サボテンとバントライン
ホーイ、サボテン 緑の光 バントラインと僕を照らしてくれ
Menu

ストローくわえた僕が見ているのは地球のいびつな嘘つきのプラネッタリウム 2019-11-08

僕が死んだ日 おじいさんは二階の屋根で 古いオルガン弾いてくれたのに
風船病にやられちゃった僕の顔は パンパンだから
嬉しい顔がちゃんとできない 嬉しい顔がちゃんとできない

(たま / おるがん)

 

 十数年前に、「さよなら人類」が懐メロ扱いされている現実を見て、軽く衝撃だったのですけれど。あっという間に更に十数年経ってしまいましたよ。もう完全にいにしえの曲ですねえ。

 

 私の子供たちは、日常的にトレイントレインやらモンパチやら天体観測やらを口ずさんでおりまして、どこで覚えたのかを聞くと、友達がカラオケで歌ってるとか言う。やっぱりいい曲というのは世代を超えるものなのだなあ!というよりは、彼らのご両親の影響の方を強く感じますね。カラオケが日常に浸透した結果とも。
 私が親から受け継いだのはユーミンでしたが、当時はカラオケが流行りだした頃でしたので、あまり友人の前でユーミンを歌うことはなかったように思います。カラオケで歌える流行の歌を必死で覚えるみたいな文化の時代。懐かしい(笑)なので今、自分が若い頃に聴いてどはまりしたものを、子供たちが私以外のところから仕入れてきて好んでいる様は、見ていて少しくすぐったい感じがします。

 子供は大きくなるにつれ、親との物事の見方や考え方の差がなくなっていきますし、すでに成人している(しかけている)息子たちに至っては、私の目線は対等です。「お友達みたいな親子」っていうの、一時期すごいよく聞くフレーズだったけれども、本当にお友達みたいな親子関係が築けるのって子供が働き始めてからだと思うよ。養われてるうちは対等にはなれないものね。
 対等の視点に立つ子供たちは結構辛らつな言葉を投げてもきます。実はここからが子育て(というか子供とのかかわり)の第三幕くらいじゃないかなあと感じています。第四幕は、おそらく子供が結婚した時に開幕する。ここでこじれると自分自身の人生の終幕がだいぶ変わってくる予感がしていて、本当に気が抜けない。うそです。日常的にうっすら意識している程度です。ただ、このあたりで子供を下に見る事をやめないと、子供と私のハッピーエンドは訪れないと思うよ。。と、自分と親との親子関係(現在進行中)を省みて強く感じます。

 私の育った家は、そのエピソードだけで「渡る世間は鬼ばかり」が3,4本出来上がるくらいの濃さでした。
長男の嫁、嫁が最初の彼女だった説が濃厚な長男、その母(鬼畜)、いびられる嫁とその発散先に使われる子供たち。
嫁が憎けりゃ孫まで憎い祖母(鬼畜)、しかしその嫁も気質は女王でわがまま。自覚はない。みたいなー!
 自分の家族の悪いところをあげつらうのは不毛ですけれど、ここ数年、私は母のよいところを見つけられずにいます。私は生まれてから30年くらい、母に「お母さんだいすき教」みたいな宗教に入れられて洗脳されていたみたいなものなので、致し方ないかもしれません。ちなみにこれは敢えてひどい言い方で書いています。読み返すとちょっとやばい人に見えますね!

 母のおかしなところが見えてきたのは、自分が離婚してから。洗脳されてたなーと自分では思いますが、これたぶん世間一般でいうところの親離れですね。ただ、当の母にはその自覚はなく、自分のわがままさや自己中心的な考え方には気づかないでいます。だから歩み寄れない。
そんな感じで今日にいたるまで、孫(私の子供たち)も巻き込みつつ、母とは色々とごちゃごちゃしております。もういい歳なので、あの感じが変わる事は死ぬまでないのだろうなあと思うのですけれど、ずっと近くにはいられないなあって思っています。自分が傷ついてしまう。

 人は人を求めがちなものですけれど、人と人が集まると本当にごちゃごちゃするのですよね。関係が近ければ近いほど。そもそもひとりでいれば何でも自分の好きなようにできて、自由で、我慢することもなくて楽なんです。でも寂しくなる。誰かと一緒にいれば、心温まる瞬間や心底安心する瞬間などを体験できますが、そもそもそれは心が寒くなる瞬間や不安でいっぱいになる瞬間があればこその感覚です。ひとりの時に不安でいっぱいになる事はあるので、これは人によるかもしれませんが(笑)、なんていうかその代償として、ある程度の自由は奪われる、と思っています。その自由のなさは、一緒にいる相手の事を尊重する事でうまれます。

 わずらわしさも増えます。お互いの「これがしたい」が噛み合わないときには話し合いをする必要があります。時には喧嘩になることもあるけれど、これは非常に煩わしい。ただ、こういう経験の積み重ねで、大切な誰かを少しずつ深く理解していくことになるのだと思うのですよね。

 この世で誰かが自分の事を深く理解してくれている、しようとしてくれていると感じる事は、とても幸せなことだなあと私は思うのです。
 この感じは生きているかぎり、その関係が続いている限り、ずっと心に留めておかねば成立しないやつだと思っていて。親であろうと子であろうと、夫婦や鏡台であろうと、自分自身でさえ、自分の事を理解しきることは不可能です。だから、分かった気持ちになってしまうことが一番怖い。そう思ったら関係は崩れ去る。

 何かあったときに、きちんと自分の気持ちを伝えられること、伝えられる環境を作ること、拒絶しない・されないという信頼感を崩さないようにすること。書くだけなら簡単なのですけれど、実践するのは本当に難しいですね。

 失敗したなと思ったら、すぐにその気持ちをつたえてリカバリーすることが出来る事、また、そういうものを受け入れる心のゆとりを持つこととか。

なんか、そういうことが他人と真摯に向き合うって事なのかなあと思ったりしています。

 恋人も他人、夫婦も他人、親子も他人、兄弟も他人です。自分が何にどう感じたのか、どう思ったのか、それが好ましいものかそうでないものか、我慢できる類の事なのかそうでないのか、そういった事は伝えなければ他人には伝わらない、ということを、特に甘えがちな相手に対しては忘れないようにしていたいと思います。

 そして、感謝を。そばにいてくれてごたごたしてくれることに対して、本当にありがとうと思っています。

カテゴリー 日記