サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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君の憎しみさえも愛してた 例え離れていても そうです 2014-03-31

花や夢や時のロープは 僕らを結び
僕の過去と君の今とを
あー強く 糾える
(アザナエル / 特撮)


特撮のノリノリじゃないやつ。いい曲です。
作詞がオーケンで作曲がNARASAKI。
大槻さんはこの曲を自分で歌いたかったのだけれど、NARASAKI氏からNGが出ちゃって歌えなかったという。
その後、別のアルバムでオーケンver.として歌ったりしています。アンプラグドバージョンもある。
歌いたかったんだね、どうしても。いい曲なのでよくわかります。
しかし音程がちょっと難しくて、カラオケでも歌うのに難儀する1曲でもあります。
ごきげんよう、たいこです。
誕生日が過ぎると3月はあっという間に終わってしまうのですね。切ない。
なんやかやバタバタとしながら目の前にはもう4月。
4月に入ったら早々に舞台があったり入学式があったりで相変わらず仕事休みがちな日々なのですが、
1月からなんとなく始めている節約計画で、お芝居を控えるっていうのがあって。
芝居のチケットは公演の何ヶ月か前に発売する関係で、手持ちのチケットは残すところあと2枚です。
全く観に行かなくなるわけではないので、これからもちょこちょこ見に行くつもりですが、
単価の高い、後でテレビで観られるようなものは我慢する感じになりそう。。。仕方がない。
消費税の駆け込み需要っていうのの影響が、お仕事方面で出まくっています。
私の務めている会社は、いわゆる小売業なのですけれども。
配送センターがパンクしちゃっていて、全社的に社員が夜中にヘルプで入るという異常事態。
昼間通常業務をこなし、そのまま夜中まで配送センターで働いているようです。
どんどん社員の顔から生気が抜けていく……。
彼氏の人ももろに影響を受けていて、なかなか見ていて切ないものがあります。
私は仕事が嫌いなので、休日がなくなるなんて事態になったらこの世の終わりかってくらい落ち込む自信があるよ。
それでも毎日残業しながら休みなく働いていてすごいなあと思うのでした。
私はしっかり休んで、仕事がなければ定時で帰ってみたいな暮らしをしています。
いつもどおりです。
しかしまあ、中学生は今春休みなのでですね、家にずっといるわけです。
彼らが1日じゅう家にいると、家の荒れっぷりがはんぱない。もうやだ。


そろそろ桜が咲き始めました、とかいって週末外に出てないので、おそらく今日は結構綺麗に咲いているんではないのかなとわくわくしていますが。
桜が咲き始めると風が吹いて雨が降るのはなぜなのでしょう?
風が吹くと、ああ散ってしまうっていう思いと、桜吹雪の綺麗さとでたまらない気持ちになります。
とどめておけない。
本当はどんなものでも留めておけない。変化しないものはない。
そういう事を突きつけられる気がします。
老い先みたいなものが現実味を帯びてきている年齢だからかもしれません。
時間は限りがある。だから大切に丁寧に使わねばならない。
しかし、ついついぼけーっと浪費してしまったりで、ままなりません。
かといって、時間がさらさらと過ぎていくのが取り返しつかない気がして焦っても、結局空回りするだけで。
焦ることと先を見据えること、この辺の按配って難しいなあと思うのです。
そういう事は去年からずっと感じているかもしれない。
10年後にこうしていたいと思う自分から考えると、いまこうしているのが得策なのか、そうでないのか。
10年後に取り返しがつかない事態になることは今の一番の恐怖だったりします。
でも、何が正解なのかなんて、今の自分には全然わからないのですよねえ。
10年前は、この感覚がもっともっと強くてシビアだったなと思い返す。
目隠しして綱渡りしている感覚でございました。
絶対に足は踏み外せないけれど、どこに足を踏み出したらいいのかが見えないというような。
下に落ちていく事がすごく怖かったなあ。
今は踏み外しても落ちていくという感覚はないです。その分成長しているということか。
さて、今日1日過ごすと4月になってしまう。
2014年も1/4が過ぎ去りました。相変わらず早い。
しかしこの先がこの年の本番という気がなきにしもあらずでございます。
いい感じになるといいなあ。

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カテゴリー: 日記

ホーイ サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしていて 2014-03-28

どこまでも行こう この荒野をぬけ
緑に輝く あの丘まで
ホーイ サボテン 緑の光
バントラインと僕を照らしていて

(サボテンとバントライン / 筋肉少女帯)

このブログのタイトルにもなっている曲です。
暗いけどよい曲。
私も友達は多い方ではありません。むしろいない。
そういう自分は人としてどこか欠陥があるのではないかなと思うこともありますが、
それでも人ときちんと深く縁が結べたという経験はあるので、まあよいのでしょう。
長く長く続く友達というものに憧れます。
幼なじみとか。そういうの。
幼なじみというような人は残念ながらおらず、
子供の頃に近くにいたお友達はおとなになってみたらそばにいるには色々と難しい感じになっている。
何年か前、中学の友達なんて相手にしないというような事を私が言っていた、
という噂が同級生の間に流れたという話を聞かされたのですが、
実際のところそんなものを語るような同級生さえいなかったよ。私にはね。
ごきげんよう、たいこです。
とはいえ今の自分の感じに不満があるわけでもなく。
自分は自分のやり方で自分の周囲の人と精一杯関わっているのでした。
一緒にいる人とは同じ価値観を持っていないと成り立たない。
ある程度のベースが似ていないと、言葉をかわすことが出来ない。
それは今の私が痛切に感じているところです。
前述の話を聞かせてくれた同級生は、中学時代の私を「無理して周りに合わせているように見えた」
と語っていました。私に自覚などなかったのですけれどもね。
けれども、この歳になってみて納得するところはあったりなかったり。
変な人ってことなのでしょう。認めたくないけれども。


すごく書くのが遅れたのだけれど、土曜日にお芝居を観てきました。
ねずみの三銃士 万獣こわい」というやつを。
ねずみの三銃士とは、古田新太、生瀬勝久、池田成志というおっさん俳優3人組の事。
まあ、非常に演技のうまいおっさんたちです。大好きだ。
古田新太、生瀬勝久あたりはご存知の方も多いと思います。池田成志は知らない人も多そう。
でも池田さんは本当によい俳優さんなのです。もう大好き。
このお芝居、脚本は宮藤官九郎、演出が河原雅彦という本当に素敵すぎるラインナップで、
チケットとってからずっと楽しみにしていたものでございました。
いやあ、よかった。
面白いんだけど気持ち悪くて怖い脚本にさらに輪をかけたような演出。
たまたま1回の例外が、徐々に例外でなくなっていくというようなセリフがありましたが
まさにそういうお芝居でした。
良くも悪くも人っていうのは環境に慣れていく生き物で、
それは生きていくために必要な能力ではあるのだけれど、
それで普通とか当たり前とか常識とか、自分が今まで培ってきた価値観がぶっ壊れていく様は
見ていて本当に気持ち悪く怖いものでした。
そういうお話の本筋とは別に、常に絶妙なバランスで笑いどころがあったりなんだり。
その気持ち悪くて怖いものと笑いが同居しているあの感じがたまらなかったです。
このお芝居、全国を回るようなので興味のある方はぜひ、調べてみてください。


消費税とか年度末とかで世の中がとんでもない勢いで慌ただしいです。
私の働いているところでも、ちょっとした異常事態になっています。
それに拍車をかける形で、ちょっとびっくりするような組織改革があるとかないとか・・・・・・まじか。
これが吉と出るか凶と出るか、今のところまったく予想がつかないのですが、
自分を取り巻く環境がちょっと変わるかなあ、という気がしてきています。
世の中に変わらないものも終わらないものもない。
今いる環境が心地良ければ心地良いだけ、私達は変化を恐れる。勝手なもので。
私は今、変化することを恐れてはいないのでして、それは要するに今の環境に満足はしていないということ。
いい形のところでずっととどまっていたいとみんな思うけれど、そういう事はない。
なんだかやるせない話ではあります。
なんか主題とずれたきがする。


ごめんなさい。って言えることはすごく大事なことだと思う。
私は苦手です。
苦手だけれど、言います。たまに言えなくてあとでがっつり凹みます。
ああ可愛くないなあ、と思うのです。
なんだか冒頭の話とかぶってくるところが出てくるなあと思いながら思ったことをそのまま書いてみる。
私は一人ではきちんと生きてはいけない人間です。
もう、根っこが甘ったれで怠け者なので、叱ってくれたり頼ってくれたり、
心を通じ合わせる人が近くにいないと、どうも人としての最低限のラインすら簡単に超えかねない。
それではだめだと思うので、ここ何年かなんとか一人でもちゃんとできる人になろうと努力はしているのですが
いかんせん自分に甘すぎてなかなか思うように行きません。
で、一人でちゃんとして生きているとたまに砂を噛んでいるようなどうしようもない気持ちになったりするのです。
人と深く関わることでにっちもさっちもいかない距離まで近づかざるをえないものっていうと、
家族とか恋人とか配偶者とか、そういうものになるのだと思うのですが、
とくに恋愛は恋愛というものを思い描いた時に想像される、楽しくてパァっとしたものだけでは成り立たない。
それと同じくらいしんどい思いも気まずい思いもするし、傷つきもするのです。
そしてその苦い経験と時間の積み重ねこそが、その大切な誰かとの絆を作っていくものだと思っています。
適度に距離をおいてどろどろとかぐちゃぐちゃとかを上手に隠して、
自分が傷つかない絶妙な立ち位置で人と関わりあう、そういうのは特技に分類される事だと思う。
時と場合によって、そういうものを使う事はとても大切だと思う。
けれども、どろどろぐちゃぐちゃとしてめっためったに傷つくような、
そういう経験がないと、自分はいい感じに輝けないとも思っている。
いっぱい悩んで不安になって、確かめて話し合ってその先の道を探る。
そういうのは面倒だしエネルギーも使うけれど、それが人と関わる醍醐味とも思います。
人には調子のいい時も悪い時もあって、そんなつもりはなくても傷つけてしまうこともあれば、
あたってしまう事だってある。
そういうものを自分に向けて出してくれる事は、しんどいけれども嬉しい事だ。
落ち着いてから、ごめんねって謝ってもらうことも、とてもうれしいことだ。
私はとっさの時にあまり機転がきかない。
本当に、ちょっとした一言でその場の空気を軽くしたり、一瞬でも気が紛れたり、
なんだかそういう技を私は持っていない事が「なんだかだめだめだなあ」と思ったりもする。
ヒトゴトならばなんだって出来てしまうのですけれどね、相手が大切なら大切なだけ、
自分の気持ちはどんどん当事者になっていく。
そうなった時に、びっくりするくらい機転がきかなくてちょっと反省してみたりなんだりするのです。
こういうことを何度か積み上げていくと、今まで見えなかった相手の事がわかるようになったりする。
それには時間が必要だ。
些細でも気になったことはきちんと相手に伝えるという丁寧さ、真面目さに私はすごくすごく感動したのでした。


なんだか支離滅裂!言いたいこと、思ったことが全然形にならない!
というわけで、いつも以上にチラシの裏になってしまった日記ですが、そういうこともあるということで。。。

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カテゴリー: 日記

拝啓 この手紙読んでいるあなたが 幸せな事を願います 2014-03-22

負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は
誰の言葉を信じ歩けばいいの?
ああ 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は
自分の声を信じ歩けばいいの
いつの時代も悲しみを避けては通れないけれど
笑顔を見せて 今を生きていこう
(手紙~拝啓 十五の君へ~ / アンジェラ・アキ)

卒業式や入学式の式辞を聞いていても、いまいちピンと来ない私です。
そんなきれい事ばかりをあげつらっても誰の心にも届かないと思うの。
式辞って長いんですよね。。。特に卒業式。
色んな人たちが同じような事を繰り返し繰り返し語っていく。
今年はオリンピックに例えた話が非常に多かったです。ソチあったし東京オリンピック決まったし。
私の住んでいるあたりは、東京オリンピックに向けてあちこちどんどん色んなものが建つようで、
まったく他人ごとではない雰囲気ではあるのですが、肝心の自分がオリンピックに興味がない。
お祭りごとをするのはすごくいいことだと思うので、オリンピックはぜひ盛り上がったらいいと思っているのですが、
自分自身ではおそらくオリンピックの中継も会場にも行かないだろうなと。もうこれは仕方がない。
ごきげんよう、たいこです。
オリンピックの話じゃないんだ。卒業式の話なんだ。
そんなわけで19日は卒業式でした。
お誕生日も来たんだけど卒業式のインパクトに負けまくってしまいました。いいんだいいんだ。。。
我が子らの通う中学校は、いわゆる小規模校で1学年30~50人程度しかいません。
生徒数はだいたい120人くらい。
長男と一緒に卒業する生徒は34人でした。
いやあ、、、卒業証書授与なんてあっという間に終わってしまうの。34人。
式辞、送辞、答辞と続くスピーチ。
答辞を読み上げている最中、卒業生であるその生徒が何度も声をつまらせてしまう場面あり、
大半の大人たちがその感じにやられてうるうるしてしまったり。
子どもたちは小学校の卒業式の時も中学校の卒業式の時も「旅立ちの日に」を歌ったのですが、
これがいけなかった。
小学生にはアルトとソプラノしかなく、中学生にはアルト、ソプラノ、テノール、バスがある。
男の子の声は3年間でかなり野太くてたくましい声に変わるのですよね。
常々男の存在感にはジェラシーを覚えてきた私ですが、男声の力強さってやっぱりいいもんだなあ、と。
なんだか男の子だと思ってた我が子もしっかり大人になってるんだなっていう実感を。
楽譜もかなり高度になっていて、結構むずかしい合唱だったと思うのですが、(しかも34人で)
きちんと綺麗に歌えていました。
もっとびっくりしたのが校歌斉唱。
本当に男子の声が綺麗に響いて、その声に感動してしまった。
いまいちしっかりしていなくて、
高校このまま行ってきちんと卒業できるのかしらと不安を抱えていたのですが、先生とお話していた折、
「長男くんは変わりましたよね」と指摘されてなかなかうれしいやらちょっとホッとするやら。
この1ヶ月無遅刻っていうのは、すごいことだと思うよ。
34人の生徒に4人の教師がついているのですが、(これも小規模校ならではの贅沢さだと思う)
一人は教師1年目で1年生の我が子らについた先生、一人はこれがはじめての担任での卒業式。
そんなこんなで先生のスピーチを聞いて、またないちゃったりしたのでした。
別れる事は寂しいし悲しいのだけれど、そうして別れる事を惜しんで悲しんでくれる人がいるということは
とてもとても幸せなことです。
望んで小規模校に入学したわけではありませんが、
自分たちとの別れを惜しんでくれている先生たちの手触りがしっかりと伝わる、そんな環境で卒業ができる、
そしてそういう環境で思春期の入り口を過ごせた彼らはとても幸せなのだと思う。
正直他の中学からしたら、ぬるぬるのぬるま湯ではあるから、
高校でいきなりいわゆる学校の息苦しさを感じて大変な思いをするのかもしれないなとも思うのですけれど、
そうなった時に「ああ、中学時代は恵まれていたんだ」と思い出せればそれでいいと思ったりもします。
長男は、やっぱり幼いところも頼りないところも不安なところもたくさんあるのだけれど、
それでも何かが変わってきつつある。
で、そういう方向にかなりの手間や時間を割いて頑張ってくれた先生たちには頭があがらない。
あの年代の子どもたちは、扱うのも本当に大変だと思う。
一番大変な3年間を、繰り返し繰り返しそばで眺め続ける教師という職業は、
大変だけれど得るものも多いのかなあなんて思ったり。


そんなこんなで当日は半ばなかったことになっていた私の誕生日ですが、
翌日職場で各方面の方から祝ってもらいました。うれしい!
派遣仲間の女子チームからは手ぬぐいを頂き、
社員の営業さんからはお昼ごはんをごちそうになりました。
こういう些細な事が仕事のモチベーションに直結してしまうのですよねえ。。。
未だに長男と次男から「お誕生日おめでとう」の言葉はもらっていませんが(苦笑)。


SLでも19日から20日にかけて、色んな人からお祝いされたりお祝いもらったりしました。
ほんとにありがとう!
なんだか彼氏ができたよ!というタイミングとも重なって、誕生日以上のお祝いムードになっております。
その肝心の彼氏の人ですが、
指輪をプレゼントしたつもりがバングルで、それに気づいたのが今日(21日)。
「あれ、もしかしてプレゼントしたのってその腕輪だった・・・?」
「うん。腕輪だったよ!」
「ええええええ、ごめん!!!指輪だと思ってた!」
みたいな面白いやりとりをしたのち、
改めて指輪を送ってくれたのですがこれがどういうわけだかリサイズ出来ず、
最終的にペアリングを贈ってくれたりなんだりで私ものすごくいっぱいお祝いもらっちゃったよ!
なんだか本当にありがとう。もう、もらいすぎだと思うんだ私は。
プレゼントも嬉しかったのですが、ちょっと重たい話を聞いてもらっちゃったりして、
そういうのが何より嬉しかったり安心したり、なんだり。
私の世話をするのはすごく大変だと思うのですが、これからもよろしくお願いします。
と、私信のようなものをここに書いてどうする。


お誕生日が本当にひとつの区切りになったなあと実感しているこの三連休。
ちょっとびっくりするような出来事を聞かされたり、
なんであなたはそんなに引きがいいのか、と思ったり。苦笑いしてみたり。
ちょうど1年前と同じことを繰り返すような錯覚に囚われつつ、
しかし同じような事をしているようで絶対に同じにはならない。
ぐるぐると回りつつ、螺旋階段のように少しずつ少しずつ、現在地点の高度は増している。
去年よりも今年のほうが成長しているはずなのです。絶対。


明日、というか今日は久しぶりにお芝居を観てきます。
久しぶりの良席で、今からわっくわくなのです。わーい。
見に行くのは、ネズミの三銃士「万獣こわい」です。
河原雅彦の演出は本当に久しぶりにみるのだ。すごく楽しみ。

拝啓 この手紙読んでいるあなたが 幸せな事を願います はコメントを受け付けていません
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