そう 僕は天使なんかじゃない
君の名前は神様なんかじゃない
あいつはちっとも仏様じゃない
(人間/銀杏Boyz)
狂えばカリスマで吠えれば天才、死んだら神様です。
久しぶりに銀杏Boyzなんて聴いております。
なつかしーなつかしー。
と、たまに聴くたびに思ってしまうのはなぜなのか。
それから家でキーボード叩いてると左腕がしびれるのはなぜなのか。
うちのパソコン、「なのか」で7日はおかしいだろう変換。。。
ごきげんよう、たいこです。
日々、IMEがバカな子になってる気がします。
30年後の世界、40年後の世界、50年後の世界って考えると、
私は今35歳なわけで、それぞれ65、75、85歳になっている。
私、再開発も甚だしい地域に住んでおりまして。
さらに自分の住まいの団地の建て替え計画なんてものもありまして。
これが15年計画。
15年後の自分はなんと50歳。おいおい50かよ。。。
子供たちはみんな家を巣立っていることでしょう。15年後。
そんな遠い未来に綺麗な家がもらえても仕方がなかろう、なんて思う。
その前に結婚を…!再婚を…!ゲフンゲフン。
こういうことを言ったり書いたりしていると誤解されてしまいそう!
結婚とか再婚とか、焦ってないからね!
するって決めてるだけだから!
こうして色々な誤解に上塗りを重ねる。
話が逸れまくった。
昔、10歳年上の人とお付き合いをしていた頃のこと。
私もいい歳だったんで、残された時間ってのを計算してしまって、むやみに切なくなったものです。
自分の10年間を振り返って、これから来る10年、20年の時の短さに思いを馳せてしまったのですね。
私が40になったら相手は50、私が50になったら相手は60。ああ、残された時間が10年分短い!
というような。
阿呆です。
しかしですね、なんだ、あれです。
30年計画だの40年計画だの聞くと、その時の切なさが蘇るのです。
自分が観る可能性のとても少ない未来のことに想いを馳せるとですね、なんだかやりきれない。
50年後、生きていても85歳。
その頃の私の行動範囲や楽しむベクトルって一体どっち向いてるんだろう。
今、85歳のおばあちゃんが35歳だった頃、世の中はどんなだったんだ。
再開発でくるくるとめまぐるしく変わる町並みを眺めるにつけ、うっすらと心のなかに漂う虚無な感じ。
どうせ私はその中にはいられない。
この世のどんなものにも生まれた場所があって、死にゆく場所がある。
そうよこの世界は幻よ
みたいな、大して目新しくもない題材な歌を聴いてふと我に返る、私の40年後、50年後。
その時には自分の下の世代が、だからそのために今!なんて考えるのは嘘くさい。
自分が死んじゃえばその後の世界のことなんて知らないよ。ってのが実際のところの本音じゃなかろうか。
「将来のことを考えると、こんな時代に子供を作るなんてかわいそう」
って、わりとよく聞いてきた台詞なんですけれど。
そんなあんたは何様だと思ったりする。
いつの時代がいい時代なのか悪い時代なのかなんて、誰にもわからない。
日本は終わりだとか世界はもうどうにもならないとか聞くけれど、
私は100年前の日本や世界がどうだったのか全然知らない。
66年前の日本がどうだったのか全然知らない。
200年前だって知らない。
何をもってして「ダメな時代」っていうのかがさっぱりわからないんですけれど、
多分200年前や100年前や65年くらい前より今の時代のほうが人は死にづらい。
生きる事に必死にならなくてもなんとなく生きてしまえるだけの余裕が出来てる気がする。
死なないようにしないと死んでしまう時代ってのは、割と長かったと思うんだ。
何をもってして、「これから生まれる子はかわいそう」っていうのか、
私には全然わかんない。
今生まれた子たちが大人になって社会で活躍し始めるのは2~30年後。
その時間の間に世界で何が起きるのかを知ってる人は誰もいない。
未来を嘆く人たちの言葉を聞くたびに、なんだかもやもやとしてしまう。
50年後の世界がどうなってるか、見ることがかなわないかもしれない切なさと、
50年って俯瞰で見てしまうとすごく短いのに自分の人生に重ねたらものすごく長い!みたいなギャップと、
そんなに長くて短い50年とかを真剣に憂うことのおかしさ。
100年後の世界、を見ることは絶対にないけれど、
自分の孫みたいなものが出来たら、その孫は100年後を観るよね。
遠いんだか近いんだかわかんない100年。
まったくとりとめがないけれど、そういうことをずっと考えつつ自転車を走らせていたのでした。
金曜日。