげんよう、たいこです。
一昨日、様々なセクシャリティを持つ人達とチャットをして遊びました。
ゲイのお兄さんとバイのお兄さんに、沢山ほめられた気がします。
「たいこちゃんが男だったら本気で惚れてるのに!!!!」
って。
私も女友達に何度となく言った言葉ですよ。「男だったら惚れてるのに!」って。
ゲイのお兄さんに言われるのは納得しますよ。えぇ。えぇ。
でもバイのお兄さんに言われるのはどうしても納得がいかなかったんだ……!
それ褒め言葉じゃないだろっっっwwwww
実は男っぽいとか男らしいとかいう言葉は、それこそ中学生の頃から言われ続けてきました。
最初に私にその言葉を投げたのは、中学1年の時の担任の先生。
ある部分は女らしくて、ある部分は男らしい。素晴らしい。
と。
えぇ、私はその教師にとっても好かれていたんです。
でも残念なことに私はその教師が好きになれなかった。
なんか生理的に。
生理的に嫌いになってしまうことに理由なんかないけれど、あの感じは自分の思うよりもずっと近くに担任が入り込もうとしたからなんじゃないかと思う。
ああ、話がそれた。
その教師が言ったその言葉は褒め言葉以外の何者でもない。
自分ではその「男らしさ」が自分のなかのどの部分なのかよく分からないんですが。
けれどその後も幾度となく、「男らしい」という言葉を投げかけられ続けているのでですね、
きっと私は男らしいんだと思う。
しかし、自分のなかを覗いてみると、やっぱり主成分は女なわけです。
私は21歳で結婚したため、若い内に結婚してしまった女子特有の「乙女っぷり」もかなり沢山持っています。
若いうちに結婚して、恋愛から遠ざかった人って多かれ少なかれ乙女要素沢山持ってる気がする。
そして恋愛に対してものっすごい不器用な気がする。
私も周囲の人間が感心するくらい、恋愛のことになると不器用です。
恋愛にならなかったらあんなに器用なのになんで???とかよく言われます。
だってしょうがないじゃない!色恋方面の魅力に関しては、他の部分とは比べ物にならないくらい自信がないんだ!
頭の中には1年中、アブラナの花が咲き乱れているわけです。
なんかもうそれは、残念な乙女という以外の形容詞が当てはまらないのです。
乙女はメンズになれない……!
という思いと、
結局私ダメなんじゃねーか?
っていう思いとで色々と考えてしまった夜。
いやでも嬉しいんですよ。基本的には。褒められることは嬉しい事なのです。
こういうところで考えこんでしまう自分も可愛い。って思ってしまう私はきっと救いようがない。
さておき、こうして遊んでくれる人たちがいることは素直に嬉しい。
なんかそのあたりでも最近考えること、思うことが多いので、
こんな私と遊んでくれてありがとうございますと、心のなかでは頭下げまくってるわけです。
しかしだ。
ここ何年、遊んでくれる人たちが軒並み20代っていうこの事実。
「この人は年上だろう」っていう気分で仲良くしてた人が思った以上に若かったのは軽く衝撃でした。
しかし、そういうことがあるから人付き合いは楽しいのです。
落ち着いて話すことが出来る安心感。
色々考えなくていい気楽さ。
なかなか得難いものなので、出来れば大事にしていきたいなぁと思うのです。

彼女にはもうこうするしかないのだ 13階の屋上から身を投げること はコメントを受け付けていません
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