サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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あなたがあなたでなく 私が私でなく 2017-10-05

ジグソーのかけらの最後をきみにあげる
動き出すフォーチュンに飛び乗る勇気を確かめるまなざしが二人の始まり

(満月のフォーチュン)

 

十五夜です。太陰暦では帳尻合わせに閏月というものを使うらしいです。
13ヶ月めがある年があるってことなんですよね。
太陽はしっかり眺めることができませんが、月はしっかり眺めることが出来て、しかも形が変わっていくのがよいですね。あとでかい。
西洋占星術では、月は感情や癖なんかの、意識して表に出さないような本人の性質を司ると言われています。あとは妻とか母は月になります。
いわゆる星占いでは太陽の位置で診断しますが、太陽は表向き、意識して出している自分自身、そして夫や父です。
いかにも太陽と月の雰囲気そのものだなあ、なんて思っています。

ごきげんよう、たいこです。

そんなわけで、1年前の十五夜の次の満月から1年くらい経ちました。
やあ、1年かあ。早かったなあと思う反面、1年前ってだいぶ昔のことのようにも感じる、なんてありきたりですが、率直な感想です。
1年間、それなりに色々ありつつも、パートナーの人と仲良くしていられることはとても幸せなことです。感謝感謝でございます。

毎月、ああ、また満月が来たなあ。みたいな数え方をしていたので、やっぱり今日の満月は少し特別です。
夏目漱石が、I love youを「月が綺麗ですね」と意訳したっていう話は有名ですが(これはガセだという説が今は主流だそうです)、これが成り立つシチュエーションや関係性ってすごく限定されるよね。素敵な比喩表現というのは、その背景やシチュエーションが合致して初めて成立するものです。私はこの表現はとても綺麗だなと思いますが、それ故に安易に使われている場面を見ると、少し残念な気持ちになります。
言葉は自分以外の誰かに何かを伝える手段です。1番大切なのは、伝えたい相手に伝わることです。言葉にならない気持ちや物事っていうのも確かにあって、そういうものが言葉を介して確かに共有した、と思えるような瞬間はとても幸福なものです。伝えようという結構強めな意思がないと伝わらない気もしますし、そもそも伝わった、共有しているという実感すら、本当にそうなのかを確かめる手段がない以上、ただの思い込みかもしれない。

私はできるだけ誤解を避けたいと思うところがあって、その辺が特に過敏です。誤解をすることに関しても、誤解をさせることに関しても。これは、理解されたいという気持ちの現れの一つなんだろうなぁと思っています。これは誤解する・されることへの恐怖が原因のようなので、なかなか抜けない癖ではあります。
今は盤石に見える関係性も、明日突然壊れてしまうことだってある。そしてそれは大抵取り返しがつかない。それはとても怖いことです。
前述したとおり、誤解とかそうじゃないとかなんて誰にもわからないし、通じ合ってるかなんてのもわからないけれど、わからないからこそいつでも確認したいという気持ちになるのはよくわかります。私だったら、愛する人には「愛してる」と言われたいし、伝えたい(大好きでもいい。むしろ自分が伝える側だったら、1番しっくり来るのが大好きだなあと思う)。
これだけストレートに言われたとしたって、疑う余地は山のようにある。ただし疑ってしまうのは、その相手が大切で、なくしたくないから。不安の種なんていうものは、何がどうなったって尽きることのない。けれどそれって、裏を返せば、それだけ大切な人がいるということで、それは幸せなことだなあとも思うわけです。

当然これは私の考え方であり感じ方なので、そうじゃない人も沢山いると思います。けれど、言葉というものがなんのためにあるのか、ということは、常々頭に入れておきたいところではあります。伝わらなきゃ意味がない。

我が家には猫がいます。猫はたまに、私に向かって一生懸命何かを主張してきます。しかしこの主張、私は8割くらい理解できません。もったいないなあ、残念だなあ。私には言葉があってよかったななんて思ったりするのでした。伝えられるということは本当に幸せなことだなあ。


この1年、私は言葉だったりそれ以外だったりで、パートナーの人に関して沢山のことを学びましたし、理解してきましたし、パートナーの人も、私についてのいろんなことを学んで理解してくれていると思っています。1年分の理解です。
理解し、されるということが私にとっては最上の喜びで、そういうものを提供してくれるパートナーの人には、大好き!って思っています。

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