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#7 緑の小人

 ズボンが引っ張られたような気がして、一瞬足を止めた。
反射的に足元を見たら、緑色をしたブサイクな人形が転がっていた。大昔に流行った筆の出来損ないみたいなかみのけを生やしたマスコットみたいだった。あれはなんていうんだっけ。願い事がかなう、とかいうあの小さい人形……。いや、転がってるんじゃない。立ってる。そして、ボクのズボンの裾を握っている。
 人形はひとりでにたたないし、ましてや何かを握るなんてことしないだろう。こいつはなんなんだ……?と考える間もなく、そいつはすごい速さでボクの体を駆け上った。あっという間にボクの肩の上までやってきたそいつは、ボクが慌ててその緑色を振り払う前にボクの右耳をつかんで、

「な!」

と叫ぶなり、ボクの耳の中に入り込んでしまった。耳の中でがさがさごそごそと音がする。気持ち悪い。ボクはなんとかそいつを取り出そうと右耳を下にして飛び跳ねてみたり綿棒を突っ込んでグリグリしてみたりしたけれど、とうとうそいつは出てこなかった。気持ち悪くておかしくなりそう。鳥肌があとからあとから沸いてくる。耳の奥では相変わらずガサガサドンと音が聞こえている。ボクは鳥肌で体をギクシャクさせながら、近くの耳鼻科を探したんだ。

 それはおかしな事態だった。そして抜き差しならない事態だった。ボクを診察した耳鼻科のお医者さんは、「そんなものは何もありません」というのだ。でも耳の中にあの緑色が姿を隠せる場所なんて、ボクには想像もつかない。もしや鼓膜を破って鼻のほうへ進んでしまったのかしら。と想像して体をぷるぷる震えさせていると、お医者さんは「あなたの右耳はいたって正常です」なんて言うからボクはまた混乱してしまう。混乱している間にも、耳の奥ではガサガサ……たまに「へっちん」なんてクシャミの声までする始末。いったいボクはどうなってしまったんだろう。どうなってしまうんだろう。ボクは気が狂ってしまったのかしら。それはとてもとても怖いことで、ボクの歯は勝手にカチカチと鳴ってしまう。そしたら耳の奥の緑の奴は、歯のカチカチにあわせてノリノリで手拍子を叩き始めた。どんどん調子に乗った緑の奴は、どこから手に入れたのか最初から持っていたのか、あろうことかボクの耳の中でタンバリンを鳴らし始めた。ボクはあまりのうるささに本当にこれでは気が狂ってしまう!って怖くなったんだ。

 耳鼻科のお医者さんは他にも何か言っていたみたいだけれど、ボクはタンバリンの音のせいで何も聞き取れなかった。診察料を払うと、領収書と一緒にきれいな事務員のお姉さんが封筒をくれたんだ。そこには、普段病院なんて縁のないボクでも知っているような大きな病院の名前がかいてあった。タンバリンの音は一層はげしく、ボクはお姉さんの言っていることがほとんど聞こえなかった。でもきっと、この封筒を持って病院へ行けって言うことなんだろうなと思ったから、「はい、わかりました」って言って、また体をぎくしゃくさせながら病院へ向かったんだ。

 とにかくボクは、この耳の中の緑の奴を一刻も早く取り除いて欲しかった。早く早く。そうしなければ気が狂ってしまう。早く早く。病院にいかなくちゃ。封筒を持って、ぎくしゃくしながら僕は急ぐ。

 大きな病院だ、とにかく早く診察してもらわなくちゃ。まるで病院に見えない綺麗で大きな吹き抜けのロビーには、総合案内所っていうのがある。病院なのにひとがいっぱい。世の中にはこんなにも病んだ人たちがいる。すごいことだ。なんて感心している余裕はボクにはない。早く早く、気は焦っても体はぎくしゃく。そんな体にいらいらしながら総合案内所でさっきもらった封筒を差し出す。タンバリンの音はますます激しく、ボクにはもうほとんど何も聞こえない。早くこの音を、あの緑色の奴をなんとかしなければ。総合案内所のお姉さんはうっすら笑いながら何事かを言っている。聞こえない。聞こえない。ボクは「きこえないですタンバリンがうるさくて」って言った。お姉さんは黙って何かを書き込んでクリアファイルをボクに手渡した。薄い緑色のクリアファイル。お姉さんが指差す方向とクリアファイルの中の地図の赤い丸は同じ位置だ。ボクはクリアファイルを持ってお姉さんの指差すほうへ向かった。

 まだ診察が受けられない。ボクはここで恰幅のいいおばちゃんに紙を渡された。書きなさいっていうことみたい。住所とか名前とか、あとは保険証を一緒に出したら、おばちゃんは何事かをいっている。ボクは聞こえないって言ってるじゃないか。「きこえないですタンバリンのせいです」おばちゃんは無表情でボクの後ろのベンチを指差した。ボクはまだ診察が受けられないのか。タンバリンのせいで鼓膜が破けそうだ。早く早くボクの耳の中の緑の奴を取って欲しいのに。神様助けて仏様助けて。お医者さん早くボクを診て。

 おばちゃんがベンチまで来てくれてカードをくれた。さっきの紙に青い丸をつけてくれた。そして指を指す。青い丸と指差した方向はきっといっしょだ。僕はもう、しゃんしゃんどんどんがらがら言う耳を抱えながら、そろそろと歩き出す。気持ちだけはすごい早さなのに。体が全然言うことを聞いてくれない。早く早く。早く早く。

 ああ、もう目の前に見えているのに。ボクはもう……鼓膜が破れてしまう。歩けない。カチカチガタガタブルブルシャンシャンガサガサゴソゴソ。気持ち悪いよう。そして少しずつ少しずつ、あの緑色の奴がボクの中心を、確実に犯していくのをボクは感じた。ああ……。さようなら。
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