サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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拾った捨て猫ジャンヌダルク 2013-01-10

ところがこいつが胆でね
人のしてる事は変わんない
憎しみ裏切りだまし合い 恋とか そんなとこだよ
(タイムトランスポーター2「最終回ジャンヌダルク護送司令・・放棄」/特撮)

なんてふざけたタイトルなのでしょう。実はここに引用するために初めて曲名をちゃんと読みました。
私のなかではジャンヌダルクの歌。
ジャンヌダルクが現代に来ちゃってタイムパラドックスで世界が消えるみたいなとんでもない曲でございます。
うん。すごくオーケンぽい。
家に帰ってくると肩こり。ここ2日くらいそんな感じです。
仕事中に凝るもんだろうと思うのだけれど。私の肩は一体どうなってしまっているのか。
しかし長いこと休むと1週間がすごく長い!
まだ水曜日だなんて信じたくない信じたくない。
今週の土曜日のおでかけと3連休を心の糧に、あと2日間頑張って出社しようと思う。
仕事が嫌いな訳じゃないんです。出社が嫌いなんです。
ある程度頼りにされている今の職場は、私にとっては非常にありがたい場でもあります。
たくさんお休みしても文句言われないし、でも休んでいる間は皆さんてんやわやになっているらしく。
こういう話を聞かされると休みづらくなるんだよなあ。休むけど。
子供が3人いて、扶養している人が1人という現状では、どうしても仕事は休みがちになってしまう。
それは仕方がない。そういうところをきちんと理解してもらって、
働きやすい環境を作ってくれる上司にはいつも感謝しています。


人が話しているのを聞いているのが好きです。
同じだけ自分が話すことも好きです。
聞くのが上手な人は話すのも上手だなと最近思います。
自分もそうなりたいなあと思うのです。
周りにはたくさん聞き上手、話し上手の人がいて私のよいお手本になっている。
面白いことが言える人も尊敬。私にはどうしてもその部分の柔らかさがない。
ああ、手が届かないなあ。と接していて思うのです。


愛するということについては常々考えています。
私には愛する人がいます。
私はきちんと彼らを愛せているだろうかということを考え続けています。
こんがらがった愛の糸を解きほぐすにはどうしたらいいんだろう?とかも常日頃考えています。
これらは母がわが子に持つような類の愛です。対わが子ですし。
彼らはそこに存在しているだけで、私の大切な大切な重石になっている。
当然彼らにはそんな自覚はない。大方うまいこと愛のやり取りは出来ていると思う。子どもたちとは。
けれど、いわゆる恋愛に於ける愛のかたちと、親と子の間にうまれる愛のかたちは、
そう違わないものだとも思っています。
やりとり、と書いてみて思う。
愛しあうってどういう状態なんだと。
愛することは、与え続けることで、受け入れ続けること。
そして自分のそういった行為や気持ちは、
それを受け取るべき相手すら関係ないただただ自分ひとりだけのもの。
愛されないなら愛さない と思うのなら、それは愛していないのです。
ただただ、欲しいだけなのです。
相手が自分を受け入れてくれなくたって、愛することはできるのです。
だってそれが、愛だから。
恋は欲の塊で出来ている。
欲しい欲しいと思うのは恋。
恋愛は、どちらかがなくなったら成り立たない。
けれど、恋と愛は相反するものだったりするから、苦しくなったり考え込んだりするんだろうな。


私は混沌でできている。綺麗も汚いも全部がごっちゃになっている。
愛も恋もごっちゃごちゃでぐっちゃぐちゃ。整理なんて全然されてない。
放り込まれたままの形で、どちらも私のなかにいる。
ほんとうの気持ちなんて、きっと誰にもわからない。
私はせっせと自分のとった行動を思い返してはその意味をさぐり、解釈をする。
自分自身が思う自分のことだって、自分自らが解釈した自分自身の像でしかなく。
それは他の誰かが観た自分自身とは、絶対に違うものなのである。
自分の思い描く自分と、誰かの思い描いた自分の間に誤差の少ない場合、
おそらくその誰かと私は似ているんだろうと私は解釈する。


何年か前までの私は寂しくて仕方がなかったりすることが度々あったのに、
今、自分は寂しくないんだなって事に気づきました。
昔、父が私に語った
「俺は寂しいっていう感覚がわからない。だから俺は寂しいんだと思う」
という言葉を思い出します。
父のこの言葉は本当に寂しいものでしたが、今私の感じている寂しくない感じとは全然違うなあと思うのです。
私のこのさみしくない感じは、なんだかとても良いことのように感じています。
なんだか知らないうちに、ひとつ壁を乗り越えた気分です。が、
そう感じている自分の感覚が正しいかどうかなんて誰にもわからないのです。


こういうことのいくつかは、自分の頭の中でぐにゃぐにゃしながら思いつくことだったり発見することだったり。
別のいくつかは、誰かに思うがまま話し続けて話し続けていくうちに気づくことだったり。
そういう、特にオチも何もない話をただただ聞いてくれるお友達に、心からありがとうと思っています。

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カテゴリー: 日記

懺悔の値打ちは意味ない 昔の事など知らない 2013-01-06

お手を拝借 手拍子を 息合わせて テンポ良く
盛り上げて 上げ上げて もっともっとみんなで 騒げば
マリアが動き出すのさ 爆発みたいに生まれて
そんですぐ大きくなるのさ 気付けばアリャリャお年頃
恋など知ったりすっかな 昔の事など知らない
思った通り生きなよ そいつが正解なんだろね
奇跡のマリア
(GO!GO!マリア/特撮)

瓦礫からヒトガタを作って、名前をつけたら動き出した、みたいな歌。
しかもすぐ大きくなって恋したりなんだり。
みんなの希望と懺悔の象徴として生まれた瓦礫のマリアに、
「懺悔の値打ちは意味ない 昔のことなど知らない」って言ってしまう、この感じが大好きです。
今回のアルバム、本当に色々前向きである。
前向きにならざるをえない状況ではありますよね。世の中的に。
反省するだけしたら、切り替えて再スタートするしかないのである。
いつまでも悔いて何もしないのでは何も変わらない、動かない。
ごきげんよう、たいこです。
ながーいながーいお休みが終わってしまいました。
なんだろう、切ない。
連休の最後の日はいつだって切ない。そして無駄に過ごした時間を振り返って頭を抱えるわけです。
いやあ、だいぶ色々さぼったよ。
今日はえいやっと重い腰を上げて、唐揚げつくりました。大量に。
大量すぎた。食べ過ぎた。なんかもうこの食べ過ぎるってことでも反省である。
仕事が始まったら始まったで職場の愉快な仲間達のおかげで楽しく過ごせるのはわかってる。
なのになんでこんなに嫌なんでしょう。仕事。


ちょっとびっくりすることがありまして。
まだびっくりしたままの状態なので色々落ち着いていないので、色々おいおい……という感じでおります。
とりあえずゆっくりのんびりやってけたらいいなーと。


スウィング・ガールズを観ました。
ウォーター・ボーイズは観ていないのだけれど、きっと同じ感じなのだろうなぁ。
いろんな部分での突っ込みどころはあれど、そういうものを捨ててテンポとスピード感にかけた、という感じの娯楽映画。
大変おもしろかったです。
ラストの演奏シーンでスウィングしちゃった観客の皆さんのように、見ている私もノリノリになってしまった。
あの感じで潔く幕が引くのも大変よい。お正月らしい映画を観た。満足。
空気人形を観ました。
怖い映画だった……。
都会の人の空虚感と、空気人形(ラブドール)の中にいっぱい空気の詰まった感じをかけあわせて……掛けあわせた結果がアレなのか。と。
空気人形やっていた女優さんは上手だったなあ。
板尾のリアルにキモくて痛々しい感じも素晴らしく良かった。
しかし、そのあたりがリアルだからこそ、いきなりラブドールが動いて喋った事実を受け止めちゃったらまずくない?と思うの。
明らかに人形であった彼女が動き始めると人にしか見えなくなる、のだけれど、だったら板尾は彼女の姿、どういうふうに見えていたのだろう。
掛けあわせた結果のアレ、「私空っぽなの。」「うん。ボクだって同じようなものだ」という会話のやりとりで、空気人形は「この人も中に空気が入ってるのか」と認識するわけです。でも、この会話は比喩なのであってそんなにたくさんの空気人形が動いたり歩いたり心を持ったりするはずがない。
付喪神だって100年経たなきゃ魂持てないんだから。
そういう人としての当たり前を空気人形は持ちあわせてないってことは、それまでの描写でわかりすぎるくらいわかっていたはずなのにこの人は。。。と、恋人になるメンズ(ARATA)に心の底から突っ込んでしまった。
しかしこのARATAと空気人形ちゃんのクライマックスは本当に壮絶でした。。。ホラーでした。。。
それから。
都会の人は、、、というフレーズはもういい加減やめてくれないかなと思う。
生まれも育ちも東京な地元東京の私からすると、それはなんか違うよなと思ってしまう。
しかも撮影されていた場所、私には馴染みのある一帯でございました。
ずーっとその場所で生まれて育って年老いて…という人が多く住んでいる地域のような気がするのですが……。
心が空っぽになる感じをもてあますのは東京だろうが地方だろうが関係ないと思うのだけれどどうなんだろう。
地元東京都民としては、東京はー都会はーと言われるたびにちょっと悲しくなるのです。
それは、純粋な地元愛ゆえである。


12日に劇団新感線のお芝居を観に行きます。
待ちきれずにあれこれ動画を漁っているのだけれど、なんだもうかっこ良すぎる。
DVD欲しいなあと思ったけれど、あれもこれも観たい観たいで全部買ったらすごい金額になるじゃないの……。
1本ずつ買っていこうと思ったはいいけれど、最初の1本どれにしようってとこから迷い始めている。だめだめである。
でも、今日蛮幽鬼の冒頭を観てみたら堺雅人のかっこ良さが異常だったので、とりあえず蛮幽鬼買おうかなと思っております。

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カテゴリー: 日記

降りそそげ 桜降り積もれ 降りしきれ 桜の雨 2013-01-04

桜雨 罪流して
与えてくれ 邂逅の奇跡
もういいじゃないか 憎しみも愛情も
同じ事さ 同じ色さ
(桜の雨/特撮)

あけましておめでとうございます。
というわけでギリギリ三が日に間に合わず新年のご挨拶。
今年もぼちぼち平和に暮らしつつ、ぼちぼち可愛いものや怖いものを作っていけたらいいなと思います。
お正月、元旦は実家その1へ。
弟の持ってきた素敵に美味しいマグロちゃんと闇鍋かっていうくらい具だくさんの寄せ鍋をいただきました。
去年の末からしばらく実家に留まっていた子どもたち、結局末の娘は4泊くらいしておりました。
インフルエンザでダウンしていた長男も元旦~2日は実家に泊まり、入れ替わりに次男と一緒に帰宅。
少しじっくりと次男とお話する機会もできてよかったよかった。
3人の子どもたちの中では一番精神的な成長の早い次男。
一番じっくり話しが出来る相手でもあります。
家の中の事に関しては、子供にもできるだけすべて話してしまう方針の我が家ですが、内容によっては大きくなるのを待って話さねばならないこともあるわけで。
先に色々知る事になる子は、それだけ背負うものも増えていくところが少し心苦しくはありますが、それだけ頼りにできるようになったんだなあ。と少し感慨深くもあります。
大人は皆いうことが違う。その中で自分の一番しっくり来る解釈をしてくれたらいいなと。
子育ても今までとは違う段階に来ているよなあ。
私だって中学時代のことはしっかり覚えているし、親のことを対等な目線で観るようになったのも中学の頃だし、今までとは違った意味で手が抜けなくなって参りました。
数年先が楽しみなようで怖くもあります。
2日には実家その2へ行きまして。
父の再婚相手と初めて対面いたしました。
再婚したの、多分数年前なんだけどね……。今更感が漂う中、それでもよさそうな方ではあったので一安心。
っていうか若かったよ。。。よくまあ父と結婚したものだ。
しかし年末から正月2日まで、家に子供が1人しかいないという状態で過ごしたのですけれどもね、家がとっても静か。ああこのくらい静かなら私も心広くいられるわぁ。。。と思ったり思わなかったり。
そのかわり実家のほうでは子どもたち大暴れしていたようですが。
寄れば触れば喧嘩する年代はいったいいつまで続くんでしょう。。。頼むから仲良く暮らしていてほしいもので。
ごきげんよう、たいこです。
そんなこんなで実家は回ったものの、まだ初詣に行けていない我が家。
氏神様のある神社、三が日は信じられないくらい混むのです。
明日(というか今日か)挨拶してこれたらいいなと。
私、今年が後厄でして。これで30代のほぼ半分を占める大厄がすべて終わります。長かった。。。
厄年なんて…という気持ちもなきにしもあらずですが、こういうものは気持ちの問題なのでして。
しっかりとお祓いしてもらってこようと思います。
成田山のお祓いはすごくかっこいいのだ。本堂で護摩焚きするのだ。
炎ってすごいよなあ。。と、行くたびに火の美しさと怖さを実感するのでした。


自分のしてきたことを客観的に捉えるのはすごく難しい。
だからこそ、他人の意見をないがしろにしてはいけないと思う。
しかし、他人の意見もすべてが正しい訳ではないのでいい塩梅に見極めなければいけないのが難しいところ。
歳をとるにつれ、否定されることがきつくなってきます。でも、自分と違う意見を受け入れる柔らかさがなくなると一気に老け込む気がするのです。ごめんなさいという言葉は、歳を取れば取るほど言いづらくなる言葉なのかもしれません。
こういうことは、母との間に色々面倒くさい事柄が起こるたびに身にしみます。
多分こうやって常に意識していないと簡単に硬くなっちゃうんだと思うんだ。頭。
視野を広く持つことと、自分のことを出来るだけ俯瞰で眺める訓練と、間違いは認める謙虚さは意識していないと簡単に失われてしまう。
冒頭の今日の1曲、特撮の新しいアルバムのやつ。
桜の雨が罪もゴタゴタも洗い流して水に流して、流れてしまえば憎しみも愛も同じ色。
ほとぼりさめてなかったことにする感じ、無責任なようだけれど私は好きです。
時間が経つということは、その時に起きた出来事に付随していた色々な感情を綺麗に洗い流すことだと思う。
その時にはどうしても許せなかった理由が執着のようなものであるならば、時間はその執着を取り払ってくれる。
感情や執着はなくてはならないものだけれど、それがあるがゆえに上手くいかないこともたくさんあって。
その時に解決はしなくても、時間がなんとなくなぁなぁにしてくれる、どうせならそういう優しい時間の使い方をしたい。
辛くて苦しかった思いも、時間が経てばちょっと苦かったり甘かったりする感傷になったりする。
そういう感傷に浸れる事は、幸せなことなのかもしれません。
忘れることは怖いことではありますが、忘れることができなければ今まで積み重ねた時間に私たちは押しつぶされてしまう。
忘れられない色々なことも、その気になればきちんと思い出の箱のなかに収めることができる。
その時に、忘れたくない、思い出にしたくないと心の底から思ったその記憶さえ懐かしい思い出にしてしまえる時間っていうのは、本当に本当に偉大なものだなあ。
そんなことを思う2013年のはじまり。
今年は一体どんな1年になるのでしょう。
1年の始まりと誕生日は、いつだって根拠のないいい予感にあふれているのです。
自分のそんなめでたいところは結構好きです。
そんなわけで、皆様今年もよろしくお願いします。

降りそそげ 桜降り積もれ 降りしきれ 桜の雨 はコメントを受け付けていません
カテゴリー: 日記