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#2(保育園の道・改訂版)

それは、団地の花壇と公営グラウンドの隙間の小さな道の突き当たりにある。
アスファルト舗装されていない、道。真ん中にコンクリブロックがいくつか敷いてある、細い道。花壇と言っても団地の空いたスペースに、住人が思い思いに花や草木を植えて育てている、そんな花壇。
 反対側のグラウンドのフェンス越しには、イチョウの木が植わっている。
わずか30メートルほどのその道だけ、そこ以外の場所とは違った空気が漂う、園児と親と保育士しか使わないその道。

3年前、保育園に通い始めて2ヶ月めくらいの頃に撮った写真がある。
ほんとうに、何気なく撮ったその写真。そこには5歳の長男が1歳の娘の手を引いて歩く姿と、娘と4歳の次男が自転車のまえで私を待っている姿が写っている。

季節は初夏。
桜はすっかり葉桜になり、木々も青々とした葉をたくさんつける季節。花壇に咲く赤や黄色の花を見ては、にこにこしながら花のところだけをむしっては手の中に押し込めてにこにこの娘。おむつをした大きなお尻で、がにまたでのしのしと、でも歩くことが楽しくて仕方のない時代。花を植えている人に申し訳なく思いつつ、だからなるべくこっそりと花を摘ませて、これ以上花に被害が出ないようにと、慌てて自転車に娘を乗せる。
そのかたわらで、長男はクラスの友達と楽しそうにかけっこしている。「おかあさん!今日は自転車に乗らない!」と、友達と走りぬけて行ってしまう。
それに必死でついていく次男。けれど次男は必ず途中で引き返してきて、「むっちゃんは自転車に乗るー」と、自転車を漕ぎ出そうとする私を制止して後ろの座席によじ登っていた。

写真を撮った翌年の初夏、2歳になった娘は、きれいな花を摘んだらそれを大切に家まで持って帰って、家に飾るというところまで成長していた。次男は花を摘まずに、眺めて愛でていた。長男は小学生になっていた。

帰り道すがら、日が長くなったり短くなったりの1年間の繰り返しを体感しながら帰る道。
「今日はまだ朝だねー」
「今日はもう夜だねー」
という言葉は、長男も次男も言っていた言葉。そして今は娘が毎日口にする言葉。

螺旋のように、季節はぐるぐると回り同じ場所には戻らない。子供たちは螺旋階段をのぼるようにぐるぐると成長していく。変わらないのは、保育園に続く道、保育園の喧騒。

ぐるぐると螺旋階段をのぼりながら、私も子供もいつかあの道を使わなくなる。きっとたまにしか思い出さなくなる日も来るだろう。子にとっても私にとってもね。けれどきっと、あの道のことを思い出した時によみがえる感触を、各自それぞれに残しているはず。

保育園の道は今のところ変わらないでいるけれど、保育園自体も螺旋階段をのぼっていることは間違いがないのだから、きっといつかなくなる日が来る。たとえばいつか、「保育園がなくなるよ」という話を聞いた時。きっと私も私の子どももなくなることを寂しく思うだろう。そしてその時によぎる何かがあるだろう。

その時によぎる何かがあること。それがあの道であること。あの道でおそらくはたくさんの人がそういうものを自分自身の心の中に残しているであろうこと。あの道がそういう場所であること、多くの子どもたちにとって、おそらく人生で最初のそういう場所があの道であることが、あの道の表情をあんなに優しくしているゆえんなんだろうなぁ。と、ぼんやり思う。

幼い頃の、優しい顔をした記憶たち。
数え切れないほどの人たちのそういう記憶を全部内包している場所。
だからなんだろうなぁ。

3年前、写真を撮った当時は子供3人を自転車に乗せて毎日必死に自転車を漕いでいた。色々な意味で必死に走りぬけた1年間の記憶。今は自転車に載せる子は1人。必死さも和らいでいる。自転車に乗りながら、時に4人で歌いながら、3人の話を同時に聞きながら行き帰りした事が今は懐かしい。今はまだ日常のあの道も、あと3年したら思い出に変わる。
そして2人の息子にとっては、きっとすでに思い出になってしまっている道。

来年は、3年前に次男が使っていた教室を娘が使うことになる。今年は、3年前に長男がお世話になった先生が娘の担任になっている。同じようで、微妙に違った記憶を共有することになる3人の子どもたちは、一体どんな思いをあの道に残しているのだろう。残すことになるのだろう。

それはいつか子どもから聞き出すことが出来るかもしれないし、ずっと聞けないかもしれない。言葉にはならないかもしれない。

けれど間違いなく、あそこは私たちにとって懐かしい場所であること。それは大人になった時の、自分をつくるたいせつなひとつになっているだろうこと。たとえ子どもが、保育園好きだって嫌いだってね。

自分は小さい時にあの道を使ってあの保育園に通っていた、という記憶。
いつかなくなってしまっても、これから先大幅に変わってしまうことがあっても。
それだけは変わらずに残るものなんだろう。

そしてそれだけがあの道にとっても、ぐるぐる回り続ける私たちにとっても意味のあることなのじゃあないかしら。
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