サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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お前はやれることをやるさ こわけりゃ声出しやるのもあり 1、2、3、4 2017-10-26

想像できたかい 5年後の世界
晴れの日雨の日嫌でも来るぜ
空想できたかい 5年後の世界
ぎこちない色のないコマ撮りの映画みたいだ

(5年後の世界 / 特撮)

 

いつまでも暑い気がしていたのに、いきなり駆け足で秋がやってきました。秋が駆け足すぎて気持ちも体もついていくのが大変でございます。

ごきげんよう、たいこです。

生きるってのは、RPGみたいなものですね。世界を救うために勇者はひたすら戦ってレベルを上げ、強いボスと戦って次のステージへ行く。次のステージの前には、大抵強いボスがいるものです。ぎりぎり勝てるか勝てないかくらいの。試練。
次のステージに行く直前が一番大変なのですよね。

私がそれをきちんと実感したのは11年半前くらいです。今思い返しても、あの時の出会いや別れは一切無駄がなかった。RPGのシナリオのように、そうなるようにそうなった。そこでボスに勝てるかどうかは、登るステップの大きさによるのもRPGみたいだなあと感じます。

ゲームには敵が出てきますが、私が戦ったのは私自身でしたし、おそらく皆そうなのではないかなと思います。私は当時、どうしても幸せになりたかった。どういう事が幸せなのか、どんな自分になったら、自分は自分が死んだときに「全てこれでよかった」と、よく頑張ったと思えるかどうか、そんな事ばっかり考えていました。

それは、自分との終わらない対話です。1年後、3年後、5年後に自分がどうなりたいのか、どうなりたくないのか、その望みを叶えるためには、今、自分はどうするべきなのか。
自分が本当にほしいものは、一体何なのか。正解がわかっていたって、抗いきれない向かい風が吹いてきたり、負けそうになったり、踏ん張ってみたり。11年前の私は、本当によく頑張りました。
こうやって今言えるということが、その時にきちんと正しい選択をしてこれたという証だと思ってます。

こういう経験をして、身にしみてわかったことは、私は一人ではきちんと歩いていけないということ。けれど自分次第で、助けてくれる人の好意は簡単に無になってしまうこと。

当時、私の近くで遠くで、心配して見守ってくれていた人たちがいます。励ましてくれていた人たちがいます。そういう力をもらった小説や映画があります。
ゲームで使う強い武器や防具は、私にとっては、私の周りで私のことを案じてくれるすべての人やものでした。私はこの時、そういう周囲の気持ちを自分の力に変える事を習得した。

当然私の人生は終わっていません。当然その後も、いろんな大小織り交ぜたボスが現れました。けれど私にはいつでも結構強い武器や防具を持つことができた。そして、その瞬間に感じるものは、まぎれもなく幸せだった。

世の中に、理由のある物事なんて一つもありません。
世界は混沌としていて、ただそこにあります。
そこには道徳や良心なんてものは関係ありません。理不尽で不条理なのがこの世界です。
だから、世の中のこと全てに意味がある。つなげていくのは自分自身です。
運命や宿命というものは、自分がそれを選んで意味づけているものです。だから、運命も宿命もある。自分を取り囲む世界に、自分自身がどのようなタグ付けをしていったのか、その沢山のタグが、その人をその人たりえている。
だから、どのような選択をしたって、それが正解か不正解かなんてことは本来ない。けれど自分に何か望みがあるのなら、自分の中には正解や不正解は存在するのだろうなあ、と思っています。

私は突き詰めると自分自身にしか関心がない。自分がこの世界でどう生きて、どう人と関わって、理想の自分にどこまで近づけるかという事だけが関心事なのですね。
しかし、自分を成長させて世界を解釈していく過程で、自分以外の人たちの存在は必要不可欠。それは、距離が遠いとか近いとかでなく、好きだとか嫌いだとか言うことでなく、その全てが。

私は私の周りの人は、好きな人も嫌いな人も、皆最終的に穏やかに笑えるといいなと思っています。自分のあるがままを認めて愛せる、そんな風になれたらいいのになって思っています。
大変そうな人がいれば、がんばれって思いますし、踏み外しそうな人がいたら、すごく心配します。でも、他人である私に出来るのはそこまでです。
そこまでしかできないけれど、気休め程度にしかならなくても、それが少しでも力になればいいなと思って、応援したり心配したりします。
届けえええええ 通じろおおおおお って、祈っています。

もう少し占いの腕があがれば、あともう少しだけ、力になれることが出来るような気がするのですが、この辺はもう少し修行しないとだめそうです。苦笑。

あー本当に、皆が穏やかに笑って温かい気持ちだけをやりとりしていられるといい。
私は本当に、切に、切に、願っています。


12年前前。本当にちょうど12年。七五三の時期が近づくと思い出す。
あの時私がんばったなあああって、毎年思う出来事。

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カテゴリー: 日記

あなたがあなたでなく 私が私でなく 2017-10-05

ジグソーのかけらの最後をきみにあげる
動き出すフォーチュンに飛び乗る勇気を確かめるまなざしが二人の始まり

(満月のフォーチュン)

 

十五夜です。太陰暦では帳尻合わせに閏月というものを使うらしいです。
13ヶ月めがある年があるってことなんですよね。
太陽はしっかり眺めることができませんが、月はしっかり眺めることが出来て、しかも形が変わっていくのがよいですね。あとでかい。
西洋占星術では、月は感情や癖なんかの、意識して表に出さないような本人の性質を司ると言われています。あとは妻とか母は月になります。
いわゆる星占いでは太陽の位置で診断しますが、太陽は表向き、意識して出している自分自身、そして夫や父です。
いかにも太陽と月の雰囲気そのものだなあ、なんて思っています。

ごきげんよう、たいこです。

そんなわけで、1年前の十五夜の次の満月から1年くらい経ちました。
やあ、1年かあ。早かったなあと思う反面、1年前ってだいぶ昔のことのようにも感じる、なんてありきたりですが、率直な感想です。
1年間、それなりに色々ありつつも、パートナーの人と仲良くしていられることはとても幸せなことです。感謝感謝でございます。

毎月、ああ、また満月が来たなあ。みたいな数え方をしていたので、やっぱり今日の満月は少し特別です。
夏目漱石が、I love youを「月が綺麗ですね」と意訳したっていう話は有名ですが(これはガセだという説が今は主流だそうです)、これが成り立つシチュエーションや関係性ってすごく限定されるよね。素敵な比喩表現というのは、その背景やシチュエーションが合致して初めて成立するものです。私はこの表現はとても綺麗だなと思いますが、それ故に安易に使われている場面を見ると、少し残念な気持ちになります。
言葉は自分以外の誰かに何かを伝える手段です。1番大切なのは、伝えたい相手に伝わることです。言葉にならない気持ちや物事っていうのも確かにあって、そういうものが言葉を介して確かに共有した、と思えるような瞬間はとても幸福なものです。伝えようという結構強めな意思がないと伝わらない気もしますし、そもそも伝わった、共有しているという実感すら、本当にそうなのかを確かめる手段がない以上、ただの思い込みかもしれない。

私はできるだけ誤解を避けたいと思うところがあって、その辺が特に過敏です。誤解をすることに関しても、誤解をさせることに関しても。これは、理解されたいという気持ちの現れの一つなんだろうなぁと思っています。これは誤解する・されることへの恐怖が原因のようなので、なかなか抜けない癖ではあります。
今は盤石に見える関係性も、明日突然壊れてしまうことだってある。そしてそれは大抵取り返しがつかない。それはとても怖いことです。
前述したとおり、誤解とかそうじゃないとかなんて誰にもわからないし、通じ合ってるかなんてのもわからないけれど、わからないからこそいつでも確認したいという気持ちになるのはよくわかります。私だったら、愛する人には「愛してる」と言われたいし、伝えたい(大好きでもいい。むしろ自分が伝える側だったら、1番しっくり来るのが大好きだなあと思う)。
これだけストレートに言われたとしたって、疑う余地は山のようにある。ただし疑ってしまうのは、その相手が大切で、なくしたくないから。不安の種なんていうものは、何がどうなったって尽きることのない。けれどそれって、裏を返せば、それだけ大切な人がいるということで、それは幸せなことだなあとも思うわけです。

当然これは私の考え方であり感じ方なので、そうじゃない人も沢山いると思います。けれど、言葉というものがなんのためにあるのか、ということは、常々頭に入れておきたいところではあります。伝わらなきゃ意味がない。

我が家には猫がいます。猫はたまに、私に向かって一生懸命何かを主張してきます。しかしこの主張、私は8割くらい理解できません。もったいないなあ、残念だなあ。私には言葉があってよかったななんて思ったりするのでした。伝えられるということは本当に幸せなことだなあ。


この1年、私は言葉だったりそれ以外だったりで、パートナーの人に関して沢山のことを学びましたし、理解してきましたし、パートナーの人も、私についてのいろんなことを学んで理解してくれていると思っています。1年分の理解です。
理解し、されるということが私にとっては最上の喜びで、そういうものを提供してくれるパートナーの人には、大好き!って思っています。

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