サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫だよねえ? 2023-02-17

背中越しに笑うあの娘 あなただけはとても好きだよ
くだらない人たちの中で 君はどうして明るく笑うの
蜘蛛の糸を昇って いつの日にか見下ろしてやる
蜘蛛の糸を昇って いつの日にか燃やして焼き尽くしてやる
それでもなんだか皆がボクを笑ってる気がする
大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫だよねえ?
笑ってろ見てろよ 気のせいさ眠れよ

(蜘蛛の糸/筋肉少女帯)

大変懐かしい曲ですが、この曲を地で行ってるなあ、といういい歳の人を観察したり。しなかったり。
信じて疑わない自身のプライドとか自信とか。根拠がないんですけれども。
こういうものの裏側には、大抵コンプレックスが隠れているので、めちゃくちゃ揺らぐのですよね。

自己評価と他者評価にすごーく乖離のある人にたまに遭遇します。自分でもそんな感じになっていないだろうか……と、見ていて不安になるような。しかし、完璧に自分を客観的に眺めることってほぼほぼ不可能な気がしていて、だからこの不安はずっと消えない、危惧しているものだなあと感じます。
そしてそういう不安や危惧は多分必要なものなのだろうなあと。

ごきげんよう。

私の母は、「自分は優しい人間だ」と思っています。多分わりと本気で思っている。
けれど子供である私から見た母は、「超絶わがままお嬢様」です。
多分子育て向いてないし、家庭を持つことも向いてない。でも本人は絶対そう思っていません。
彼女の考える「優しさ」がなんなのか、私は未だに理解できていません。だって私から見た母に優しさを感じたことがないから。でも、彼女は自分は人の世話を焼くのに向いている人間だと思っている。
その昔、里親になろうとしてみたり、ホストファミリーになろうとしてみたり、いろんな世話を焼く系の話を聞いてきたけれど、本当に里親になったりホストファミリーになったりしていたら、その相手は大変な苦労をするだろうなと思うのです。

で。

この母を見るたびに「では自分は?」ってなるわけで。
正直なところ、私は親になるのに向いている人間ではないと思っているのですね。子供3人もいますけれど。
子供にとって良い親だったかというと、疑問が残りまくる。で、認めたくはない事実ですが、この辺のわがままさは母親譲りな気がしている。しかし向かないなりにも子供を3人育てて、成人したあとだってなにか子供に困ったことがあれば、できる限り助けてやりたいと思う。その、子供に差し出せる分量?みたいなものは、母と私ではだいぶ違うなと感じています。
でも私のその部分を判断するのは、私の子どもたちなので、私はそう思っているけれど実際にどう思われているかはナゾです。怖いところですね(笑)

なんで唐突にこんな事を書いているかというと、こういう事を考えざるを得ないような出来事があったから。
もともと何かを期待できるような親ではないのですが、そんなことすら受け入れないのかー!という脱力感。
おそらく母は母で「本当にあの子は自分勝手!」って怒ってるんでしょうけれども、私は私で「まーた母に背中から撃たれたなー!」っていう気持ちです。

そもそも私は、ある程度大人になってからは母に物事を相談するとか愚痴を吐く事をしていません。
なぜなら、ただでさえ落ち込んでいる私を余計に傷つけて追い込むようなことを平気で言うから。悪気もなく。
さらには私の子どもたちに、私の悪口を吹き込むというとんでもない事までしてくれた母。
私はひとり親です。子どもたちの親は私しかいない。そんな状況をわかっていて、その親の悪口を子供に吹き込むことがどれだけダメなことか、母は未だにわかっていません。本当に理解し難いのですけれど。まったく悪気なくやる。
この悪口について言及したときに返ってきた言葉は、「じゃあそう思ったときになんて言ったらいいのよ!」でした。
思ったことをなんでも口にして許されるのは未就学児までだと思う。
当然このようなことは、私の子どもたちに対しても行うので、我が家の子供達は皆私の母親が好きではありません。
でもな、気づかないんだよな……。
この、本人が気づいていないっていう事実がほんとうにこわい。自分もきづかないかもしれないから。

これを回避するにはどうすべきか。
常にこわいと思っている以外にないのかもしれません。
自分の親が反面教師にしかならないってなかなか切ないものがありますけれど、しかしどんな形でも学ばせてもらえることに感謝するべきなのでしょうかね。


前にも何度か書いた気がしなくもないですが、私の生家はお世辞にも幸せな家庭ではありませんでした。
子供時代を色に例えたら灰色一色です。
自分で子供を産むまで、私は常に常に寂しかったのですね。なにをしても埋められない孤独感があって、それを持て余していた。それが爆発したのが19歳の頃で、そのときに徹底的に自分と向き合ったんだと思います。もうしんどくてしんどくて仕方がなくて、でも考えて考えて考えまくった。それで出た結論が、生まれた環境育った環境出会った人がどうであれ、自分の人生は自分にしか責任が取れない。ならば、他の誰かのせいにするのは不毛だということ。
あと、誰かに愛されたいなら、まず自分自身を愛さねば成立するわけがない、ということ。
このとき、純粋な愛ってどういうものなのか?ってことも突き詰めて考えて、出た結論が「何もせず、見守ること。」だったのも思い出しました。実際これは今もそうだと思っていますが、これは概念というか、現実にそういうふうに人を愛するという話ではないですね。
人が人を愛するみたいなことには、欲みたいな、エゴみたいな、なんかそういうのは不可欠だよなーと思っています。
けれど、好きな人、愛する人になにかしてあげたいと思った、そのなにかしたい部分って自分のエゴなんですよね。それはエゴだってことを頭で理解していれば、なんというかきちんと愛とか恋とかの面倒なのとも戦える…はず。戦えるための基本くらいかもしれない。私はこの歳になって、やっとその辺を理解しかけたかな?くらいのダメっぷりです。

未だに愛については考えているし、結論も出ないし、難解だしややこしいし大変!と思っています。
でもきっと死ぬまで似たような感じで考え続けていくんだと思う。
こんなこと考え続けていてもご飯食べられないんだけどさーー!

確かにご飯は食べられないんだけど、でもきっと生きていくうえでとても大切な事だとも感じています。


愚痴をぶちまけようと思ったら、なんか昔書いてた記事みたいな文章になってしまったなー。

 

 

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