サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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リインカネーションがないと言うなら カーネーションを神様に指定するべきよ 2011-11-15

生まれ変わって、虫になって
鳥になって、虫になって
また二人に戻って 恋に落ちて
そうして母の日は二人の再会の記念日となって
みんなニコニコよ!
(カーネーション・リインカーネーション/大槻ケンヂ)

日曜日は2時間も昼寝をして、それなのに23時半には眠くなって寝てしまって、
だというのに月曜日は眠たくて仕方がなく、
昨日も1時すぎには眠ってしまいました。
どうしちゃったんだい、私の睡眠欲。
今日は午後から小学校です。
二者面談ってやつです。
来週は中学校で三者面談です。
もう三者面談するような年齢になっちまったのか。長男は。
親として心配事はいつでも満載。
親の心配なんて子どもには伝わらないんでしょうが、伝わってしまっても困る気がしますが、
「この子このままでどうするのかしら」って思うことが満載です。
きっと私もそんな風に思われてきたんでしょう。うむ。
お仕事方面では、しばらく頭を悩ませていたお仕事のあれこれがいいように解決。
よかった。
自分がどれだけ必要とされているかなんて、全く分からないのです。
こういう時に、「ああ、少しは頼りにされているのか」って感じることが出来る。
どうせいてもいなくても一緒だろうってのがベースにあったりするダメな子なのでですね、
こういう機会に少しでも「必要とされている」を実感すると簡単にやる気が出ます。
単純なのは、いいことだと思う(自画自賛)。
読書の話。
実は奥田英朗の「オリンピックの身代金」を読みかけなのですが、
寝る前にちょこちょこ読んでたら読みかけの上巻が行方不明というすごい事態に。
どこいったんだよ……。
というわけで、やっぱり読みかけで忘れていた重松清「せんせい。」を読了。
ついさっきの話なんですが。
先生を題材にした短篇集。
そのうち1つは別の文庫で読んだことがありましたが、いやあ……。
これから担任と話しに行くっていうタイミングでこの本か、と。
収録作のなかに「にんじん」という短編があります。
この作品は先生が生徒をいじめる話なんですけれども。
私は小学校の5,6年の担任に嫌われていたんですよね。
先生としての義務は果たしてた。でも先生は私のことを嫌っていた。
さらに6年生の頃はいじめられていた記憶しかないわけで、
重松清が幾度となく題材に取り上げている「いじめ」と「先生」と「学校」というテーマは、
もうだいぶおとなになった私の胸にも相変わらず突き刺さる。
おとなになった私は、にんじんの気持ちも、先生の気持ちもわかる。
自分の子どもがやられたら許さない、でも先生は許しますよ。
この気持もとってもよくわかる。
学校については、ひと通りの嫌な思いをしてきています。
同じだけ楽しい思いもしています。
でも、やっぱり私にとっての学校は、窮屈な場所でしかなかった。
そしてその窮屈な場所で学んだことはとっても多かった。
いいこともわるいことも、人の中で生きていくことを学ぶ場所が学校なんだと思う。
学校にいい思い出のないひとや、家族のことで取りきれない傷を持っている人は、
きっと重松清の小説を読むと少し救われた気持ちになると思うので、おすすめです。
いい先生ばかりじゃない。
そして先生だって歳を経るごとに成長する。
どう成長するかはわからないけれど、私のことを嫌っていたあの頃の担任の先生も、
私がどうしても生理的に受け入れられなかったあの先生も、
今どうなっているのかなぁ。と思うことはあるのです。
生徒の自分が親の自分になって7年。
気がかりなことはたくさんあって、特に心配なこともいくつかあって、
「ああ、親なんだなぁ私」って苦い思いで噛み締めることも多い最近ですが
今日の個人面談よりも大事な三者面談は来週。
少し戦ってこないとなりません。
親の気持を子どもに届けるのは、本当に簡単で難しいことなのかもしれません。

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カテゴリー: 日記

はじめて泳いだ海の底 とっても気持ちがいいもんだ 2011-11-13

まいにち まいにち ぼくらは てっぱんの 
うえで やかれて いやになっちゃうよ
あるあさ ぼくは みせのおじさんと
けんかして うみに にげこんだのさ
(およげ!たいやきくん/子門真人)

芸術なんてやってる男はみんなダメ男だ!(暴言)
ダメ男がダメな会話を繰り広げる、どうしようもなくダメな感じの舞台を観てきました。
すっごく面白かった。
舞台はパリ。芸術の都パリ。
時代は1974年~1976年。
なぜか日本人ばかりが集うバーのなかで話は進む。
シチュエーションコメディなので、笑いどころもわかりやすいし話もちゃんと流れる。
だめーな人たちのグダグダの中に、形のないもので生計を立てていく人たちの葛藤が読み取れます。
小学校6年生の頃。
「やまなし」という、宮沢賢治の小説が国語の授業で出てきました。
クラムボンは笑ったよ。クラムボンはカプカプ笑ったよ。
というカニの子の台詞を抜粋して、
「クラムボンというのはなんのことでしょう?」
という課題が出されたのです。
クラムボンがなんのことであるのか、この小説のなかでは大きな問題ではなくて
クラムボンがなんだって別にいいと思うのです。
そこを抜き取って、「ううむ。クラムボンとはなんぞや」なんて、
小説を読む人の姿勢ではないと、12歳の私は思ったのです。
だから、「なんだかわからないもの」と答えたのです。
先生はその答えを評価してくれなかった。
お魚って書くのが模範解答だったようですが。
やっぱりあれは未だに納得がいかない。
話がそれたように見えますが、形がないものとはこういうこと。
受け取る人にとって、感じ方も評価もまるで変わってくるもの。
そしてその中に不正解はひとつもない。
形がないものを作り続けてそれを仕事にするということは、
自分の依って立つところが不安定であやふやなまま、ということなのだと思います。
自分のなかでの作品の評価と、手に取った人の作品の評価がずれることとか。
え、こんなんでいいの?ってものが大受けしてしまったり、
ものすごく苦しんで生み出したものが全く受けなかったり。
SLみたいなところで物を作って売っていても思うことなのです。
頑張って作ったものは売れず、手癖で作ったようなものがもてはやされることは日常的にあること。
そんな中で、自信を持って「いいものつくります」って言い切るのはなかなか難しい。
そういうあやふやなところで生きている男の人達ってのは、これはもう悲しいくらいにダメで女々しくてグダグダなんだけれど、とっても可愛らしい。
お前そんなことでそこまで落ち込むなよwwwwみたいなところで落ち込んじゃってる姿が可愛い。
ちょっと頭の作りが残念な似顔絵描きの役を三宅弘城がやっていたのだけれど、
事あるごとに、「愛しいな」って言うわけです。この人が。
それ以外のことは全部とんちんかんなのに、「愛しいな」だけが妙に説得力があるのです。
私はやっぱりダメな人が好きなんだなぁ。と、思いっきり実感してしまいました。
私自身もダメな人だしなぁ。。。苦笑
芝居は全体的に深く考えずに観られる楽しいシチュエーションコメディ。
俳優さんもみんなうまいのでそのあたりの演技も堪能できました。
大倉孝二好きだー。みのすけ好きだー。


伝えたい事は本当に伝わらない。
見事に伝わらない。
どうでもいいことはわりとさくさく伝わってしまうというのに。
伝えようと思うと変質してしまったり、意味が違ってしまったり、
そのものをそのまま伝える術はないのでしょうか。ね。
届いてるなぁ、と思える瞬間があるのは、だから貴重で素敵な瞬間なのだと思うのです。
届いてるなぁ、という感覚こそが誤解であったとしても。


今日の1曲は、芝居の中で重要な役割を担う一曲。
ラスト、みんなでこれを歌うシーンは、かなり印象的でございました。
(歌詞はちがうんだけどね。。。w)

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カテゴリー: 日記

ベイビー 綿いっぱい愛を君とわけよう 2011-11-10

爛漫 恋する二人の心はモコモコ
何度も綿いっぱい
ようやく お休みを言ってやっぱりムクムク
起きちゃったまたする?
(綿いっぱいの愛を!/特撮)

工事中の集中力のなさは自分でも信じられないほど!
午後3時くらいになると、仕事したくなくてたまらなくなります。
眠いし。。。
意識飛んでるし。。。
確かに派遣ってのは挿げ替えの効く労働力なんだけどさ。
でもそれをまるっと出されるとなんとも言えない気分になるよね。
知らされないところで着実に何かが進んでいる。
他でもない自分の事なのに、私には何も知らされないという事実。
こういう気持ちを抱えながら、仕事に対するモチベーションを上げるのは至難の業だよって話。
あーもー勤める人なんてやめたい。
ごきげんよう、たいこです。
いきなり愚痴。しかもRL話。
SLでは、割と楽しい出来事で埋め尽くされていて、それがあるから毎日頑張れるよ私は……と、
力なく笑ってみたりしよう。うへへ。
ここのところの私のSL活動。
人様のバーに友達を連れ込んで大騒ぎ。
私が心底「こいつおもしれー」と思う素敵なお友達と。
そして心の底から爆笑。
あれだけ笑うと、普段のストレスも憂鬱な出来事も吹っ飛ぶよね。
涙流して笑いました。
何がそんなに面白かったのかは不明。
翌日はそのバーがご縁となって、なんだかすごく贅沢な遊びをさせてもらえることに。
波野家のブログとかここのブログとかでそのうち遊びの内容をお知らせできたらなと思います。
本気で全力で遊ばないと面白くない、から、かなり本腰入れようと思います。
まずはSLやらPCから離れた作業を今週末にでも。
わーーーい!楽しみーーーー!
そういう機会を惜しみなく与えてくれた方に感謝。
みんなで楽しめたらいいなぁと思います。
乞うご期待。
その下調べを兼ねて、友人とあっちこっちプラプラ。
何かを作り始めるときは、ノリと勢いが何より大事です。
この瞬発力を良い感じに生かしたい。


宝船のようなコミュニケーションが発生しそうです。
価値あるものが山盛りに積まれていて、
さらに、それを受け取ったところへ
自分も、どしどし手持ちの宝物を
積み込んであげられるのです。
どうしてわかったの?
と聞きたくなるような、
今一番欲しいものとひきかえに
どうしてわかったの?
と、相手が聞き返してくるような
相手にとってものすごく役に立つ物を
積み込んであげられそうなのです。

今週の占いより。
まるで私の理想のコミュニケーション。
そこはかとなくあたってる気がする。
占いは、先の事を読むのも楽しいのだけれど、過去の分を読んで振り返るのも楽しいです。
この先私どうなっちゃうんだろう……なんていう不安は、占いでは解消できない。
大切なのは、なんで今自分がこの立ち位置にいるのかっていう確認をすることだと思うのです。
そうすると、自然と先の見通しが立つ。
この方の占いは、文章が好きなのです。
うまく言えないけれど、とても占いっぽくない占いなのです。


自分とまったく違う感じの他人の弱点には優しくなれるけれど、
自分もかつて持っていたような弱点に関してはまったく優しくなれないのは仕様ですか。
同族嫌悪って、今現在の自分に似ているよりも、かつての幼い自分に似ている事柄のほうがつよく出る。
だから自分の子どもたちに対して、時折えもいわれぬような嫌悪感が生まれるのだよなぁ。
自分に性格の似ている子どもを育てるのは、本当に至難の業でございます。
余裕のない時は、大抵自分に似ている子にあたってしまったりするわけでございます。
日々暮らしていると、これはある意味どうしようもない事で、
だから私は余裕のある時に、子どもに対して、
「ごめんねえ。なんだかがっつり甘えてしまっております」
というような事を話すようにしています。
最近、うちの小さい人達は自分の意見を私に言い返すほどに成長してきていまして、
ああ、もうすぐ反抗期ね。なんて思ったり、一番上の子に限ってはすでに反抗期に突入していたり。
私も「ああ言えばこう言う」と言われ続けて育った子どもなので(笑)、
口喧嘩ではそうそう負けない自信はありますが、きっと親子の喧嘩で大事なのは
勝ち負けじゃなくて納得する過程なんだよなぁ。って思う。
でも負けず嫌いだし、「ああ言えばこう言う」子どもが大人になった人なので、とりあえず口喧嘩では相手を負かしてしまうwwwwww
わあ私って可愛くないwwwwwwって思うのです。こういう時に。
可愛い大人になりたいっっっ。
今までより手が抜けなくなってきたよなぁっていう実感。
人間関係がアツくなってまいりました。家の中で。


楽しい話、というのはいろいろな種類があって。
内容なんかあってないような話題でひたすら笑うような種類のものと、
自分の思いや考えをじっくり相手に投げかけて、返してもらうようなずっしりしたものと。
どちらも楽しい話なのだと思います。
昨日はどっちもあってなんだか贅沢な日でした。


SLで長く楽しめる人は、楽しいことを見つける才能のある人だと思う。
楽しいことはたくさんあるのだけれど、世にあるゲームやサイトのように、
「さあまずはこれをやって遊びましょう」
という説明が一切ないのがセカンドライフ。
それは自分で見つけていかないと、見事に何にも出会えない。
じゃー私にとってのSLの楽しさってなんなの?
人と出会えることと、脳みその中のお花畑を可視化できること。
インターネットとリアルでは、知りあう人の母数が圧倒的に違う。
その母数の差こそ、ネットの面白さだと思う。
ここのところ、パタパタと新しい出会いがあって、つながっていってるのだけれど
出会う母数の多いこういう場所だからこそ、その中で特別に仲良くなる事ってすげえ事だなぁと感じる。
あいも変わらず受身満載の私の人付き合いですが、
少し前から私の人付き合いの課題は、「ちょっと積極的になれ」ってことだったりしますが、
まだちょっとハードルが高そうなので、もう少し「基本受身」の姿勢で行ってみよう。
来年の春には私はどういう暮らしをしているんだろう。
相変わらず半年後の自分が見えなくて、こんな35歳どうなの!って自分でも思う。
でもさ、今年の3月にみんなきっと思い知ったよね。
先のことなんて本当にわからないよね。
今私にわかるのは、何かの境目を自分が通過した感じがするっていうくらい。
扉を開けたら今までとはちょっと違う景色が目に飛び込んできた!みたいな感じ。
それはすこしこわくて、すこしわくわくする光景なのです。


今日の日記はびっくりするくらいとっ散らかったなぁ。。。

ベイビー 綿いっぱい愛を君とわけよう はコメントを受け付けていません
カテゴリー: 日記