サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
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どこまでも素直の無気力を愛してくれなんて 差し伸べただけ泥にまみれる 2016-09-24

くされた君の囲む言葉は GO WAY 焦るほどにあぶれて
言われ無き 噂に気を病み
負けず嫌いの根拠無しなら もう虚像キめて漂う
夢見がちの国で 跳ねる

猫科を装う暇な頭は FANCY 常夏の夜の飾り
意味なき抵抗で今を魅せる
上目遣いで世界舐めてる PINKY 疲れ果てた若さも
変われぬ瞬間に戸惑う
噛み切れないお肉をまだまだ口移しでせがむ
からかれてもすねて あーあ

僕と朝の露はいずれ消えるときを知り空に広がる
悲しみに塞ぐ君をも見ないであげる

(Fancy Pink / Guniw Tools)

まだぎりぎり20代の頃に好きだった人がGuniw Tools大好きで。今でもこのバンドの曲をきくと当時の空気が蘇ってきます。
「歌詞が痛いんだ」って言いながら満更でもない風で聞いていた人でしたが、そんなに周到に逃げても自分からは逃げ切れないよ、と思ったものでした。どうしようもない人だったのは間違いないですが、彼のおかげで私はおそらく大人の階段を登ったので感謝しています。今どこで何をしてるんでしょうね。

ごきげんよう、たいこです。
ブログなんて書いてる余裕あんのかよ!と、他ならぬ自分が突っ込みたい。でももう煮詰まっちゃったんだよ……。
そんなわけでSecond lifeはハロウィンに向けて盛り上がりはじめています。日本人からすると、お盆が去ったらまたお盆、みたいな感じですけれども、ハロウィンは収穫祭の意味合いもあるので、日本人的に考えると秋祭りとお盆が一緒になってやってきた感じでしょうか。そりゃお祭り騒ぎにもなるよね。と。

当然私はハロウィン、繁忙期です。作らないわけにいかないのです。しかし巷にはもうお腹いっぱいって数のカボチャが溢れている。魔女も。今年のハロウィンアイテムの一発目は、ラフレシアでした。ずーっと腐生植物や寄生植物をつくりたいなあと検索していて、あ!人に寄生させよう!ってなったのでした。SLに匂いがなくて本当に良かった。。ラフレシアって臭いんですよね。でもあの、いきなり花が生える感じと、デカさ、気持ち悪さはなかなかハロウィン向きなのではないかなと。
想定以上にさくさくと完成したので、やっぱり頭の中でパチっとハマったものは早いなあと思ったのでした。次は沖縄、それが終わったらWe <3 RP用のアイテムを作らねばなりません。その後TSS、Freak showと続きます。忙しいな、なかなか。

先月作ってはボツにしたあれやこれをここで活かせるといいのですが、どうなることか。。


私は、Second lifeは表現するゲームだと思っています。服を買って着ることも、何かを作ることも、家具を買って家を買って植物を買って箱庭を作ることも、それを撮影してFlickrやSNSに載せることも、ダンスを踊ったりすることも、それを動画にとってYoutubeなどで公開することも、等しく表現だと思っています。
表現をすることは楽しいことですし、みんな大いにどんどん表現していけばいいなって思っています。
Flickrに載せてる人はみんな上手だから……なんて考える必要はまるでないと思っています。うまくなければ公開したらだめなんてルールはないのだから。
そして、沢山公開された動画や画像を見てびっくりしたり感動したり感心したりするのです。楽しい。
私は自分の作品を動画や写真に使ってくれたらとてもうれしいですし、それが自分が思うよりも美しく見えたり、可愛く見えたりしたら、本当に幸せな気持ちになる。使ってくれて、それがいいと思ってくれてありがとうっていう気持ちになる。自分で生み出したものは、やっぱり生み出したときの自分の精一杯が詰まっていますから、古くても新しくても、よいと思ってくれるその気持は嬉しいわけです。
自分の作品は、自分の手を離れた時点で、それは手に取った人のものになります。私の作品は、スクリプトなどでどうにもならない一部のものを除いては、ほぼ全て編集可能です。それは、手に取った人が思ったように自由に使ってほしいなと思うからです。
自分で思ってもみなかった使い方をされているのを見るのも楽しいですし、自分が意図したとおりに使ってくれているのを見るのもガッツポーズが出ます。

表現というのは、一旦公開してしまったらそれはもう、自分の手から離れるものだと思っています。自分がどれほどの思いを作品に込めようとも、受け手がそれに気づかないなんてよくあることだし、誤解されることだってある。それもこれも全部、受け手の自由なのです。それは、世の中には本当に色々な考えや思いを持った人がいるなあ、という事を実感させてくれるのです。
私は自分の作品にはそりゃもう惜しみなく愛を注いでいますけれど、そんなのが他の誰かに伝わるとは思っていません。それは、自分のなかの話であって他人にお知らせすることではないからです。
私の作品を使ってつくった表現を見て、私が愛を感じるかどうかというのも、私だけの問題ですし、その表現者に対してなにをどう思うのかも私だけの問題です。だいたい自分の愛を誰かに押し付けるなんてことをした時点で、愛は愛ではなくなってしまいますからね。

なので、「愛が感じられない」というような批判は、しても意味がないのです。それは、受け取った個々が自由に感じればいい。

逆に言えば、それが通じたり伝わることは奇跡なのです。たまにそんな奇跡に出会えるから、表現することがやめられないのです。

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