サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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振り返って「ああ、不幸だったんだなあ」と思う今は幸せだろう 2011-02-15

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ごきげんよう、たいこです。
なんですか世間はバレンタインですか。
ついったーも朝からチョコの話題で山盛りでございました。
SLの中はそれこそバレンタイン一色でしたねー。
SLだもの。
そんなこんなでバレンタインも無事に終わりそうなあと14分。
私は例年になく、チョコレート的なものとは無縁で過ごしました。
いつもだったら子供には差し上げるのですが、
なんかもう雪とか雨とかで買い物に行く気力も失せました。
病み上がりだし。
むしろまだ治ってないし。
人の肌ってのは理屈じゃなく気持ちを安定させる効果があると思う。
頭をなでられると、どうしてあんなに安心するのでしょう?
素肌同士で触れ合うと、なぜあんなに心がほどけてしまうのでしょう?
なんつって、そんな記憶は遙か昔なのだ。
そう、そのはるか昔だなあ、というところから色々なことを思い出してしまった私は、
不意にものすごく落ち込んでしまったのです。
対象がいない(独り身である)時に満たされないことと、対象がいるのに満たされないことでは、
後者のほうがずっと寂しい。みたいな事を。
それを吐露したところでどうなるの?という気持ちと、
うまいこと形に出来ないなぁ。という気持ちと。
ここのところ心の中が無駄に引っ掻き回されて困ります。
そのなかにあるのは、不安。恐怖。自分の自分に対する信頼のなさ。
強くなった気がした時期もありますが、ちょっとバランス崩し始めるとですね、
自分でもびっくりするくらい脆い事に気づきます。
まあ、みんなそのような物なのでしょう。
何かの拍子に蓋が外れると、ぶわっと溢れ出してくる過去の記憶と、今だから気づくいろんなこと。
または、忘れていた思い出したその当時の気持ち。
器用になったりずるくなったりって、ある程度痛い目を見たら当然覚えることなんだけどさ、
その分確実にチキンになってるよなーと実感してみたりするわけですよ。
それは、その分賢くなったとも言うんだろうけど。
連休の最後の日、母と子供たちと3世代揃って浅草にいってまいりました。
マイヤーさんとも合流して楽しく過ごしたのですが、
そこで久しぶりにおもいっきり母からのダメ出しを食らう34歳。もうすぐ35歳。
母の言うことはいちいちもっともで、
しかしそれはそのまま母にも言える話だったりするのでなんだか困っちゃうのです。
そう、そういう事が簡単に出来ていたら、私も母も無駄な苦労はしないのですよ。ね。
母の歳になってすら、うまくいかない。
それはなんか、レベルあげるのにすごく難しいというような物ではないのですか。
これを乗り越えなければ、なんだかいい感じになれない気がしている昨今。
賢くなることと、弱くなることと、ずるくなること。
まっすぐであることと、愚かであること。
ここの見極めってすごく難しいですよね。
ずる賢くなってしまえば、なんだか逃げるような気がするし。
都度都度まっすぐ向きあえば、それはなんだか学習していない気がするし。
気持ちのまま、まっすぐに生きることができたらそれはとても綺麗に見えるのだろうけれど、
幼い行為は無用に人を傷つけたりするもので。
人を惑わせたりするもので。
悪意がないからなお悪い、という話もあるわけで。
なんでこんなややこしいことを考えているのかと自分でも突っ込みたい。
しかし、こう立て続けに色々と考えざるをえない状況があるということは
きっと今は考えなさいって何かの神様が言ってるんだろうなとも思うので考える。
ああもう全部捨ててしまいたい!と、面倒な気持ちになるのは、
これ、逃げでしかないですね。
こうやって逃げたとしたって、問題は先延ばしになっただけなので。
考えるだけでうんざりするような、これから先の色々なこと、楽しいはずのこと。
考えないで素直に浮かれていられたら、どれだけ楽なことでしょう。
しかしそれを許さないのも私。同じ私自身。
私が面倒臭いことが嫌いなのは、自分自身が一番面倒臭いと分かっているから。
その面倒くささを今、いやって言うほど味わっております。。。
うまーく乗りきれるといいんだけどな。
それにはもう少し肩の力を抜いたほうがいいのはわかってる。
わかっているから出来るって話でもないのがこれ、現実の痛いところでw
昔のことを思い出して、心が痛くなってしまった理由はきっとふたつある。
せいぜいあがくことにしましょう。出来るだけ頑張ってみましょう。私。
きっとそのうちいいこともあるさー。

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カテゴリー: 日記

やさしさってなあに? 2011-02-12

ごきげんよう、たいこです。
気分はすっかり土曜日なのですが、まだ金曜日なんだよねーーーー!
三連休って素晴らしい。
私まだウイルス性胃腸炎が完治せずにうだうだしておりますが。
医者の言うことも聞かずに、ちょろちょろと物を食べては一進一退を繰り返しております。
……食べないとお手手震えるんだぜ?
で、今日は思い立って携帯を機種変してまいりました。
みんなが持ってるiPhone!はキャリアの問題で見送りまして、なんせ我が家には4台のドコモケータイがあるわけです。ええ。。。
ドコモのスマホといえばぎゃらくしーなわけで。
シャープと少し迷って結局ぎゃらくしー。
なんだかんだでこういうものをいじっているのは楽しいです。
アプリのほとんどが英語なのはもうしょうがない。馴染め。慣れろ。俺。
パソコンデスクに座って携帯をいじる、というよく分からない感じで1日を過ごしました。
まるで新しいおもちゃという感じですが、この熱はいつまでつづくのでしょう。
スマートフォンに夢中になっているオトナの気持ちがよくわかった1日でございました。
さて。
私昨日仕事の合間にですね、優しいってのはどんなもんなんだと考えていたわけです。
あなたは優しい人ね。とか、私もとってもよく使う言葉。
私は優しい人が好きだし、優しい人になりたいとも思っていたりします。
優しいのとずるいのは似てる。
優しいのと甘ったれるのも似てる。
私は出来ればずるいことは最小限にしたいし、
甘ったれるよりはきちんと甘えたいし、
きちんと甘えられたい。
で、優しいってなんだろうね?ってちょこっと考えたわけです。
私は近しい人から「優しい人だ」という評価をたまにもらいますが、私は別に優しい人ではないのですな。
優しい人になろうとしている人で、出来れば人を傷つけたくない、
人を傷つけたと思うことで自分が傷つきたくない、
という、かなりずるい気持ちを内に秘めている人間でございます。
そう。これはずるい考え方。でもきっと、だれだって大抵そんな風に思っているような気もします。
うん。
「優しい」みたいな事柄って、その人それぞれに基準がある気がしてきた。
なので、せっかくなので、私の思う優しいをつれづれと書いて行ってみよう。
私は、優しさは想像だと思う。
相手の基準に立って気持ちの流れを読む、すなわち想像することだと思う。
自分がされて嫌なことを、ひとにするのはやめましょう って、学校の道徳で教わるわけじゃないですか。
人の気持ちを考えよう、とかさ。
ほんとに最初に知らなければいけないのは、私とあなたは違うって事じゃないのかなぁ。
なんつって、頭じゃ分かっててもなかなか思い切れないのですけれど。そういうふうに。
優しさとか思いやりっていうのは、
「あの人だったらこういうもの、喜んでくれるかしら」とか
「あの人はこうされたらどう思うかしら」とか
そういう風に考えることだと思うのですね。
で。
だれだって余裕がある時は、そういうふうに物事を考えられると思うんだ。
例外はあろうけれども。
問題は、自分がピンチになってる時。
まあそんな時は他人になんて優しくする余裕はないです。当たり前。
しかし自分がピンチになっている自覚はもっていないといけないよね。
他人を思いやれなくなった人間は迷惑を周囲に撒き散らすから。
何度そういう思いをしたかしれません。
私は阿呆ですから、自分でなんどもそういう経験をしないと気がつかないのです。
周囲の近しい、大切だと思っている人たちに多大なる迷惑をかけて、
それでもいいよと笑ってくれる人たちがいて、
当然、大半の人たちはそこで離れていって、
苦くて幸せ、みたいな、それをぐちゃっとすると、
恥ずかしくて穴があったら埋まってしまいたいと思うような、強烈な経験だったりするわけで。
うーん。。。
やっぱり、ダメダメになってる時に甘えられる人間ってのは、1人2人いるべきなんだなぁ。
この、甘えるのと依存するのも境目が難しくて、
ものすごい絶妙なバランスの上に成り立つようなもの、という気がしているわけですが最近。。。
厳しい優しさ、とかもあるし、その場だけの優しさもあるし、
そもそも無責任な優しさならいくらでも振りまけるよ。
耳障りのいい言葉だけがやさしさなら、どんな人だって優しい人になってしまう。
やっぱり考えてもまとまらないなー。
結論。優しさは難しい!

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カテゴリー: 日記

助けられていきるひと 2011-02-07

ごきげんよう、たいこです。
最近いろんなコトをよく考えます。
もともといろんなコトをよく考える性質の人間だけれど、久しぶりに真面目にどうでもいいことを掘り下げて考えています。
私はもともと愛だの恋だのについて考えるのが大好きです。
考える割に自分の色恋ごとになるとびっくりするくらい不器用なのですが。
去年の6月までは、極力そういう事を考えないように…いや、もっともっと基本的なことに翻弄されておりました。
そして、半分忘れていた「自分と他人は違う」みたいな当たり前のことを思い知ったんだった。
まったく拘束されてなかったのに、けじめをつけただけで体が軽くなったのもいい思い出です。
昨日は、自分の弱点はここだよ!とキモに銘じた日でした。
わかっちゃいるけどやめられず、ついつい同じことを繰り返すのはもう嫌なんだ。心底嫌なんだ。
人は心底嫌にならないと修正しようとしない生き物なのかもしれません。
私だけかもしれません。
この1ヶ月くらいで、見当はずれの愛の告白は余計自分が寂しくなるってことも学びました。
そういえば昔のあんなことやこんなことを振り返ってみれば、どれもこれも入り口でそういう違和感をごまかしていたよな……と。
原因は自分の自信のなさ。あとは失う恐怖。
本当にそれが必要なのか?と、まず考える事をしなければいけないよね。
ああ、そういえば忘年会で「たいこさんは選ばなさ過ぎだと僕も思います」って会社の人にいわれたっけ。。ルルールー
そこで失うならそれまでのこと。と、まず自分が無理をすることをやめようと思いました。
だって無理したって結局続かないんだから。
緩やかにいろいろな変化があったなぁ。という感じのする2010年ですが、何かと理由をつけるのが好きな私が今振り返って理由付けすると、見事にすべてがかちっと収まるので面白いですな。
真実なんてものも世の中に理由なんてこともなく、ただ存在するのはたくさんの事実を解釈のみ。
この世にも自分がいきていることにも意味なんてないのですけれど、だからこそすべてのものに意味がある。
そうやって開き直って、自分の来し方をひとつひとつ検証していくことは、きっと自分自身の意味付けにとっては有意義なこと。
今まで、こうすればいい事は分かっていたけれどどうしても出来なかった事柄が、今なら出来る気がするので。
いつだって同じところで失敗してる場合ではないので。
そして振り返ればいつだって私は誰かに助けられているわけで。
2010年に私と関わったすべての人に感謝をしたい気持ちでいっぱいなのです。
今関わっている人達も同様に。
そして出来れば、みんなが幸せにニコニコしていられたらいいなって思うのですよ。
ここんところのgdgdからやっと抜け出せそうな気配。
夏ほどズドンと落ち込まなかった自分を褒めてあげたいw

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カテゴリー: 日記